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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「名前の話」の続きは週末くらいまで無理そうなので、行間に埋もれた文章を発掘するコーナー!

っていうか、没ネタ特集ですw

姓と氏、名字(苗字)の違いを話し出すと長くなりますし、難しくなるのでさわりだけ。例えば、伊達氏は藤原氏(藤原姓)を称したんだけど、これってわかりにくいですよね。藤原商事の伊達支店ってところでしょうか(なおさらわかりにくい)

「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の四姓(橘氏は早くに衰えた)が名流と意識されると、後世の人々の多くがみずからの出自をこれらに求めた。信長は最初藤原氏(藤原姓)を称したが、のちに平氏(平姓)に改めている。家康も源氏(源姓)を称したが、実際のところはあやしい。

平氏というと、平将門や清盛を輩出した桓武天皇の子孫、桓武平氏が有名だが、ほかにも任明天皇や光孝天皇の子孫にも「平」の姓を賜った者がいる。「平」の由来は桓武天皇が築いた「平安京」に由来するという説がある。

源氏は清和源氏が有名だが(実際は陽成天皇の子孫だったのではないかという異説がある)、臣籍降下した際にもっぱら源氏を名乗る例が多く、二十一流あるとも言われる。「源」の由来は皇室と祖を同じくする(「源」が同じ)ところから来ている。

藤原氏は大化の改新に功績のあった中臣鎌足が藤原姓を賜ったことに始まるが、なぜ「藤原」なのかはっきりしない。なお、この藤原氏とは別に、「藤原」の地名に由来する藤原氏もいるので、区別が必要である。藤原氏は中央だけでなく地方でも繁栄し、中でも藤原秀郷は平貞盛とともに平将門の乱を平定し、子孫はおもに東国で栄えた。奥州藤原氏も秀郷の子孫である。

ちなみに、「豊臣」も天皇からの賜姓だが、なぜ「豊臣」になったのかは「君臣豊楽」に由来するなど諸説あるがはっきりしない。「豊富」でなく「豊臣」であり、「臣」という文字が入っているところに朝廷側の思惑が感じられるが、最終的には秀吉が認めたようである。朝廷の深意に気付かなかったのだろうか。
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橘が一番歴史があるんじゃきw
中臣-藤原バトンはナシねw

結局、戦国大名も
人気のよりどころはブランドってことで、
源平や藤原氏を引っ張ってきたんだねー。
んだから、そいつらが絶頂期の時の史書も結構残ってるのに引き換え、私が大好きな南北朝は、、、トホホ状態だしw

ってなわけで、秀吉もさすがに朝廷の意図を認めて、それでも引き受ける度量の深さを出してたんだと思うよ。んじゃなきゃ、関白ナンテマニアックな職欲しがらないでしょw
ぼっこ 2011/06/08(Wed)21:30 編集
橘氏は敏達天皇の子孫
藤原(中臣)は神別でほかは皇別(天皇家になってからの分流)だからねw

このへんの説明はわかりにくいのですが、「ブランド」と言うとたしかにわかりやすくなる気はしますね。どうせほとんどが自称ですしw

南北朝はぜひ語ってくださいw

秀吉はねえ、「マジック」があるから、裏で朝廷と取引というか妥協していた可能性は否定できないよねえ。平氏と源氏はそれなりの説があるんだけど、藤原と豊臣はなぜ「それ」になったのかはっきりしないんだよねえ。不思議。
Rakuna 2011/06/08(Wed)23:03 編集
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