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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「艦これ」

乙作戦で無難に進めています。

E-1はほぼ問題なくクリア。

軽巡(大淀)、駆逐艦5隻にソナーと爆雷を積んで、

あとは偵察機、電探で索敵値を調整(さほど意識せず)

Gで潜水艦以外からワンパンを喰らうことがあって、

3回ほど大破撤退しました。4勝でそのままクリア。

(報酬は巻雲、吹雪、巻雲、日向)


E-2も固定ルートで進撃中です。

駆逐艦、戦艦、重巡、軽巡、空母2隻でAFHIです。

削り中は、念のため道中支援だけ入れています。

ボス戦は夜戦に持ち込めば、駆逐艦かビスマルクdrei(本日就役)が

屠ってくれます。S勝利で秋雲、浜風ゲット。


「城プロ」

前回の稲荷山イベントで痛い目に遭ったので、

今回は少しは進めるかと思いましたが、

まさかの、大将兜がランダム出現とか。





E-1からE-3まではこの基本形でほぼ行けるかと。

本城の右、あるいは二つ左に山弓でも安定します。

本城下の剣(範囲拡大)+銃は攻撃力アップと

攻撃範囲アップを持たせるといいかも。

E-3あたりでは、大将兜攻撃用に控え(高速刀)を

温存していないと厳しいかもしれません。

(金ヶ崎城、佐賀城、平戸城あたり)





E-2の報酬、八王子城。

E-1は6周目、E-2は2周目、E-3は一発クリア。

E-1、E-2あたりは、2部隊で大将兜が出るまで回してもいいかと。

(修繕の枠と相談)

E-4は本城を替えてみましたが、後半の猛攻に耐えきれず。

名古屋城に厄除けの水晶を積まないと無理かも。

(大将兜が出るとは限りませんが)

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ステイゴールド死去

実はあまり現役時代の印象はありません。

マチカネフクキタルのトライアルからの3連勝でおいしい思いをした菊花賞(1997)

個人的には応援していたメジロブライトの初G1勝利の天皇賞・春(1998)

そして、サイレンススズカが折れて、沈黙の日曜日となった天皇賞・秋(1998)

翌年の凱旋門賞2着、エルコンドルパサーのジャパンカップ(1998)

データ予想で完全に外していたグラスワンダーの有馬記念(1998)

(ステイゴールドは出走していませんが、この年の毎日王冠は、

上の三頭が出ていたという恐ろしいG2レース)

そして、翌年からはスペシャルウィークやテイエムオペラオーが勝利したレースに

出走しているのですが、「シルバーコレクター」の印象はありません。

テイエムオペラオーの場合はメイショウドトウがいつも2着でしたし。

ただ、いつもG1で勝てないという言われ方をされていた記憶はあります。

(G1以外でもなかなか勝てないのですが)

現役最後に香港のG1を勝ったのはよかったね、というところでしたが・・・。


一躍名を知られるようになったのは、種牡馬になってからで、

いちいち産駒はあげませんが、

ドリームジャーニー、オルフェーヴル(三冠馬)、ゴールドシップ・・・、

この三頭だけでG1を何勝しているのかわかりません。

(朝日杯FSを含めて14勝)

母父メジロマックイーンというのがまたいいですね。


ステイゴールドは左に斜行する癖が直りませんでしたが、

オルフェーヴルも三冠馬なのに、逸走してみたり、

完璧とは少し距離がある、そういうところがファンの多い所以かもしれません。

昨日の続き(第2回)

『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』
白峰旬、宮帯出版社、本体1,300円+税

PC版は右下にアマゾンのリンクを貼りましたので、興味のある方はどうぞ。

■「第一章」について
■■史料の使い方(史料批判)
ここで唐突に生駒利豊の書状が登場します。まずは生駒利豊という人物の説明からしなければなりませんが(現に本書ではそうしています)、一般には馴染みの薄い、というかほとんどない史料を用いるのであれば、最初に史料の信憑性、史料価値から検証すべきではないでしょうか。筆跡、料紙(用紙の原料)、言葉遣い、内容などから史料の検証が必要です。生駒利豊の略歴を述べても、それは書状の信憑性とは別の話です。

あるいは、この書状が所収されている『生駒家戦国史料集-尾張時代の織田信長・信雄父子を支えた一家』(生駒陸彦・松浦武編)を読んでください、ということなのかもしれませんが、この書籍は手軽に入手できるものではありません。所蔵している図書館も限られています。であれば、この書状の信憑性について、もう少し丁寧に説明をした方が、読者の理解も得やすかったのではないかと思います。

書状の写真は掲載されていますが、本文では筆者による現代語訳のみが示されており、釈文がないのでは、現代語訳の正誤を確かめようがありません。筆者はほかに解釈の余地はないと考えているのかもしれませんが、書状の写真があったとしても、古文書を読める知識が乏しい人にとっては、判断材料がないのと同じです。

■■史料批判の不足から来る説得力の希薄さ
関ヶ原の戦いに参加した誰かが生駒利豊に仮託した可能性があるかどうかの判断はしようがありませんが、仮に、「関ヶ原の戦いに参加した」「生駒利豊」が、戦いから十年ほど後に、当時を思い出して(あるいは過去に書き留めたものを見ながら)書いた書状だとしても、書状の内容がすべて事実であるとは限りません。

一次史料かどうかの史料批判が不足したままで、「一次史料であるから」と、そこに書いてあることすべてが事実であり、書いていないことは「存在しなかった」かのように扱うのは疑問があります。自分の都合のいいように、事実でないことを書き加えたり、あるいはその反対に、都合の悪いことを書かなかったり修正した部分がないと言えるのでしょうか。書状の内容は興味深いのですが、他に同様の史料がない、孤証であるのなら、用いるには慎重であるべきです。

そのあたりの史料批判が不足していると感じられるため、書状の内容も鵜呑みにはできません。本節の最後で鈴木眞哉氏の著書を引いて、鈴木氏の「白兵戦の存在を否定した指摘」に対し、生駒利豊の書状の内容は「有効な反証になるであろう」としていますが、これには首肯しかねます。なお、次節に取り上げられている細川家の「首注文」の史料(『綿考輯録』)は、白兵戦があった証左にはなりますが(当然、関ヶ原の戦いでも白兵戦は存在したでしょう)、遠戦志向を否定する根拠にはなりません。

■■ずれていく論点
そもそも、本書で引用している鈴木氏の指摘、「戦国大名たちにとって白兵主義は、そもそも無縁のものであった」、「戦国時代もまた白兵主義時代などといえるものではなく、遠戦志向のきわめて濃厚な時代だったのである」(鈴木眞哉『謎とき日本合戦史-日本人はどう戦って来たか』)、このどこをどう解釈すれば「白兵戦の存在を否定した」と言えるのでしょうか。

私の手元には鈴木氏の前後の著書(『戦国合戦の虚実』『戦国時代の大誤解』)がありますが、鈴木氏の主張は、戦国時代(に限らず、南北朝時代や室町時代も含めて)における合戦の主体は遠戦志向(弓矢・投石、のちには鉄砲)であって、日本古来と思われている「白兵主義」は、明治以降の軍部、あるいは教育機関によってつくり出されたものであるということで、白兵戦自体の存在を否定しているものではありません。

むしろ、戦前の軍部(とその周囲の教育機関、歴史学者など)が戦国時代の合戦の真の姿をゆがめたという点では、二人の主張には共通する部分があるのではないでしょうか。

と、ここまで書いてきて気づいた点がありますが、それはまた次回に。

(次回に続く)
『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』
白峰旬、宮帯出版社、本体1,300円+税

関ヶ原の戦いにおける通説を批判的に検証する姿勢は評価しますし、内容も興味深いものですが、史料の使い方を中心に疑問が残りました。

全般的に通説におけるいくつかの個別部分を批判したに留まっていて、関ヶ原の戦い全体の流れをどのように解釈するかについては今後のさらなる研究が必要だと思いました。通説を否定しただけで真説を考察できていない部分もありましたが、現状では結論が出ない論点も少なくないですから、問題提起としては重要でしょう。

なお、引用した史料については、原則として筆者が現代語訳したものを示すとしていますが、重要な史料については、現代語訳だけではなく釈文(ここでは読みにくい筆跡を読みやすい字体に直したもの)も示すべきだったと思います。

■「序章」について
■■『当代記』の記述を鵜呑みにしていいのか
最初に『当代記』が出てきますが、史料の中では成立年代が早いものです。成立年代は一般に寛永年間(1624~44)とされていますが、本書では元和九年(1623)説も紹介しています。関ヶ原の戦いから二十年ほどしかたっておらず、後代の軍記物や家康の神格化の影響は少ないと思われます。『当代記』の「関原合戦」部分は、本書中に筆者による現代語訳がありますし、『当代記』全体も『史籍編纂苐二』に収められており、インターネットでの閲覧も可能です。

ただし、『当代記』の記述自体があまりにそっけないとも感じます。『当代記』は他の記録を再編した編纂史料で、年代や事柄によって、記述の内容や量に偏りがあります。本書では「記載内容に脚色・誇張がないという点では一定の信憑性はあると思われる」としていますが、これはむしろ、『当代記』の編纂者(一般に家康の外孫である松平忠明とされる)の史料的な制約(情報の偏り)なのではないでしょうか。

とはいえ、いくら記述が多いといっても、話に尾ひれがついているような後代の軍記物や、「公式文書」といっても家康の神格化の影響を受けているような幕府の編纂史料を用いる場合には注意が必要なことは言うまでもありません。

■■戦場と合戦の名称
合戦の名称について本書では、合戦当日や直後の関係書状から「山中(やまなか、美濃国内の地名)合戦」として、本来の主戦場を関ヶ原でなく、山中(三成方の諸将が布陣した場所)としています。「山中」は通説では大谷吉継が布陣した場所で、主戦場とされる関ヶ原からは1.5キロほど西になりますが、文字通り狭隘な地で、少なく見積もっても二万から三万はいたと思われる西軍の主力、宇喜多秀家や石田三成、小西行長らはどこに布陣して、どのように東軍と戦ったと考えるべきでしょうか。

合戦の呼称は通常、戦った地名によりますが、いわゆる「姉川合戦」にしても、これは徳川氏における呼称で、織田氏・浅井氏は「野村合戦」、朝倉氏は「三田村合戦」といって、それぞれの軍が戦った地名に因って呼んでいます。「長篠合戦」にしても、この戦いは長篠城を囲む武田軍に対し、後詰に来た織田・徳川軍との間で生起したもので、実際に戦ったのは設楽原(したらがはら)、あるいは有海原(あるみはら)であり、「長篠設楽原(の戦い)」と併記されることもあります。

本書の第四章では『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はないとしています。たしかに、いくつか伝わっている布陣図の中には、福島正則が東軍の陣地から飛び出しすぎているものや、本多忠勝の布陣の向きがおかしいものもあるので、そこは同意しますが、では両軍がどこにどのように布陣したのか、あるいは西軍は布陣する間もなく東軍に攻められて崩壊したのか(そうだとしても、東軍は各部隊が西軍のどの部隊と戦ったのか)は示されていません。流動的な戦場で、誰がどこに布陣して誰と戦ったのかを明らかにするのは困難ですが、この部分は今後の考証が必要でしょう。

(次回に続く)
邦人殺害

思うところは多々ありますし、言いたいこともありますけど、

それを出すのをは控えています。


日本人同士(に限らず)、後ろ向きの議論をして争っても、

それはISの思うつぼです。

もちろん、事実の検証は不可欠ですが、

出所のわからない情報をもとに、

足の引っ張り合いをしても仕方がありません。


やるかたのない憤懣、耐えざるを得ない怒りを抱えていると、

心身の調子が悪くなってきます。

(本物かどうかはともかく、映像の断片を見てしまうと、さらに)


多くの人が同じ思いを持っているのでしょうが、

こもった念はいずれどこかに出てくるのでしょうか。


少なくとも、この件における政府の対応を、

結果だけを見て非難することはできません。

ましてや、政局に利用するのは誤りです。

(どこに持って行くかは注視する必要がある)

ヨルダンなどの協力にも感謝すべきです。

非難されるべきはISです。


安倍首相の発言の中の「テロリストたちを決して許しません、

罪を償わせるために、国際社会と連携してまいります」には、

やや違和感があるかと。主語は誰なのでしょう。


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