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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

弟も頭が上がらないお兄さん
 
家康は義久と会うと、過去の功名話をせがんだというが、義久は再三固辞しつつ、「自分で手を砕いた働きというのは一つもない、すべては弟義弘や歳久、家久たちを遣わして合戦させたに過ぎない、それが勝ちを収めたに過ぎないのであって、自分に働きというものは何もない」と言うのであった。これを聞いた家康は、「自ら手を砕くことなく勝利を得ることこそ頼朝公にならぶ誠の大将の道。さてさて龍伯殿(義久のこと)はうるわしき大将である」とほめちぎったという。
 
たしかに、源頼朝も弟の義経や範頼を派遣して、西海において平氏を滅ぼした。室町時代後半には島津氏は頼朝の御落胤の末裔という話が広まっていたから、これを意識した話である。家康(「源氏長者」である)に「先祖の頼朝公に似ていらっしゃいますね」と言わせたことがこの話の裏の趣旨である。しかし、島津氏は鎌倉時代から続いているが、江戸時代になるまで(義久以前)上洛した当主は一人しかおらず、義久が家康と面会したという記録もない。となれば、この話は創作に過ぎない。
 
1587年から翌年にかけて義久は長期上洛しており、このとき家康と会った可能性はあるが、この逸話は関ヶ原の戦いで家康が天下を取ったのち、二人が老年になってから、という設定のようであるから、やはり創作であろう。
 
ちなみに、家康は頼朝の愛好者(「ファン」と言った方が早い)で、鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』を愛読していたというが、家康は天下を統一した豊臣家の天下を奪ったためか、(秀吉のように)九州から東北まで赴いたということはない。朝鮮出兵の時に肥前名護屋まで行っているが、戦いとしては、西はせいぜい大坂まで、東は会津攻めの時に宇都宮まで行ったくらいである(会津攻めでは戦っていない)。東海道を往復しているうちに天下を取ったと言うことができなくもない。ともかく、頼朝のように鎌倉に「座して」天下を取ったとは言い難いのだが、天下を取るのに、西の端から東の端まで行ったということはない。
 
052 島津義久 【しまづよしひさ】 1533-1611(前編)
 
幼名は虎寿丸。通称は又三郎。初名は忠良とするが、祖父と同一である。次の名は義辰とし、弟義珍(義弘)とともに、将軍義輝(あるいは弟は義昭)からの偏諱とするが、疑問がないではない。ここでは義久で統一する。修理大夫。従四位下。号は龍伯。
 
貴久の嫡男として生まれ、1566年に貴久の隠居により家督を継ぐと、父の果たせなかった薩摩、大隅、日向の三州統一に向けて邁進する。日向の伊東義祐とは日向南部を巡って長く争う。1567年には伊東氏によって飫肥城を落とされており、一進一退の攻防が続いていた。義久は弟義弘を派遣し、加久藤、飯野の両城を守備させた。1572年、伊東氏が三千の兵でこれを攻めると、義弘はわずか三百の手勢でこれを撃破。寡兵をもって大軍を破ったことから、この木崎原の戦いは「九州の桶狭間」とも言われている。多くの武将を失った伊東氏はこれをきっかけに衰退が始まり、1577年、伊東義祐は日向を捨てて、縁戚である豊後の大友宗麟を頼った。ここに島津氏は念願の三州統一を果たす。 



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なぜ顔に家紋の十字がついているのかはよくわからない…。
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