兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(中編)
展開する両軍
下野の小山会議で、会津攻めに従った軍勢の大半が(豊臣家の家臣である)家康と行動を共にし、(豊臣家の家臣である)三成らを討つことを約した。その後、家康は江戸に戻ったが、秀忠は宇都宮に残り、上杉勢に備えた。この時点で、この方面の総大将は秀忠である。家康の二男結城秀康がこの任に代わったのはこれより一ヶ月ほど後のことで、秀忠は三万余の軍勢を率いて西に向かうことになる。
関ヶ原の戦いというと、九月十五日の美濃関ヶ原での決戦だけを思い浮かべがちだが、両軍は各地で戦闘を繰り広げていた。言うまでもなく、東北では上杉家と最上家が戦っていたし、九州では黒田如水が大友家旧臣と戦っていた。畿内でも複数の場所で戦いがあった。家康家臣の鳥居元忠らが籠城する伏見城を落城させた西軍の一部はその後、伊賀、伊勢に進軍し、伊賀上野の筒井定次(順慶の養子)、伊勢安濃津の富田信高らを降伏させ、関ヶ原へと向かった。このほか、丹後では細川幽斎(忠興の父)がこもる田辺城を小野木重次(公郷)ら一万五千の兵が囲み(のちに勅命により講和、開城)、京極高次(室は淀殿の妹、江の姉)の近江大津城は立花宗茂ら一万五千の兵が攻めていた(本戦当日に開城)。東軍も秀忠の軍勢が中山道を進んでいたが、本戦には間に合わず、両軍とも戦力の集中に成功したとは言えない。天下を二分した戦いがわずか一日で終わると考えていなかったこともあろう。現に決戦以前に大垣城を前に対陣が続いていたし、小牧長久手の戦いでも両軍の対陣が半年に及んでいる。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
芸は身を助く。
秀忠軍の行動
秀忠軍の当初の目的は中山道筋の西軍の攻撃で、これはいうまでもなく、真田昌幸のこもる信濃上田城を攻略することである。上田城は中山道からは離れており、この城を落とさなければ西に向かえないという位置にはない。昌幸の挑発によって秀忠軍が上田に向かったわけではなく、秀忠軍はみずから上田城の攻略に向かったのである。
しかし、美濃方面での情勢が急変する。攻略に時間を要すると思われていた西軍方の岐阜城がわずか一日で陥落したのである(城主は織田秀信。幼名三法師、信長の嫡孫)。決戦の機運が高まり、家康は秀忠へ西上を促す使者・大久保忠益(忠世、忠佐兄弟のいとこに当たる)を送るが、忠益は大雨に阻まれて秀忠の元へ到着するのが遅れてしまった。秀忠の元に着いたのが九月の九日で、本戦まで一週間しかない。秀忠が西へ向かった時点で、すでに本戦に間に合うことは不可能だった。これを真田昌幸が戦巧者だったとか、秀忠が指揮官として無能だったと評価するのは誤りである。秀忠の責任ではない。

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上田城で二度、徳川軍を退けた「徳川キラー」であることは間違いない。
展開する両軍
下野の小山会議で、会津攻めに従った軍勢の大半が(豊臣家の家臣である)家康と行動を共にし、(豊臣家の家臣である)三成らを討つことを約した。その後、家康は江戸に戻ったが、秀忠は宇都宮に残り、上杉勢に備えた。この時点で、この方面の総大将は秀忠である。家康の二男結城秀康がこの任に代わったのはこれより一ヶ月ほど後のことで、秀忠は三万余の軍勢を率いて西に向かうことになる。
関ヶ原の戦いというと、九月十五日の美濃関ヶ原での決戦だけを思い浮かべがちだが、両軍は各地で戦闘を繰り広げていた。言うまでもなく、東北では上杉家と最上家が戦っていたし、九州では黒田如水が大友家旧臣と戦っていた。畿内でも複数の場所で戦いがあった。家康家臣の鳥居元忠らが籠城する伏見城を落城させた西軍の一部はその後、伊賀、伊勢に進軍し、伊賀上野の筒井定次(順慶の養子)、伊勢安濃津の富田信高らを降伏させ、関ヶ原へと向かった。このほか、丹後では細川幽斎(忠興の父)がこもる田辺城を小野木重次(公郷)ら一万五千の兵が囲み(のちに勅命により講和、開城)、京極高次(室は淀殿の妹、江の姉)の近江大津城は立花宗茂ら一万五千の兵が攻めていた(本戦当日に開城)。東軍も秀忠の軍勢が中山道を進んでいたが、本戦には間に合わず、両軍とも戦力の集中に成功したとは言えない。天下を二分した戦いがわずか一日で終わると考えていなかったこともあろう。現に決戦以前に大垣城を前に対陣が続いていたし、小牧長久手の戦いでも両軍の対陣が半年に及んでいる。
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芸は身を助く。
秀忠軍の行動
秀忠軍の当初の目的は中山道筋の西軍の攻撃で、これはいうまでもなく、真田昌幸のこもる信濃上田城を攻略することである。上田城は中山道からは離れており、この城を落とさなければ西に向かえないという位置にはない。昌幸の挑発によって秀忠軍が上田に向かったわけではなく、秀忠軍はみずから上田城の攻略に向かったのである。
しかし、美濃方面での情勢が急変する。攻略に時間を要すると思われていた西軍方の岐阜城がわずか一日で陥落したのである(城主は織田秀信。幼名三法師、信長の嫡孫)。決戦の機運が高まり、家康は秀忠へ西上を促す使者・大久保忠益(忠世、忠佐兄弟のいとこに当たる)を送るが、忠益は大雨に阻まれて秀忠の元へ到着するのが遅れてしまった。秀忠の元に着いたのが九月の九日で、本戦まで一週間しかない。秀忠が西へ向かった時点で、すでに本戦に間に合うことは不可能だった。これを真田昌幸が戦巧者だったとか、秀忠が指揮官として無能だったと評価するのは誤りである。秀忠の責任ではない。
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上田城で二度、徳川軍を退けた「徳川キラー」であることは間違いない。
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大河ドラマの予習としても。
「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(前編)
信玄、謙信、そして信長の亡き後、日本最高の野戦指揮官となると、徳川家康ということになるのだが、この人の指揮官としての能力が発揮されたのが関ヶ原の戦いである。いかんなく、とは言い難いのだが(それはこれから述べる)、この人でなければ、「徳川家」の勝利はなかったと言えよう。
関ヶ原の戦いについてすべてを語るとなると、かなりの紙幅を割かねばならないので、個人的に気になる部分について書いてみようと思う。特に今年の大河ドラマ、江の旦那である秀忠の弁護もしてみたい。関ヶ原の戦いに遅参したのは秀忠の責任ではない。
豊臣家中の対立
朝鮮出兵を主因とする豊臣家臣内の争いに目を付けた家康は両派(一般的に「武断派」「文治派」とされる)の対立に乗じる形でみずからの権力確立に向けて動き出す。利家死後の前田家を屈服させると、次は会津の上杉を攻めるべく東に向かった。これはあくまでも「豊臣家臣(その筆頭)」としての行動であり、家康が率いたのは豊臣家(正確に言えば、豊臣家を中心とする政治体制)の軍であって、家康の私兵ではない。また、家康が東に向かったことで、上方に生じた政治的・軍事的空白を突いて挙兵した石田三成らも豊臣家の軍を称しており、関ヶ原の戦いとは豊臣家臣同士の争いであった。「東軍=徳川」「西軍=豊臣」という認識は誤りである。関ヶ原の戦いに「勝利」した家康も、すぐに幕府を開いた(開けた)わけではないし、幕府を開いても豊臣家(を中心とする政治体制、それは戦後、極めて限定されたものとなったが)が消滅したわけでもない。大坂の陣まで二つの政治体制(「公儀」ともいう)が並存していたのである。ちなみに江戸時代の統治制度を「幕藩体制」と呼ぶが、豊臣家は徳川家の家臣ではないため、「豊臣家の大坂藩」は存在しない。ただし、大坂の陣後に松平忠明(父は長篠の戦いで知られる奥平信昌、母は家康の長女亀姫。家康の外孫に当たる)が短期間大坂城主を務めている(摂津大坂藩、十万石)。

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評価はともかく、この人なしで関ヶ原の戦いは始まらない。
予想以上に大きくなった西軍
さて、この戦い、家康にとっては当初から誤算続きであった。上方を留守にした間に三成ら反家康とも言うべき集団が挙兵することは企図通りであったが、その規模は家康の想定を上回るものであった。中でも五大老の一人であった毛利輝元が西軍の総大将に迎えられて大坂城に入ったことは衝撃であった。家康も毛利家の動向には注意を払っており、事前に輝元と起請文を交わし、「兄弟」のごとく親交することを約していたにもかかわらずである。三成が表に立たずに輝元を立てることは、三成に参謀として迎えられた大谷吉継の献策であるとされる(ただし、輝元の行動は毛利家中の意思統一のもとでなされた行動ではなく、吉川広家など家康派の人物も存在した)。また、もう一人の五大老、宇喜多秀家も家臣の一部を会津攻めに従軍させていたが、輝元の行動を見ると西軍に属した(会津攻めに従軍していた家臣の多くは東軍に転じた)。五大老のうち、前田利家はすでになく、子の利長は家康に屈服して母芳春院(おまつ)を人質として江戸に差し出していたが、家康は残る三人、毛利・宇喜多・上杉を敵に回したことになる。

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岡山での苛斂誅求は後に小早川秀秋にたたることになるのだが、それはまた別の話。
「戦国人物紹介」外伝・関ヶ原の戦い(前編)
信玄、謙信、そして信長の亡き後、日本最高の野戦指揮官となると、徳川家康ということになるのだが、この人の指揮官としての能力が発揮されたのが関ヶ原の戦いである。いかんなく、とは言い難いのだが(それはこれから述べる)、この人でなければ、「徳川家」の勝利はなかったと言えよう。
関ヶ原の戦いについてすべてを語るとなると、かなりの紙幅を割かねばならないので、個人的に気になる部分について書いてみようと思う。特に今年の大河ドラマ、江の旦那である秀忠の弁護もしてみたい。関ヶ原の戦いに遅参したのは秀忠の責任ではない。
豊臣家中の対立
朝鮮出兵を主因とする豊臣家臣内の争いに目を付けた家康は両派(一般的に「武断派」「文治派」とされる)の対立に乗じる形でみずからの権力確立に向けて動き出す。利家死後の前田家を屈服させると、次は会津の上杉を攻めるべく東に向かった。これはあくまでも「豊臣家臣(その筆頭)」としての行動であり、家康が率いたのは豊臣家(正確に言えば、豊臣家を中心とする政治体制)の軍であって、家康の私兵ではない。また、家康が東に向かったことで、上方に生じた政治的・軍事的空白を突いて挙兵した石田三成らも豊臣家の軍を称しており、関ヶ原の戦いとは豊臣家臣同士の争いであった。「東軍=徳川」「西軍=豊臣」という認識は誤りである。関ヶ原の戦いに「勝利」した家康も、すぐに幕府を開いた(開けた)わけではないし、幕府を開いても豊臣家(を中心とする政治体制、それは戦後、極めて限定されたものとなったが)が消滅したわけでもない。大坂の陣まで二つの政治体制(「公儀」ともいう)が並存していたのである。ちなみに江戸時代の統治制度を「幕藩体制」と呼ぶが、豊臣家は徳川家の家臣ではないため、「豊臣家の大坂藩」は存在しない。ただし、大坂の陣後に松平忠明(父は長篠の戦いで知られる奥平信昌、母は家康の長女亀姫。家康の外孫に当たる)が短期間大坂城主を務めている(摂津大坂藩、十万石)。
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評価はともかく、この人なしで関ヶ原の戦いは始まらない。
予想以上に大きくなった西軍
さて、この戦い、家康にとっては当初から誤算続きであった。上方を留守にした間に三成ら反家康とも言うべき集団が挙兵することは企図通りであったが、その規模は家康の想定を上回るものであった。中でも五大老の一人であった毛利輝元が西軍の総大将に迎えられて大坂城に入ったことは衝撃であった。家康も毛利家の動向には注意を払っており、事前に輝元と起請文を交わし、「兄弟」のごとく親交することを約していたにもかかわらずである。三成が表に立たずに輝元を立てることは、三成に参謀として迎えられた大谷吉継の献策であるとされる(ただし、輝元の行動は毛利家中の意思統一のもとでなされた行動ではなく、吉川広家など家康派の人物も存在した)。また、もう一人の五大老、宇喜多秀家も家臣の一部を会津攻めに従軍させていたが、輝元の行動を見ると西軍に属した(会津攻めに従軍していた家臣の多くは東軍に転じた)。五大老のうち、前田利家はすでになく、子の利長は家康に屈服して母芳春院(おまつ)を人質として江戸に差し出していたが、家康は残る三人、毛利・宇喜多・上杉を敵に回したことになる。
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岡山での苛斂誅求は後に小早川秀秋にたたることになるのだが、それはまた別の話。
「戦国人物紹介」
マイナー武将特集やりたいなあ・・・。
031 朽木元綱 【くつきもとつな】 1549-1632
弥五郎、信濃守、従五位下河内守。
朽木氏は近江源氏(宇多天皇の子孫)佐々木氏の庶流。『太平記』で知られる婆娑羅(バサラ)大名佐々木道誉(どうよ)、六角氏、京極氏などとは同族になる。佐々木信綱の二男高島高信の孫義綱が近江朽木谷に移り、朽木氏を称したことに始まる。若狭と京を結ぶ若狭街道の要衝に当たり、子孫は室町幕府に仕え、幕府直属の奉公衆として将軍を助けた。足利義晴や義輝など将軍が京を逃れたときに朽木氏を頼ったこともある。祖父稙綱、父晴綱の名はいずれも将軍からの偏諱である。
1570年、信長が越前の朝倉氏を攻めると義弟(妹であるお市の方の夫)浅井長政が信長から離反。信長はわずかな手勢とともに朽木越えで京を目指す。元綱は浅井氏に属していたが、松永久秀の説得に応じて信長を京まで嚮導した。その後は近江高島郡を領した磯野員昌、津田信澄(信長の弟信勝、一般的に「信行」で知られる、の子)に属する。
秀吉政権下でも所領を安堵されるが、次に名前が見えるのは関ヶ原の戦いにおいてである。西軍の招きに応じて本戦に参加し大谷吉継の軍勢に加わるが、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保とともに藤堂高虎を通じてひそかに東軍に誼を通じ、小早川秀秋が西軍部隊を攻撃すると、東軍に寝返り、他の三将とともに大谷吉継らを破った。ついで秀秋らと三成の居城であった近江佐和山城を攻撃する。戦後、朽木庄など九千五百石余を安堵された(戦前の二万石からすると減封になる)。大坂冬の陣にも従軍する。八十四歳の長命を保った。
死後、所領は三子に分割される。長男宣綱は六千石余を領する旗本となるが、宣綱の子は母(京極高吉の娘)の実家である京極家を継いで京極高通と名乗り、丹後峰山一万三千石の大名となった。三男稙綱は下野鹿沼で一万石を領する大名に取り立てられ、子孫は丹波福知山三万二千石で定着。

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2012年3月追加。ここで取り上げられたマイナー武将がカードになるとうれしいですね。画像も戦国乱世を生き抜いた元綱のイメージ通りではないでしょうか。
マイナー武将特集やりたいなあ・・・。
031 朽木元綱 【くつきもとつな】 1549-1632
弥五郎、信濃守、従五位下河内守。
朽木氏は近江源氏(宇多天皇の子孫)佐々木氏の庶流。『太平記』で知られる婆娑羅(バサラ)大名佐々木道誉(どうよ)、六角氏、京極氏などとは同族になる。佐々木信綱の二男高島高信の孫義綱が近江朽木谷に移り、朽木氏を称したことに始まる。若狭と京を結ぶ若狭街道の要衝に当たり、子孫は室町幕府に仕え、幕府直属の奉公衆として将軍を助けた。足利義晴や義輝など将軍が京を逃れたときに朽木氏を頼ったこともある。祖父稙綱、父晴綱の名はいずれも将軍からの偏諱である。
1570年、信長が越前の朝倉氏を攻めると義弟(妹であるお市の方の夫)浅井長政が信長から離反。信長はわずかな手勢とともに朽木越えで京を目指す。元綱は浅井氏に属していたが、松永久秀の説得に応じて信長を京まで嚮導した。その後は近江高島郡を領した磯野員昌、津田信澄(信長の弟信勝、一般的に「信行」で知られる、の子)に属する。
秀吉政権下でも所領を安堵されるが、次に名前が見えるのは関ヶ原の戦いにおいてである。西軍の招きに応じて本戦に参加し大谷吉継の軍勢に加わるが、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保とともに藤堂高虎を通じてひそかに東軍に誼を通じ、小早川秀秋が西軍部隊を攻撃すると、東軍に寝返り、他の三将とともに大谷吉継らを破った。ついで秀秋らと三成の居城であった近江佐和山城を攻撃する。戦後、朽木庄など九千五百石余を安堵された(戦前の二万石からすると減封になる)。大坂冬の陣にも従軍する。八十四歳の長命を保った。
死後、所領は三子に分割される。長男宣綱は六千石余を領する旗本となるが、宣綱の子は母(京極高吉の娘)の実家である京極家を継いで京極高通と名乗り、丹後峰山一万三千石の大名となった。三男稙綱は下野鹿沼で一万石を領する大名に取り立てられ、子孫は丹波福知山三万二千石で定着。
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2012年3月追加。ここで取り上げられたマイナー武将がカードになるとうれしいですね。画像も戦国乱世を生き抜いた元綱のイメージ通りではないでしょうか。
「戦国人物紹介」の畿内編もあと一人くらい書いておしまいですが、
まったく反響がなかったので(笑)、
このまま中国地方に行って、尼子、大内、毛利・・・
といくよりは、外伝っぽいものをまた書こうかなと。
関ヶ原あたり?
大河ドラマも秀吉が死んだようだし・・・。
家康の誤算と将器について。
信玄、謙信、そして信長亡き後の、日本最高の野戦指揮官ですが、
家康が関ヶ原(戦中のみならず、特にその直前を含めて)で
発揮した将帥としての能力はもっとも賞賛に値します。
ああ、このまま続けて書いてしまいたい・・・。
まったく反響がなかったので(笑)、
このまま中国地方に行って、尼子、大内、毛利・・・
といくよりは、外伝っぽいものをまた書こうかなと。
関ヶ原あたり?
大河ドラマも秀吉が死んだようだし・・・。
家康の誤算と将器について。
信玄、謙信、そして信長亡き後の、日本最高の野戦指揮官ですが、
家康が関ヶ原(戦中のみならず、特にその直前を含めて)で
発揮した将帥としての能力はもっとも賞賛に値します。
ああ、このまま続けて書いてしまいたい・・・。
「戦国人物紹介」
悪人を主人公にした小説というものがあって、それをピカレスク(悪漢小説)というのだが、悪人は悪人で人気がある。久秀の場合は妙な愛嬌もあって複雑な人物なのだが、そこも人気となる理由の一つだろう。単なる「悪人」ではない。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77 (後編)
文化人としての側面
最近では伊丹城の方が早いという説が出ているが、天守閣を創った嚆矢(さきがけ)とされる。安土城の場合は天主と呼ばれるが、このあたりも信長と久秀の近さを感じさせる。千利休と同じく茶の湯を武野紹鴎に学び、名物の茶器を集めて茶会を開いていたという。
唯物論者
真の存在は心ではなく単なる物質とするのが唯物(論)で、宇宙の諸現象の本質は主体を離れた客体的な物質であって、人間の精神も物質としての頭脳の一つの機能に過ぎないという説(『新明解国語辞典』)である。信貴山城陥落の直前、九月二十九日に彗星が現れた。久秀の家臣たちは、これはいままで久秀が神仏を顧みなかったことに対する天罰だと言って恐れたが、久秀は「彗星は天の運行に従って現れるだけで、自分や信長だって天から見れば塵芥同然、相手にもされぬわ」と平然としていたという。信長は最後に自己神格化をやってしまうが、久秀のこの考え方も当時としては極めて異質な、唯物論的考え方である。
幽霊は怖い?
果心居士(かしんこじ)というと、戦国時代の幻術師で、『三国志』でいうところの左慈(さじ)のような存在である。池に笹の葉を撒くと、魚になって泳ぎだしたとかその類である。大和の久秀とは親交があったようで、久秀に招かれると、「戦場で幾度となく修羅場を乗り越えてきたが、恐怖というものを味わったことがない。そなたの術でわしに恐ろしい思いをさせてみよ」と言われた。そこで、果心居士は人払いをさせると、部屋の灯りを消し、久秀の亡妻の幽霊を出現させたという。さすがにこれには久秀も「もうやめよ」と制したという。久秀の亡妻と言えば、三好長慶の娘だろうから、三好一族を抹殺した久秀には居心地が悪かっただろう。まあ、この話(『玉掃木』『醍醐随筆』)は果心居士の幻術の方が強調されていて、久秀は引き合いとして登場しただけに過ぎないのではないか。当時、もっとも神仏や幽霊の類を信じなさそうな人種である。

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自爆スキルかと思いきや、防御用か。
養生を心掛けていた久秀
主家である三好長慶の弟、安宅冬康が鈴虫を兄に送ったことは書いたが、久秀も鈴虫を育てていた。普通、鈴虫は七月頃に成虫となり、十月までには大半が死亡するが、飼育するとそれ以上長生きすることもある。久秀も鈴虫の飼育に凝っており、「鈴虫でさえうまく育てれば長生きする、人間も養生すれば百二十五歳まで生きられる」と言っていたという。もちろん、人間の養生にも気を使っており、セックスの詳細なハウツー本まで書いているほどである。
死ぬときも養生
久秀は中風(脳出血後に起こる体のまひ)の予防のために毎日時間を決めて頭の上に灸をすえていた。切腹する直前でも家臣に灸の用意をさせ、家臣から「これから切腹するのに灸でもないでしょう」と言われたが、「いざ切腹するのに中風のせいで失敗したら臆病だと思われる。いままでの武名に傷がつくではないか」と、いつも通りに灸をすえさせてから腹を切ったという。
悪人を主人公にした小説というものがあって、それをピカレスク(悪漢小説)というのだが、悪人は悪人で人気がある。久秀の場合は妙な愛嬌もあって複雑な人物なのだが、そこも人気となる理由の一つだろう。単なる「悪人」ではない。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77 (後編)
文化人としての側面
最近では伊丹城の方が早いという説が出ているが、天守閣を創った嚆矢(さきがけ)とされる。安土城の場合は天主と呼ばれるが、このあたりも信長と久秀の近さを感じさせる。千利休と同じく茶の湯を武野紹鴎に学び、名物の茶器を集めて茶会を開いていたという。
唯物論者
真の存在は心ではなく単なる物質とするのが唯物(論)で、宇宙の諸現象の本質は主体を離れた客体的な物質であって、人間の精神も物質としての頭脳の一つの機能に過ぎないという説(『新明解国語辞典』)である。信貴山城陥落の直前、九月二十九日に彗星が現れた。久秀の家臣たちは、これはいままで久秀が神仏を顧みなかったことに対する天罰だと言って恐れたが、久秀は「彗星は天の運行に従って現れるだけで、自分や信長だって天から見れば塵芥同然、相手にもされぬわ」と平然としていたという。信長は最後に自己神格化をやってしまうが、久秀のこの考え方も当時としては極めて異質な、唯物論的考え方である。
幽霊は怖い?
果心居士(かしんこじ)というと、戦国時代の幻術師で、『三国志』でいうところの左慈(さじ)のような存在である。池に笹の葉を撒くと、魚になって泳ぎだしたとかその類である。大和の久秀とは親交があったようで、久秀に招かれると、「戦場で幾度となく修羅場を乗り越えてきたが、恐怖というものを味わったことがない。そなたの術でわしに恐ろしい思いをさせてみよ」と言われた。そこで、果心居士は人払いをさせると、部屋の灯りを消し、久秀の亡妻の幽霊を出現させたという。さすがにこれには久秀も「もうやめよ」と制したという。久秀の亡妻と言えば、三好長慶の娘だろうから、三好一族を抹殺した久秀には居心地が悪かっただろう。まあ、この話(『玉掃木』『醍醐随筆』)は果心居士の幻術の方が強調されていて、久秀は引き合いとして登場しただけに過ぎないのではないか。当時、もっとも神仏や幽霊の類を信じなさそうな人種である。
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自爆スキルかと思いきや、防御用か。
養生を心掛けていた久秀
主家である三好長慶の弟、安宅冬康が鈴虫を兄に送ったことは書いたが、久秀も鈴虫を育てていた。普通、鈴虫は七月頃に成虫となり、十月までには大半が死亡するが、飼育するとそれ以上長生きすることもある。久秀も鈴虫の飼育に凝っており、「鈴虫でさえうまく育てれば長生きする、人間も養生すれば百二十五歳まで生きられる」と言っていたという。もちろん、人間の養生にも気を使っており、セックスの詳細なハウツー本まで書いているほどである。
死ぬときも養生
久秀は中風(脳出血後に起こる体のまひ)の予防のために毎日時間を決めて頭の上に灸をすえていた。切腹する直前でも家臣に灸の用意をさせ、家臣から「これから切腹するのに灸でもないでしょう」と言われたが、「いざ切腹するのに中風のせいで失敗したら臆病だと思われる。いままでの武名に傷がつくではないか」と、いつも通りに灸をすえさせてから腹を切ったという。