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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今日は日中のお天気もまずまずというところで、
平穏無事に毎日を送りたいですね。

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今年を振り返る

去年の今頃は重たい仕事にようやく目処がついて一息、といったところでしたが、今年も、仕事の内容こそ変われど、重い仕事をいくつも背負って遠い道を行くが如し・・・。ただでさえ人手が足りないのに、人が抜かれるのは勘弁してほしいです。年明けも仕事が積もっていますが、仕事自体をなくすか、PCで効率化するか、アウトソーシングするしかありません。仕事が片付いていかないとストレスも溜まります。こればかりは上の人に通してもらうしかありません。

さて、去年は「艦これ」「城プロ」「FFRK」・・・とゲーム三昧でしたが、今年はこのどれもやっていません。いまは別のスマホのゲームを3つほど掛け持ちしていますが(片手間)、そこから脱却すべく「読書メーター」を始めたのが奏功しつつあります。読書は代理体験(疑似体験的な意味で)ですから、いろいろの人の知見を得たいですね。

それにしても、特に年の後半はほとんど更新できませんでした。つまずきは年明け早々、『新解釈 関ヶ原合戦の真実』(白峰旬)を批判しようとして、史料も集めて12,000字ほど書いたのですが、脱稿には至りませんでした。このロスは痛かったですね。ついで、『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎)の批判も9,000字ほど書いて、そのうちのいくつかはブログに載せましたが、批判するのも馬鹿らしい内容で、あまりすっきりしませんでした。

「読書メーター」は250字という制限があって、ここに収めるのがなかなか難しいのですが(書ききれない部分はブログにも書いています)、「簡にして要を得た」短評にこそ、書き手としての能力が問われると思うので、訓練も兼ねて続けていきたいですね。ふと横を見ると積読本が10冊を超えていますが・・・。読書自体は全部を読んで全部を理解する必要はないのですが、「読メ」に書くとなると、最後まで読了しないとならないでしょうからね。

世界情勢は混沌としていますし、経済もいつまで凪が続くでしょうか。中国か欧州か、それとも中東かロシアか、はたまたアメリカか、日本か・・・。

個人的には大腸ポリープの切除手術も受けましたし、目、肩、腰、腕なども疲労が抜けませんが、心身ともに健康に留意しながら、来年も過ごしていきたいと思います。

ということで、今年も一年間ご覧いただきありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
『戦国武将 敗者の子孫たち』
高澤等、洋泉社歴史新書y、890円+税

■豊臣政権で考えてみる

 豊臣政権は秀吉、秀次の後、秀頼が後継者となりましたが、秀頼は幼く、家康の専横を許すことになりました。しかし、政権(公儀)としての権威、あるいは軍事力は残っており、秀頼、あるいは秀頼を擁する勢力が幕府と抵抗する可能性は十分にありました。要するに脅威だったということです。家康自身も最初から秀頼を潰すことだけを考えていたとは思いませんが、秀頼の取り込みに失敗すると、大坂の陣で秀頼、豊臣政権を滅ぼすに至りました。家康は秀頼に子がいたことを知らなかったようですが、のちに男子(国松)、女子(天秀尼)が捕えられると、男子は処刑し、女子は出家させて、豊臣宗家の血は絶えさせています。

 ただ、本書でも記されている通り、豊臣完子(父は秀次の弟、小吉秀勝、母はのちの秀忠正室、お江の方)は豊臣家の血を引いていますが、この系統は絶えずに残っており、五摂家の九条家に流れた血は天皇家に入っています。

 話を秀頼、その子国松に戻します。敗者の子孫が生き残っている(根絶やしにされていない)理由の一つとして、子孫自身、あるいは誰かが子孫をかついで叛乱するのは考えづらかったということがあります(大義名分がない)。しかし、たとえ本人(例えば国松)に対立する勢力(ここでは幕府)を倒す意思や能力がなくても、豊臣政権の正当性である血統を引いていることが幕府にとっては脅威ですから、幼少であろうと殺されることになります。これは平氏政権の血を引いた平六代も同様です。

 平治の乱で源氏に勝利した平清盛が源頼朝や源義経など、源氏の血を根絶やしにしなかったことが、のちに壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡することになりましたから、頼朝が念を入れたというのもあるでしょう。

■敗者の子孫のその後

 時は江戸時代に移って、釣書(身上書)に何代もさかのぼった血統書が付いているわけではなかったでしょうから、この人物に光秀や三成の血が流れているとは書面の形では残っていないとしても、その血に誇りを持っていたのであれば、口伝されていたと思われます。そうでなければ、敗者の血が途切れないように脈々と受け継がれてきたことが理解できません。

 「あなたには光秀の血が流れている、謀叛人とされたが、いずれ立派になって汚名を雪ぐのですよ」くらいのことは代々伝えられてきたとしてもおかしくはありません。汚名を返上する時が来るまで血脈をつなぎ続ける静かな戦い、立身出世しないとしても名立たる大名や公家、そして皇室にもその血が流れ込んでいく、ここに敗者の子孫の執念を見ます。まるで血統自体が意志を持っているかのようです。(了)

『戦国武将 敗者の子孫たち』
高澤等、洋泉社歴史新書y、890円+税

■石田三成の場合

 三成の子孫が、三成の子孫であるがゆえに、家康、あるいは幕府に抵抗するというのは考えにくいことです。関ヶ原の戦いの時点では、家康も三成も豊臣家の家臣です。戦後、家康は豊臣政権から離れて幕府を樹立しますが、家康と戦うために、三成の子孫というのは大義名分にはなりえず、豊臣家(秀頼)を擁立することが必要になります。三成ですら、名目上の総大将として毛利輝元を立てなければならなかったくらいですから、三成の子孫が立ち上がる(あるいは誰かが三成の子孫を擁して立ち上がる)というのはいずれも大義名分に欠けるでしょう。

 幕府からしても三成の血は脅威となりませんでしたし、豊臣側から見ても幕府との対抗上、価値のあるものではなかったのでしょう。幕府に対抗したければ、わざわざ実力不明な三成の子孫を擁するよりは、自分で豊臣家を擁して戦った方が自由に采配を振るえるというものでしょう。

 なお、関ヶ原の戦い後、三成の嫡男である重家は助命されています(生年は不詳だが、十代と言われる)、剃髪して仏門に入り、天寿を全うしています。二男の重成は陸奥津軽氏のもとへ逃れ、杉山氏と名を替え、弘前藩の重臣として続いています(詳細は本書へ)。

■くどくど書いてきましたが

 関ヶ原の戦い後、戦場を逃れた石田三成や小西行長、安国寺恵瓊といった西軍の首謀者は捕えられて処刑されています。

 一方で、名目上の総大将である毛利輝元や薩摩の島津義弘などは軍事的・地理的・政治的制約もあり捕えて処刑することは無理でしたが(のちの薩長である)、実質的な総大将である宇喜多秀家、あるいは真田昌幸を処刑することはありませんでした。秀家は八丈島、昌幸は九度山への配流となりましたが、いずれも子孫が残っています。特に昌幸の子信繁(幸村)は大坂の陣で豊臣方に付き、幕府軍を苦しめることになります。これは信繁が幕府には脅威と思われていなかったというか、ほとんど存在を知られていなかったことが要因でしょう。家康が「真田が大坂に入城した」との知らせを受けて「父か子か」と聞いた逸話はよくできた話ではあります。

 組織において個人(組織の長)の能力が占める割合が多い場合、その個人を除けば、組織が機能することは難しくなりますが、個人の地位が低下して集団が率いるようになることがあります。この場合、組織の長は名目的な地位に過ぎなくなっていきますが、その地位に就く正当性(正統性)は血統ということになります。

『戦国武将 敗者の子孫たち』
高澤等、洋泉社歴史新書y、890円+税

■明智光秀の場合

 本能寺の変の真相はともかく、光秀が信長と信忠を倒したことは、織田政権の中心人物とその後継者(および政権の担い手である吏僚的人々)を消し去ったということですから、光秀が好むと好まざるとにかかわらず、治安維持を含めた軍事や経済、外交など、政権としての役割を担わなければなりませんでした。光秀の真意かどうかはともかく、信長を討っただけで、後は「隠居したい」などと言ってもかなうものではありません。早速、光秀討伐を掲げる秀吉らと争うことになり、敗死するに至ります。

 この点から考えていくと、光秀の子孫が光秀に代わって秀吉の打倒を目指すのは困難でしょう。嫡子は山崎の戦いの後に死んだとされていますが、まだ十代の若さで、生きていたとしても兵を率いて立ち上がるのは無理です。光秀の遺臣が光秀の一族を擁して戦うというのもどうでしょうか。光秀の血そのものに権力を目指す上での正当性はありません(光秀の子孫、あるいは誰かが子孫を擁して立ち上がるだけの大義名分がない)。親の仇として私怨を晴らすとしてもついてくる人がどれだけいるでしょうか。

 それであれば、どこかの大名に仕えるか市井に紛れて生き延びるしかありません。秀吉としても子孫を草の根分けて探し出し根絶やしにするほどの脅威はなかったということでしょう。光秀の子孫は細川ガラシャ(光秀の娘)など女系を中心に続いています。

 明智光秀の血を引く(光秀の娘婿である左馬助秀満の子孫)という異説のある坂本龍馬が倒幕に尽力したというのは小説的な創作としては面白いかもしれませんが(そもそも坂本龍馬が「天下」を狙うようには見えない)。

 ちなみに、本能寺の変で倒れた信長と信忠の父子ですが、信忠はすでに織田家の家督を譲られており、織田政権の後継者としての地位を固めつつありましたから、信長が死んでも、信忠が生き残っていれば、信忠を中心に織田政権が続いていた可能性はあります。ただし、これは信忠までの話で、信忠の嫡子三法師(のちの秀信)は幼すぎたため、秀吉の簒奪を許すことになりました。これらは、豊臣政権(秀吉-秀次-秀頼)、江戸幕府(家康-秀忠-家光…)の続き方と比較してみるといいでしょう。現代の会社組織などを見ても、三代はおろか、二代続けるだけでもいかに大変かというのがわかります。

 信忠については評価の見直しが進んでいますが、唯一、評価できないのは、本能寺の変で死を選んだことでしょうか。二条御所から逃れていれば、再起を図る道もあったと思います。実際、信長の弟長益(有楽斎)は脱出に成功しています。信長も信忠も、光秀が謀叛したと聞いて、逃れることはせず、死ぬことを決めたというのは、潔いというよりも、光秀の能力を評価していた証拠だったのかもしれません。

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