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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

幼い頃は大人しい性格だったというが、祖父の忠良は「義久は三州の総大将たる材徳が自ら備わっている」と評価していた。

052 島津義久 【しまづよしひさ】 1533-1611(後編)
 
九州制覇の野望
翌1578年、大友宗麟が伊東氏の旧領回復を図り、六万と称する大軍を率いて日向に攻め入ってくる。義久は義弘、家久らとともに二万の兵でこれを迎え撃ち、耳川の戦いで大勝した。以後、大友氏の勢力は衰退し、相良氏や阿蘇氏は島津氏に誼を通じた。以後、北上を進め、1584年には、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を敗死させた。
 
大友宗麟は秀吉に助けを求め、1585年、秀吉は九州に惣無事令(私戦の禁止)を出して停戦を命じたが、島津氏は頼朝以来の武門の家柄であり、「由来なき仁」である秀吉の命令を無視して戦闘を続ける。1586年には大友氏の家臣である高橋紹運を攻めて岩屋城を陥落させる。さらに秀吉が派遣した豊臣軍(仙石秀久、長宗我部元親、信親、十河存保ら)を戸次川(へつぎがわ)の戦いで破る(長宗我部信親、十河存保が戦死、仙石秀久は所領の讃岐に逃亡し、のち改易)。なお、このあたりの九州北部での戦いは主に弟家久によるものである。
 
1587年、秀吉が二十万を超える大軍を率いて九州に攻め込んでくる。秀吉は小倉に至ると兵を二分し、一つは弟秀長を大将として日向に向かわせ、もう一つは自らが率いて筑後から薩摩に向かった。九州の諸大名の大半は豊臣方に従い、島津軍はほとんど抵抗できなかった。秀吉は九州上陸からわずか一ヶ月で薩摩に入り、泰平寺に陣を置いた。義久は剃髪して龍伯と改め、秀吉に謁見して降伏した。義久は降伏したものの、一部は抗戦を続けており、義久は彼らに降伏を勧告する一方で、三州の領土保全を工作している。
 
秀吉は義久降伏の翌日に薩摩一国だけを安堵した。その後、義弘に大隅一国(肝付一郡のみ伊集院忠棟)を「新恩」として与え、久保に日向の一部を与えた。久保は義弘の子で、男子のなかった義久は久保に娘亀寿を嫁がせて後継者と決めていた。翌年に日向の残りが義弘に与えられ、この時点で、島津氏はほぼ三州を回復した。
 
秀吉は当初、島津氏には薩摩一国だけを安堵するつもりであったというから、三州をほぼ回復したというのは義久の工作が奏功したと言えよう。なお、島津氏以外の九州の領主は高橋元種(延岡城主、臼杵郡など)、秋月種長(櫛間城主、児湯郡と諸県郡の一部など。関ヶ原戦後、高鍋に移る)、伊東祐兵(飫肥城主、那珂郡など)である。
 
家中の不和
義久の降伏から間もなく、弟家久が病死。急死であり、豊臣・島津氏による毒殺説もあるが、最近では否定的な見解が多い。朝鮮出兵では家臣が反乱を起こして(梅北一揆)、首謀者として弟歳久に切腹を命じている。また後継者である久保が朝鮮で客死。久保の弟忠恒(のち「家久」と改める)を後継者としている。秀吉は義弘を事実上の島津氏当主として扱ったが(義弘に大隅を与えたことを含めて、島津氏の分裂を策したともいう)、義久は依然として実権を握り続けた。これを「両殿体制」という。
 
家臣の伊集院忠棟は秀吉から大隅のうち肝付一郡を与えられていたが、石田三成らと昵懇になり、領内の検地後にはさらに日向に所領を与えられた。豊臣政権と接近し、権勢を誇るようになった忠棟は島津家中の反感を買う。1599年、忠恒は伏見の島津邸で忠棟を殺害する。忠棟の子忠真は日向で挙兵し、庄内の乱が起こった。家康の仲介もあって、忠真は島津氏に従うが、1602年に殺害された。関ヶ原の戦いで、義弘が寡兵を強いられたのは、義久・忠恒が忠真を警戒して義弘に兵を送らなかったことが一因である。
 
関ヶ原の戦いでは義弘が西軍に属したが、義久は義弘の独断であるとして義弘を桜島に蟄居させると、家康と講和交渉を行い、一方で戦争準備も進めた。和戦両様の構えで一年半に及ぶ交渉を続けて、忠恒に対し所領が安堵された。西軍に属した大大名の中で所領を安堵されたのは島津氏だけである。毛利、上杉、宇喜多、佐竹などはいずれも大減封、もしくは除封となっている。
 
以後は、義久、義弘、忠恒による「三殿体制」となる。義久は正式に当主の座を忠恒に譲って隠居したが、死ぬまで絶大な権力を持ち続けた。忠恒が一元的に領土・家臣を掌握するのは、1611年に義久が死に、1619年に義弘が死んでからである。



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娘の亀寿は義弘の子久保、その死後は久保の弟忠恒(家久)に嫁いだが、不仲であったという。

秀吉や家康といった天下人に対しても一歩も引かなかった気概が島津氏を存続させたと言っていい。

大名としては存続しなかった大友氏との差を見る。
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