兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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黒田氏というと、宇多源氏佐々木氏の一族とされる。
近江源氏とも呼ばれ、佐々木秀義の四人の子が頼朝に仕えて繁栄した。
婆沙羅大名として知られる佐々木道誉(京極高氏)を初め、
六角氏や京極氏は子孫である。
黒田氏も先祖を京極氏につなげているが、詳しい系譜は不明である。
はっきりしているのは、官兵衛(孝高)の祖父重隆の代からで、
播磨姫路で目薬を売っていたという。
ドラマでも「目薬屋」と言われる場面があるが、
商人の身から武士に成り上がった黒田氏を蔑んだ言い方である。
(官兵衛は本気で嫌がっていたのかもしれない)
さて、今回のドラマでは赤松氏がとても悪い人に描かれるようである。
ゲームにおける播磨と言えば、赤松やら浦上、別所やら弱小大名が
ひしめく地だが、そもそも播磨の守護は赤松氏であった。
赤松氏は村上源氏を称しているが、
著名になったのは赤松則村(円心)が、
後醍醐天皇に味方して挙兵してからである。
その後は足利尊氏に従って、
室町幕府では山名氏、一色氏、京極氏とともに、
四職(侍所の長官である所司に任じられる四家)と称せられた。
1441年、赤松満祐は恐怖政治を取った六代将軍足利義教(くじ将軍)を
自邸に招いて殺害。のち討伐軍と戦って敗死した。
赤松氏は衰退するが、遺臣が南朝に奪われた三種の神器(勾玉)を
奪還したため、その功を認められて復興する。
赤松氏が(しつこく)播磨で争うのはこういう背景があってのことである。
(赤松氏自体も一族でどろどろに争っておりますが)
信長が権六勝家に「俺が死んでほしいのか」的なことを訊いたのは、
かつて勝家が信長の弟信行(信勝)を擁して、信長に反旗を翻したため。
以前に書いた通り。
http://naraku.or-hell.com/Entry/1175/
信長にボコボコにされ、いったんは許されて、勝家は信長に心服するが、
信行はまた反乱を企て、仮病を装った信長に招かれて殺された。
(ドラマでのシーンの補足)
近江源氏とも呼ばれ、佐々木秀義の四人の子が頼朝に仕えて繁栄した。
婆沙羅大名として知られる佐々木道誉(京極高氏)を初め、
六角氏や京極氏は子孫である。
黒田氏も先祖を京極氏につなげているが、詳しい系譜は不明である。
はっきりしているのは、官兵衛(孝高)の祖父重隆の代からで、
播磨姫路で目薬を売っていたという。
ドラマでも「目薬屋」と言われる場面があるが、
商人の身から武士に成り上がった黒田氏を蔑んだ言い方である。
(官兵衛は本気で嫌がっていたのかもしれない)
さて、今回のドラマでは赤松氏がとても悪い人に描かれるようである。
ゲームにおける播磨と言えば、赤松やら浦上、別所やら弱小大名が
ひしめく地だが、そもそも播磨の守護は赤松氏であった。
赤松氏は村上源氏を称しているが、
著名になったのは赤松則村(円心)が、
後醍醐天皇に味方して挙兵してからである。
その後は足利尊氏に従って、
室町幕府では山名氏、一色氏、京極氏とともに、
四職(侍所の長官である所司に任じられる四家)と称せられた。
1441年、赤松満祐は恐怖政治を取った六代将軍足利義教(くじ将軍)を
自邸に招いて殺害。のち討伐軍と戦って敗死した。
赤松氏は衰退するが、遺臣が南朝に奪われた三種の神器(勾玉)を
奪還したため、その功を認められて復興する。
赤松氏が(しつこく)播磨で争うのはこういう背景があってのことである。
(赤松氏自体も一族でどろどろに争っておりますが)
信長が権六勝家に「俺が死んでほしいのか」的なことを訊いたのは、
かつて勝家が信長の弟信行(信勝)を擁して、信長に反旗を翻したため。
以前に書いた通り。
http://naraku.or-hell.com/Entry/1175/
信長にボコボコにされ、いったんは許されて、勝家は信長に心服するが、
信行はまた反乱を企て、仮病を装った信長に招かれて殺された。
(ドラマでのシーンの補足)
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