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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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第1回
http://naraku.or-hell.com/Entry/1921/

第2回
http://naraku.or-hell.com/Entry/1922/


『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』
白峰旬、宮帯出版社、本体1,300円+税

■第一章(続き)
■■書状の由来
本書では、生駒利豊が書状を記した経緯として、松浦武氏の研究を引いています(『生駒家戦国史料集』)。

「あるとき、井伊直孝・坪内家定・安藤直次・成瀬正成たちが一緒になった。たまたま関ヶ原合戦の話になり、この合戦で福島正則の麾下に入り、尾張衆として参戦した生駒利豊の活躍に話題が及んだ。生駒利豊は普段から自分の手柄話をすることがなかったので、一座の誰もその実態を知らなかったため、後日を期することになったのか、坪内家定の子息の坪内定次が生駒利豊のところへ問い合わせてきた。それに対して、生駒利豊が坪内定次に対して返書を書いたのがこの書状である」

とのことですが、この通りとすると、書状は坪内定次が受け取って、その後は坪内家で代々保存されていたと考えられそうですが、本書では生駒陸彦氏が所蔵していたとしていますから、生駒家で保存していたと思われます。

ただし、これ自体は不自然なことではありません。毛利元就は、子供たちに出した書状を「読んだら返す」ように命じています。また、立花宗茂を「九州之一物」と評した秀吉の書状は宗茂本人に宛てられたものではありませんが、のちに立花家が黒田家から譲り受けたことから、立花家文書に収められています(立花家はこの文言をどこかから伝え聞いたということになります)。

あるいは、書状を送る際に、同じ文面を書いて手元に残すこともありますから、その場合は生駒家にこの書状(坪内定次に出した返書の写し)があったことになります。いずれにせよ、書状がどこでどのように開示されたかも含めて本書には記されていません。

前回も書きましたが、主張の根拠となる史料の信憑性の根幹となる部分の説明が欠けており、閲覧が容易ではない別の『生駒家戦国史料集』を見てくださいというのでは不親切と思います。



「戦国IXA」

© 2010-2015 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

元就は筆まめを通り越して、「手紙魔」とも言える人物ですが、毛利家に文書がよく遺されているのは、元就の性格とは無縁ではありません。


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