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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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『喧嘩両成敗の誕生』
清水克行、講談社選書メチエ、1,500円+税

読メ感想から興味を持って手に取ったが面白い。史料からの豊富な事例と平易な文章で喧嘩両成敗法の誕生以前からの室町期の人々の意識を追っていく。両成敗法は戦国大名の強圧的な秩序形成策ではなく、自力救済社会の中から生まれた紛争解決の法慣習の蓄積と位置付けているのは目から鱗。
織豊期を経て江戸時代に入り、自力救済から裁判へと収斂していくのだが(家綱や綱吉の功績も大きい)、赤穂事件に対する反応を見ても衡平、調和という意識は江戸時代にも消えることはなく、現代にも残っている。

【追記】

裏表紙に「中世、日本人はキレやすかった! 大名から庶民まで刃傷沙汰は日常茶飯事」とありますが、トラブルがあったらすぐに命の危険にかかわるという社会では人々は安心して暮らせません(米国の銃社会を想定してもらえばわかりやすいと思う)。

室町期(だけではない)では、トラブルがあっても権力が護ってくれるとは限らない、というか、幕府の権力が弱いため、当事者がやりあう「自力救済」ということになって、このままだと紛争が延々と続くことになります。人々も愚かではありませんから、紛争解決の手段として「折中の法」や「解死人の制」などを生み出すことになり、その延長上に喧嘩両成敗法が誕生することになります。

本書では、喧嘩両成敗法は戦国大名の強圧的な秩序形成策ではなく、自力救済社会の中から生まれた紛争解決の法慣習の蓄積と位置付けています。戦国大名も単に喧嘩両成敗を目指したわけではなく、実際は喧嘩になる前に大名に訴えることを求めていました。

「中世、日本人はキレやすかった」という一方で、もっと昔、聖徳太子が憲法十七条に、仏教や天皇の詔より前の第一条にまず「和をもって貴しとなし」としたように、日本人には意識の底に「和」、すなわち調和を求める意識がありました。(聖徳太子の実在、あるいは憲法十七条が創作かどうかはともかく、条文は720年成立の『日本書紀』に記載されている。)

これは怨霊信仰(怨みを買いたくない)とも関係するのでしょうが、仮に自分に非がなかった、あるいは相手の方に自分を上回る非があったとしても、日本人は勝ち過ぎを避ける傾向にあって、さらに周りの目を意識して、勝ち過ぎと見られることをも忌避する傾向にあるのではないかと思います(いまも)。

そうなると、事実をとことん突き詰める(それ自体を最初からしないわけではない)とか、「白黒つける」ことは必ずしも至上命題ではなく、いかにして、お互いのメンツを保つか、丸く収めるか、ということの方に意識が向けられることになります。事実がどうかも軽視するわけではありませんが、お互いが「納得」するかが重要であって、それが「和」ということになります。

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