兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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原貢(はらみつぐ)さんが亡くなられましたね。
巨人の原辰徳監督の父で、同じく巨人の菅野智之投手の祖父に当たります。
(菅野投手は原監督の甥)
福岡県の三池工業高校の野球部監督として、
昭和40年(1965年)の夏の甲子園に初出場初優勝。
翌年、神奈川県の東海大相模高校の監督となって、
春夏合わせて8回の甲子園出場、
昭和45年の夏には優勝しています。
昭和49年には長男の原辰徳が東海大相模に入学し、
翌年の春のセンバツで準優勝し、
「親子鷹(おやこだか)」として話題となりました。
(この時は親子の関係を一切絶ち、厳しい指導をした)
その後は東海大の監督を務めました。
平成23年(2011年)のドラフトで、日ハムが菅野を強行指名して
交渉権を獲得すると激怒、菅野を浪人させることにしましたが、
「日ハムからのあいさつが一言もなかったのは人権蹂躙」
「あいさつもなしに指名するのは、だまし討ち」
などと憤った一連の発言は物議をかもしました。
今年になってから、神奈川県内の入院した貢氏を、
原監督が遠征先の名古屋から急遽戻って
病院へ向かったこともありました(5月5日)。
この間、川相ヘッドコーチが指揮を執りましたが、
野球選手(監督なども含めて)と言えば(野球に限らず)、
各地を転戦して試合をしており、「親の死に目には会えない」
のが普通と言われたもので、この行動には批判もありました。
まあ、交通や通信の発達もあるでしょうから、
かつてとは状況が違うのかもしれませんが、
選手に示しがつくのかなとは感じました。
指導者として多くの実績を残した人でした。
ご冥福をお祈りします。
巨人の原辰徳監督の父で、同じく巨人の菅野智之投手の祖父に当たります。
(菅野投手は原監督の甥)
福岡県の三池工業高校の野球部監督として、
昭和40年(1965年)の夏の甲子園に初出場初優勝。
翌年、神奈川県の東海大相模高校の監督となって、
春夏合わせて8回の甲子園出場、
昭和45年の夏には優勝しています。
昭和49年には長男の原辰徳が東海大相模に入学し、
翌年の春のセンバツで準優勝し、
「親子鷹(おやこだか)」として話題となりました。
(この時は親子の関係を一切絶ち、厳しい指導をした)
その後は東海大の監督を務めました。
平成23年(2011年)のドラフトで、日ハムが菅野を強行指名して
交渉権を獲得すると激怒、菅野を浪人させることにしましたが、
「日ハムからのあいさつが一言もなかったのは人権蹂躙」
「あいさつもなしに指名するのは、だまし討ち」
などと憤った一連の発言は物議をかもしました。
今年になってから、神奈川県内の入院した貢氏を、
原監督が遠征先の名古屋から急遽戻って
病院へ向かったこともありました(5月5日)。
この間、川相ヘッドコーチが指揮を執りましたが、
野球選手(監督なども含めて)と言えば(野球に限らず)、
各地を転戦して試合をしており、「親の死に目には会えない」
のが普通と言われたもので、この行動には批判もありました。
まあ、交通や通信の発達もあるでしょうから、
かつてとは状況が違うのかもしれませんが、
選手に示しがつくのかなとは感じました。
指導者として多くの実績を残した人でした。
ご冥福をお祈りします。
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