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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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数々の口内炎を経験してきた私ですが、

本日、ついに口蓋垂(のど○んこ)に口内炎を発見しました!

仕事のストレスからくる疲労です。

1週間から10日くらいのタイムラグがあってから出ますね。

(先週は多忙を極めて、今週も続いていますが、

どうにか終わりが見えてきたと思った途端)


のどの左奥にも口内炎らしきものがあって、

最初は風邪かと思ったのですが…。

みなさんも体調には気を付けましょう。


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学研の科学の付録に発光ダイオードがついていましたね、たしか。

赤の発光ダイオードでした。

「LED」と言ったのはもっと後の話だったように記憶しています。

実用化に耐える青の発光ダイオードが

なかなかできないというのも、

中村修二氏が開発に苦労していたのも、

雑誌で読んだ覚えがあります。

(「ログイン」だったかな…なぜPC雑誌)


赤と緑はすでに実用化されていましたが(雑誌の付録にもつくくらい)、

青がなかなか実用化まで至らず、

光の三原色がそろわない状況でした。


その後は所属していた徳島の日亜化学工業と

特許権でもめたんですよね。

従業員が開発したら、対価は誰が得るのか、

ということで、話題になりました(最終的には和解)


アメリカに行きましたが、

日本には合わなかったということでしょうか。


北条も30分で滅んでしまったか…。

石田三成の忍城水攻め(失敗)もさわりだけ。

伊達政宗も出なかったし。

あれ、初回で出て来た、竹田城(天空の城)でのロケはどこ行った?

小田原城を見下ろすとなると、

天下の連れションを思い出す

いや、勝新(秀吉)が本気で渡辺謙(独眼竜政宗)を

ビシッとやったシーンを思い出すなあ。


『花の慶次』(マンガの方ね)の家康は、

勝新(勝新太郎)のイメージだったよね。ぐふふふ

『影武者徳川家康』(マンガの方ね)になると別人に…。


ともかく、だんだん次回予告を見ても、

次の展開が読めなくなってきた…。


小一郎さん(豊臣秀長)に死亡フラグが立っていて、

そろそろ利休も危ない。

棄てた子は無事に育たず、拾った子が…。

急に出て来た熊之助ももしや…。


熊之助はともかく、このへん(失礼)を来週でちゃちゃっと始末して、

朝鮮出兵!

ここが黒田長政の見せ場なのになあ…。

(父親の期待以上の活躍をしてしまった関ヶ原の戦いは別として)

加藤清正、福島正則との絡みもあるし、

三成との対立もあるし、

小早川隆景には大活躍してほしいし(昨日は久しぶりに出た)

ん、小早川秀秋は出るよね(前やった人でいいや…意外と合っていた)


関ヶ原の戦いに至るまでと、戦後をたっぷり描いてほしいんですよね。

中央は適当にやって、九州をやるのかな。

大友義統も出て来たし。

(関ヶ原の戦い自体は前に書きましたが、何回書いても楽しい)


黒田長政と後藤又兵衛の確執とか、

淀殿の豊臣家を潰す陰謀(ある意味、復讐は果たしているか)とか、

あ、栗山大膳もいるじゃん。


そのへんはぶった切って(あとの二つは官兵衛の死後ですね)、

視聴者の想像に任せるというところでしょうか。

クランクアップしているのに、終わるかどうか心配です。

(というか、まとめ切れるのか)


あと、淀殿が糟糠の妻である北政所をおしのけるようなことはできません。

(あくまでドラマとして見るけども)

「戦国人物紹介」

平岩親吉・4

平岩親吉・1
http://naraku.or-hell.com/Entry/1584/

平岩親吉・2
http://naraku.or-hell.com/Entry/1619/

平岩親吉・3
http://naraku.or-hell.com/Entry/1817/

平岩親吉・4
http://naraku.or-hell.com/Entry/1836/

平岩親吉・5
http://naraku.or-hell.com/Entry/1964/

今回は前回の補足で没年情報が中心。ここまで調べなくてもという気もしますが(すべてを調べる必要もありませんが)、存在しないことの証明は難しいのです。

■徳川四天王
酒井忠次:1596年死去、子家次:1618年死去
本多忠勝:1610年死去、長男忠政:1631年死去、二男忠朝:1615年戦死(大坂夏の陣)
榊原康政:1606年死去、子康勝:1615年死去
井伊直政:1602年死去、子直孝:1659年死去

■徳川十六神将(四天王を除く、諸説あり確定していない。五十音順)
植村家存:1577年死去、一族を含めて会見時に大名に列していない
大久保忠世:1594年死去、子忠隣:1628年死去(1614年に本多正信父子の謀略で失脚)
大久保忠佐:1613年死去(忠世の弟)、弟の彦左衛門忠教(ただたか)を養子に迎えようとしたが、忠教の同意を得られず、忠佐の死後は無嗣断絶で改易
高木清秀:1610年死去、子正次:1631年死去
鳥居元忠:1600年、伏見城で戦死、子忠政:1628年死去
鳥居忠広:1573年、三方ヶ原の戦いで戦死(元忠の弟)、子孫は大久保氏に仕える
内藤正成:1602年死去、子孫は旗本
蜂屋貞次:1564年死去、子孫は旗本
服部正成:1596年死去、子正就:1615年死去
平岩親吉:1611年死去、無嗣断絶
松平康忠:1618年死去(長沢松平家当主、家康の従弟、かつ義弟に当たる)
松平家忠:1600年戦死(伏見城、深溝松平家当主)、子忠利:1632年死去
米津常春:1612年死去
渡辺守綱:1620年死去

米津(よねきつ)常春が会見の翌年に死んでいるが、十一月のことである。なお、この人物は1564年に従軍した記録を最後に、五十年近く事跡がはっきりしないまま、1612年に死去したという記録があるだけである。子の正勝が大久保長安事件に連座したため、記録が残らなかったのだろうか。

さて、四天王と十六神将について掲げてみたが、ここには本多正信などが含まれておらず不十分なので、次回は関ヶ原の戦いの起きた慶長五年(1600)に一万石以上の所領を持っていた家康の家臣(あるいはその子孫)についても触れてみよう。



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酒井忠次 【さかいただつぐ】 1527-96 左衛門尉、従四位下、左衛門督
誰が何と言っても、徳川四天王の筆頭は酒井忠次である。
四天王のうち、家康より年長で、後見する立場にあったのは忠次だけである。

酒井氏の始祖である広親は松平氏の初代親氏の子で、酒井氏と松平氏は同族とされたが(要は酒井氏初代の酒井広親と松平氏二代目の松平泰親が異母兄弟という話で、時宗の僧で流浪していた徳阿弥、こと松平親氏はあちこちで婿になったという話になる)、伝説というか、創作の域を出ない。また、忠次以前の事跡がはっきりしないのも事実である。忠次の叔父(甥ともされるが、あるいは伯父か)とされる忠尚が三河一向一揆で一揆側に与したことも一因とされる。

忠次は酒井氏の宗家である左衛門尉家の出身で、正室は家康の父広忠の異父妹(碓井姫)であり、家康からは義理の叔父に当たる。家康が今川義元の人質として駿府に赴くときに従い、以後の戦いではもっぱら先鋒を務めて家康から重用され、東三河の旗頭に任じられた(西は石川家成。家成の母は家康の母と姉妹。石川数正は甥に当たる)。

いわゆる築山殿事件では、信長に対して信康の弁護をせず、信康は切腹となったが、家康はその後も忠次を重用し続けた。この事件は、信康の器量を恐れた信長が織田家の将来を危惧したため、家康に信康の切腹を命じ、家康が泣く泣く腹を切らせたというような単純な話ではないのだが、ここではこれ以上は措く。

関東入国の時には隠居しており、子の家次に三万石が与えられた。他の四天王には十万石以上が与えられており、忠次は家康に加増を願い出たが、家康からは「そなたも子がかわいいか」と言われたという。

事実かどうかはともかく、酒井氏では忠次以降、左衛門尉家の家運が一時的に衰え(孫忠勝が出羽庄内藩十三万石余)、別家の雅楽頭(うたのかみ)家が幕政で重きをなすことになった。下馬将軍と呼ばれ権勢を誇った大老の酒井忠清も雅楽頭家の出身である。



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本多忠勝 【ほんだただかつ】 1548-1610 平八郎、従五位下、中務大輔
徳川四天王の二番目と三番目だが、本多忠勝、榊原康政の順であろう。井伊直政は家康に最も寵されたが、もとは今川氏に属しており「外様」である(後述)。
本多氏は松平氏の五代目で安祥城主(現在の安城市、読みはいずれも「あんじょう」)であった長親に仕え、酒井氏や大久保氏とともに譜代では最古参の「安祥譜代」の一つとされる。



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榊原康政 【さかきばらやすまさ】 1548-1606 小平太、従五位下、式部大輔
足利氏の一族である仁木氏の庶流を称する。仁木氏では仁木義長が足利尊氏に従って、室町幕府の成立に貢献した。康政はその八代後に当たるとされる。初めは酒井忠尚の小姓だったが、家康に見出されて直接仕えるようになったという。

文筆にも長けており、小牧長久手の戦いでは、秀吉を非難する檄文をばらまいた。
「身分の低い秀吉が信長公に取り立ててもらったのに、その恩を忘れて信長公の二男である信雄殿と事を構えるとはなんたる忘恩の徒か。秀吉に従って不義の名を残すよりは我らとともに戦おうではないか」
これには秀吉も激怒し、康政の首に十万石の恩賞をかけたという。講和が成ると、一転して秀吉は康政の忠勤を賞賛し、従五位下式部大輔へ叙任させるなど厚遇しており、これは三国志の曹操と陳琳の話に似る(陳琳は官渡の戦いで曹操の父祖まで弾劾した檄文を書いたが、戦後赦された)。

文武に秀でた良将であったが、次第に政治の中枢からは遠ざかった。大久保忠隣や本多正純のように権勢を誇って失脚した例は少なくない。ましてや、康政の場合は武功も抜群であり、「狡兎死して走狗煮らる」ではないが、巧みな身の処し方であったと言える。

とはいえ、本多忠勝と同じ十万石だったのはまだしも、新参の井伊直政が十二万石であったことには不満で、忠勝とともに「殿は御記憶のよい方だが、不思議と加増の約束だけはお忘れになる」とぼやいたという。病床に伏すと、家康からの見舞いの使者が来たが、布団から下りることもなく、「康政はむしゃくしゃして腸が腐ってくたばり申すとお伝えいただきたい」と言ってのけた。その一方で、秀忠からの使者には布団を下りて、礼服を着て陳謝したという。関ヶ原の戦いにおける遅参をかばった康政と秀忠の関係がうかがわれる逸話でもある。

ともかく、康政の忠義に、家康は「榊原家を見捨てない」との起請文を書くのだが、この起請文が榊原家滅亡の危機を二度救うことになる。



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井伊直政 【いいなおまさ】 1561-1602 万千代、兵部少輔、従五位下、侍従
最後は、「外様」と言っては酷だが、新参譜代の井伊直政。南北朝時代にあって井伊氏は南朝方であったが、その後、北朝方の今川氏に属すようになる。井伊直盛は桶狭間の戦いで戦死、その跡を継いだ直親は織田氏との内通を疑われて今川氏真に殺される。直親の子直政は苦しい幼少を過ごしたが、家康に見出されて頭角を現した。関東に入国すると、譜代の諸将を押しのけて、家康家臣では最高の十二万石を賜った。関ヶ原の戦い後は石田三成の旧領である近江佐和山で十八万石を与えられたが、戦後処理に忙殺されて、戦いで負った傷が癒えぬまま死去。子の直孝の代に彦根に移った。

井伊氏は江戸時代には譜代大名最高の三十五万石を有し、五人の大老(直孝を大老に含めると六人)を出すなど、自他ともに認める譜代大名の筆頭であった。井伊氏は直政の血を絶やさないよう努めたことから、兄弟間の養子等はあるが、幕末の藩主までいずれも男系男子で直政の血を引いている。

幕末の大老井伊直弼は日本を開国へ導いたが、桜田門外の変で暗殺される。このような形で藩主が死んだのは、本来であれば御家断絶になってもおかしくないのだが、幕府は直弼の死を秘して子の直憲に井伊家の家督を継がせた。しかし、のちに安政の大獄を理由に、彦根藩は十万石を没収されたことから、これを恨みに思った彦根藩は譜代大名筆頭でありながら、維新時には新政府側に味方している。
いまの状況を指して「(新)冷戦」と呼ぶつもりは、

まだありませんが。


ウクライナの状況を見ていると、

EUとロシア、どちらも勢力拡大に躍起ですが

(EUも東に影響力を伸ばしたい…軍事的な理由とは限らず、

経済的な理由もあって…こちらが主ですが)、

EUもロシアも勢力圏の拡大に、

大規模に軍事力を行使するかというと、そんなことはありません。


盛大にドンパチやると、お金がかかりますし、人も死にます。

これがどんどん拡大すると、制御できなくなる可能性もあります。

(思わぬ事態に進んで行ってしまうかもしれない…リスクが大きい)

なので、経済制裁やら、国際世論の喚起やら、

あまりコストのかからない方法で、相手を屈服させられないか、

屈服させられないなら、どこかで落としどころをさぐるということになります。


話を転じてみて、日本の戦国時代ですが、

「日本の各地に戦国大名が群雄割拠していて、

天下統一を目指して、戦争に明け暮れていた」

というイメージは嘘です。

(最近ようやく定着した感はありますが)


川中島の戦いや、長篠の戦いなど、

有名な戦いは数多くありますが、

年がら年中、戦に明け暮れていると、

国力が疲弊しますし、領地も荒廃します。


となると、お互いの勢力圏が重なってきて、

抜き差しならない状態になり、

どうにか相手を屈服させられないか、と考えると、

相手の本拠地(城と言っても、いまの姫路城ような天守閣や、

石垣のあるような城郭をイメージするのは誤り)を

攻めていったところで、お金も食糧もかかるし、人も死ぬ。

たとえ相手に勝ったとしても、別の相手に攻められたら、すぐに滅亡です。


さて、ここでどうしようか、と考えることは、

当時も現代もそれほど変わりはないわけです。

直接の軍事力を行使せずに、相手を屈服させる方法はないか考えるわけです。

敵対せずに味方に取り込むことも一つですし、

経済的に屈服させたり(北条氏に塩を止められて困った信玄に、

謙信が塩を送った話がどこまで本当かはともかく)、

敵の家臣を調略させたりすることも、

相手を弱体化させて、屈服させる方法の一つです。


実際の戦争、戦闘行為に至る前に、事前の調略をしておくことが、

たとえ時間がかかったとしても、事後のことを考えれば、

目的達成への早道であることも少なくありません。


いまも昔も、戦わずして勝つことができれば、

それに越したことはありません。

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