兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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タイやエジプトを見ていると、
軍政(エジプトの場合はムバラク政権時代)の方が
よかったのでは、と思ってしまいます。
タイは都市部と農村部の対立が収まりませんし、
エジプトは観光業中心の経済が崩壊しています。
少なくとも国民を食わせる、という根本的な部分では
軍政期の方がすぐれていたのではと思ってしまいます。
(もちろんすぐれていた部分ばかりではない)
民主主義ももっともすぐれた政体ではないのですが、
市民が責任を取る(自分たちのことを自分たちで決める)
という点において、独裁よりも「すぐれている」のであって、
どちらも欠点がないわけではないので、
要するに、他方よりは「マシ」という話でしかありません。
軍政のような独裁(一人とは限らない・・・寡頭制)から
民主主義に移っていく過渡期というのはあるのでしょうが、
民主主義の担い手である「市民」が育っていない状態では、
この現代だと、過渡期で経済が壊滅的な打撃を受けてしまって、
民主主義どころではなくなってしまうのではないでしょうか。
衣食足りて栄辱を知る、ではありませんが、
まず衣食住が安定しなければ、
政治どころの話ではありません。
日本の場合は、江戸時代から明治維新を経ましたが、
江戸時代は封建制となるのでしょうが、
幕府が独裁だったわけでも、
中央集権だったわけでもありません。
維新後は藩閥による寡頭制となり、
大正期には大正デモクラシーが起こりましたが、
結局は軍部や官僚、メディアも戦争に突き進んで敗戦となります。
与えられた「民主主義」を受け入れるのですが、
さて、担い手となる「市民」は存在するのでしょうか。
利益(既得権益)を代表する人が選ばれる点では、
江戸時代も現代も変わりはないのではないでしょうか。
あるいは政府の存在が大きいという意味では、
社会主義に近いのかもしれません。
(対義語というわけではない)
蛇足ですが、
「民族主義」も必ずしも尊重すべきとは思わないんですよね。
「同じ民族(民族の定義があいまい)」は
団結するのかもしれませんが、
もう一つの側面として、他の民族を排除する部分があります。
ナショナリズム(民族主義と完全にイコールではない)の高揚が
19世紀(早くは18世紀)以降の戦争に結びついていますが、
それ以前のオーストリアやトルコ(オスマン帝国)などの帝国は
多民族国家(さらには多宗教国家)として存在していたんですよね。
(どちらの帝国も第一次世界大戦後に解体、消滅)
民族や宗教の違いで争う現代において、
参考にすべき点は少なくないと思います。
軍政(エジプトの場合はムバラク政権時代)の方が
よかったのでは、と思ってしまいます。
タイは都市部と農村部の対立が収まりませんし、
エジプトは観光業中心の経済が崩壊しています。
少なくとも国民を食わせる、という根本的な部分では
軍政期の方がすぐれていたのではと思ってしまいます。
(もちろんすぐれていた部分ばかりではない)
民主主義ももっともすぐれた政体ではないのですが、
市民が責任を取る(自分たちのことを自分たちで決める)
という点において、独裁よりも「すぐれている」のであって、
どちらも欠点がないわけではないので、
要するに、他方よりは「マシ」という話でしかありません。
軍政のような独裁(一人とは限らない・・・寡頭制)から
民主主義に移っていく過渡期というのはあるのでしょうが、
民主主義の担い手である「市民」が育っていない状態では、
この現代だと、過渡期で経済が壊滅的な打撃を受けてしまって、
民主主義どころではなくなってしまうのではないでしょうか。
衣食足りて栄辱を知る、ではありませんが、
まず衣食住が安定しなければ、
政治どころの話ではありません。
日本の場合は、江戸時代から明治維新を経ましたが、
江戸時代は封建制となるのでしょうが、
幕府が独裁だったわけでも、
中央集権だったわけでもありません。
維新後は藩閥による寡頭制となり、
大正期には大正デモクラシーが起こりましたが、
結局は軍部や官僚、メディアも戦争に突き進んで敗戦となります。
与えられた「民主主義」を受け入れるのですが、
さて、担い手となる「市民」は存在するのでしょうか。
利益(既得権益)を代表する人が選ばれる点では、
江戸時代も現代も変わりはないのではないでしょうか。
あるいは政府の存在が大きいという意味では、
社会主義に近いのかもしれません。
(対義語というわけではない)
蛇足ですが、
「民族主義」も必ずしも尊重すべきとは思わないんですよね。
「同じ民族(民族の定義があいまい)」は
団結するのかもしれませんが、
もう一つの側面として、他の民族を排除する部分があります。
ナショナリズム(民族主義と完全にイコールではない)の高揚が
19世紀(早くは18世紀)以降の戦争に結びついていますが、
それ以前のオーストリアやトルコ(オスマン帝国)などの帝国は
多民族国家(さらには多宗教国家)として存在していたんですよね。
(どちらの帝国も第一次世界大戦後に解体、消滅)
民族や宗教の違いで争う現代において、
参考にすべき点は少なくないと思います。
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外交は素人が口出しするものではない、と思っています。
外交とは権謀術数の支配するところで、
国の利益を背負って交渉が行われるますから、
感情が先に立っては交渉はできません。
好きとか嫌いの世界ではありません。
もちろん、だましだまされるだけでは、
相手と信頼関係は醸成できませんし、
信なくば立たず、ですから、
国民の支持は必要ではあります。
「玄人」だけでできるものでもありません。
その意味で、もちろん意見を言うのは構わないのですが
(むしろ言うべきである)、
メディアにおいて、
拉致被害者家族のコメントが、
外交官を含む政治家の発言などと
同様に並べられているのは違和感があります。
外交とは権謀術数の支配するところで、
国の利益を背負って交渉が行われるますから、
感情が先に立っては交渉はできません。
好きとか嫌いの世界ではありません。
もちろん、だましだまされるだけでは、
相手と信頼関係は醸成できませんし、
信なくば立たず、ですから、
国民の支持は必要ではあります。
「玄人」だけでできるものでもありません。
その意味で、もちろん意見を言うのは構わないのですが
(むしろ言うべきである)、
メディアにおいて、
拉致被害者家族のコメントが、
外交官を含む政治家の発言などと
同様に並べられているのは違和感があります。
奥州藤原氏の祖である藤原清衡なんかは、一時「清原清衡」だったと思われるので、藤原氏に戻っても、清原氏を意識して名前に「清」の字を残したのかな、と思ったりもしましたが、父が「経清」だから、その「清」でしょうね。
江戸時代は将軍からの偏諱が特に多かった時期ですが、将軍が長生きして、大名の方で早死にが続くと、付ける名前がない、なんてことがあったのかも。
徳川家斉は実子も偏諱も多かったので、名前を付ける方は苦労したでしょう。他家とかぶるのも好ましくないでしょうし。それまではあまり見なかった字が登場することもあります。
江戸時代は将軍からの偏諱が特に多かった時期ですが、将軍が長生きして、大名の方で早死にが続くと、付ける名前がない、なんてことがあったのかも。
徳川家斉は実子も偏諱も多かったので、名前を付ける方は苦労したでしょう。他家とかぶるのも好ましくないでしょうし。それまではあまり見なかった字が登場することもあります。
『軍師官兵衛』第21回
今回は、主人公は父黒田職隆でいいんじゃね?
というところですが、実際の話を知っていても泣けます。
柴田恭兵の熱演に泣きました。
官兵衛救出と、信長の反応と、半兵衛の死と、
来週も見逃せません。
つーか、家臣たち、殿の居場所を突き止めるのが早すぎやしませんか。
荒木村重を追い詰めた万見仙千代もあっさり死んじゃうし。
『永遠の0(ゼロ)』でも宮部役で抜け殻のようになったシーンがありましたが、
岡田くんの演技も見逃せません。
この映画は別に泣きもしませんでしたけど。
今回は、主人公は父黒田職隆でいいんじゃね?
というところですが、実際の話を知っていても泣けます。
柴田恭兵の熱演に泣きました。
官兵衛救出と、信長の反応と、半兵衛の死と、
来週も見逃せません。
つーか、家臣たち、殿の居場所を突き止めるのが早すぎやしませんか。
荒木村重を追い詰めた万見仙千代もあっさり死んじゃうし。
『永遠の0(ゼロ)』でも宮部役で抜け殻のようになったシーンがありましたが、
岡田くんの演技も見逃せません。
この映画は別に泣きもしませんでしたけど。
とりとめがないので、いったんまとめ的なものを(まとまっていない)
■「村」の字について
赤松氏は播磨、荒木氏は摂津で、隣同士なんですよね。赤松氏の「村」は赤松円心(則村)から来ていますが、「則村」自体は明らかではありません。村上源氏の流れを汲むことを示しているのかもしれませんが、上の字を下に付けたとすれば疑問が残ります。村上天皇の「村上」は地名に由来するそうですが。
荒木氏は波多野氏の出身というのが最近の説ですが、「村」の字は村重以前からの通字で、播磨で勢力を持っていた赤松氏の影響を受けた可能性はあるかもしれません。過去に主従関係にあったとは思えませんが、播磨や摂津では「村」の字が人名に使われる字として認識されていたのかもしれません。他ではあまり「村」の字を下の名前に使う例はピンときません。
ちなみに、「群」を使った名前となると、さらに思いつかず、徳川達孝(徳川宗家の十六代目の当主、貴族院議長)の幼名で「群之助」があるのを見つけたくらいです。
伊達氏の「村」は二代目の伊達宗村が最初ですが、もと常陸伊佐郡の中村、あるいは下野の中村にいたことから、この中村に由来するのでしょうか。伊佐氏や中村氏とするならともかく(この例は実際にある)、地名の一部を名前にする(地名の一部を名前の一部にする)というのは他の例が必要でしょう。
■その他もろもろ
1.伊達宗村は平安時代末期から鎌倉時代初期の人物、赤松則村(円心)は鎌倉時代末期から南北朝時代初期の人物。これらよりも古い例はあるのかどうか
→平将門の乱の鎮定に活躍した藤原秀郷の父は村雄とされるが事跡は不詳。刀工の村正もいるので、人名として皆無ではないが…
2.幼名や通称などに「村」が含まれていて、それに由来する可能性
3.あるいは禅宗の僧の名前などに由来している可能性
4.幸村の姉村松(小山田氏に嫁ぐ)は地名から村松殿と呼ばれたようなので、地名に由来する可能性もあるが、上で書いたように、一文字だけを取るのはどうか
■実名は避ける話
江戸時代の講談にしろ、歌舞伎にしろ、実際に起こったことをそのまま取り上げると幕府からおとがめを受けるので、名前を変えるというのは普通にあることです。見れば元ネタはすぐわかるのですが、一字違えば他人となったようですが…(別の話を持ってきて、置き換えることもある)。
例えば、『忠臣蔵』(『仮名手本忠臣蔵』)では、赤穂事件の人物は『太平記』の人物に置き換えられています。浅野内匠頭長矩は塩冶判官(塩冶高貞がモデル、『忠臣蔵』ではあるいは「塩谷」「高定」、いずれにしても、「赤穂の塩」を連想させる)、吉良上野介義央は高武蔵守師直(足利尊氏の執事で権勢を誇った)に置き換えられています。大石内蔵助は「大星由良助(おおぼしゆらのすけ)」となっています。
『太閤記』の類では、明智光秀を武智光秀、織田信長を尾田(小田)春永、羽柴秀吉を真柴久吉と言い換えている例もあります。
真田幸村も実名の真田信繁をはばかって、「幸村」にしたのでしょうが、その由来についてはいまだ定説を見ません。
■「村」の字について
赤松氏は播磨、荒木氏は摂津で、隣同士なんですよね。赤松氏の「村」は赤松円心(則村)から来ていますが、「則村」自体は明らかではありません。村上源氏の流れを汲むことを示しているのかもしれませんが、上の字を下に付けたとすれば疑問が残ります。村上天皇の「村上」は地名に由来するそうですが。
荒木氏は波多野氏の出身というのが最近の説ですが、「村」の字は村重以前からの通字で、播磨で勢力を持っていた赤松氏の影響を受けた可能性はあるかもしれません。過去に主従関係にあったとは思えませんが、播磨や摂津では「村」の字が人名に使われる字として認識されていたのかもしれません。他ではあまり「村」の字を下の名前に使う例はピンときません。
ちなみに、「群」を使った名前となると、さらに思いつかず、徳川達孝(徳川宗家の十六代目の当主、貴族院議長)の幼名で「群之助」があるのを見つけたくらいです。
伊達氏の「村」は二代目の伊達宗村が最初ですが、もと常陸伊佐郡の中村、あるいは下野の中村にいたことから、この中村に由来するのでしょうか。伊佐氏や中村氏とするならともかく(この例は実際にある)、地名の一部を名前にする(地名の一部を名前の一部にする)というのは他の例が必要でしょう。
■その他もろもろ
1.伊達宗村は平安時代末期から鎌倉時代初期の人物、赤松則村(円心)は鎌倉時代末期から南北朝時代初期の人物。これらよりも古い例はあるのかどうか
→平将門の乱の鎮定に活躍した藤原秀郷の父は村雄とされるが事跡は不詳。刀工の村正もいるので、人名として皆無ではないが…
2.幼名や通称などに「村」が含まれていて、それに由来する可能性
3.あるいは禅宗の僧の名前などに由来している可能性
4.幸村の姉村松(小山田氏に嫁ぐ)は地名から村松殿と呼ばれたようなので、地名に由来する可能性もあるが、上で書いたように、一文字だけを取るのはどうか
■実名は避ける話
江戸時代の講談にしろ、歌舞伎にしろ、実際に起こったことをそのまま取り上げると幕府からおとがめを受けるので、名前を変えるというのは普通にあることです。見れば元ネタはすぐわかるのですが、一字違えば他人となったようですが…(別の話を持ってきて、置き換えることもある)。
例えば、『忠臣蔵』(『仮名手本忠臣蔵』)では、赤穂事件の人物は『太平記』の人物に置き換えられています。浅野内匠頭長矩は塩冶判官(塩冶高貞がモデル、『忠臣蔵』ではあるいは「塩谷」「高定」、いずれにしても、「赤穂の塩」を連想させる)、吉良上野介義央は高武蔵守師直(足利尊氏の執事で権勢を誇った)に置き換えられています。大石内蔵助は「大星由良助(おおぼしゆらのすけ)」となっています。
『太閤記』の類では、明智光秀を武智光秀、織田信長を尾田(小田)春永、羽柴秀吉を真柴久吉と言い換えている例もあります。
真田幸村も実名の真田信繁をはばかって、「幸村」にしたのでしょうが、その由来についてはいまだ定説を見ません。