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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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醒めてしまったw

もうメールを返すのも面倒くさい。

このキャラでは結婚できんだろうな、この人。

(このキャラだからいままで結婚できないでいるんだろう、と言うべきか)

ハイスペだから、相手はいるかもしれないけど。

私には(私じゃなくても)疲れるわ。
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「戦国人物紹介」

新年・武田家スペシャル(5回シリーズ)

 
武田勝頼・5-2
 
武田勝頼というと、父信玄の代に絶頂を迎えた武田家を一代にして滅ぼした将として低い評価にとどまっているが、一方で勝頼擁護論とでも言うような論調もある。それは信玄の戦略的・政略的な誤りを示唆・指摘するものだが、このことは信玄の過大評価であり、それ自体、勝頼の過小評価である。いまだに信玄の呪縛から解けていないと言っていい。信玄の死後も、信玄の影響があるのは間違いないが、武田家を率いたのは勝頼である。勝頼の判断は(そこに信玄の影響があるにせよ)勝頼自身の判断として評価しなければならないだろう。勝頼は勝頼自ら死を招いたのである。
 
神格化までされていた信玄への批判、これは当時から現代まで信玄に対して無批判だったということを意味しない。『信長公記』には勝頼が生害するにあたって、次のような記述がある(仮名遣いは適宜改めた)。
 
「国主に生まるる人は、他国を奪取らんと欲するに依って、人数を殺す事常の習なり。信虎より信玄、信玄より勝頼まで三代、人を殺す事数千人と云ふ員(かず)を知らず。世間の盛衰、時節の転変捍ぐ(ふせぐ)べくもあらず。間に髪を容れず(隙間のないこと)、因果歴然、此節なり。天をも恨みず人をも尤めず(とがめず)、闇より闇道に迷ひ、苦より苦に沈む。噫(ああ)哀れなる勝頼哉」
 
三代に渡って人を殺しまくって滅亡したのは因果応報、報いを受けたというところだが、織田家からすれば、勝頼は敵だったわけで、好意的な書き方はしていない。ただ、その後、家康が武田遺臣を多く召し抱えたことから、家康は信玄を崇拝していたという形を取った(成功はしなかったが、武田家の家名を再興させようという努力もしている)。このため、江戸時代に家康が神格化(東照大権現、神君)されると信玄も神格化された。江戸時代には『甲陽軍鑑』が成立、甲州流軍学が流行し、川中島の戦いなども講談で人気となった。維新後、大正四年には従三位が贈られた(明治以降、贈位された戦国大名は信玄だけではないことに注意。戦国大名のほか、維新の功労者や南朝の忠臣などに広く贈位された)。
 
誰でも先代や、家臣の影響からは逃れられない。たしかに信玄は偉大な人物である。勝頼とて(勝頼だから、と言うべきか)その影響からは逃れられないが、その状況下でも自分の判断を下すのが当主の務めである。信玄も信虎の影響は受けているのだが(特に外交や拡張政策といった点において顕著である)、信玄の判断とされるではないか。すべて自分の力で切り開いた独裁者のように思われる信長にしても、父信秀が築いた基礎というものは大きい。
 
そこで、まずは信玄の事跡、信玄が勝頼に残したものを検証してみようと思うのである。勝頼が置かれた状況、主に外交面の話をするが、それには勝頼が作ったものとそうでないもの、すなわち信玄が作ったものとがある。
 
在地領主の影響力を弱めようとするが、逆に彼らに擁立された信玄に追放される。
 
第2回。

鉄砲は殺生の道具。戦場は男子しか出ない。

(のちの会津戦争では女子供もたくさん戦って死ぬが)

それでも、その道を極める意思があるのか?

極めても何もないのだぞ?

と、覚悟を問うている。

(その虚しさと戦うことになるのだぞ?)


ツイッターの内海桂子さんのツイートがわかりやすい。

(わかりづらいと返信しているやつはアホなのか?)


極めるのは無人の世界ではできない、比較ができるから極致に進ませる、

という発言は興味深い。

「戦国人物紹介」

新年・武田家スペシャル(5回シリーズ)

 
武田勝頼・5-1
 
因果関係、すなわち、この結果をもたらしたのは何が原因か、を判断することは難しい。
 
1570年、姉川の戦い(注:これは徳川家での呼び方)で織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を破ったが、浅井・朝倉氏はこの戦いに敗れてすぐに滅亡したわけではない。むしろ、戦後は比叡山や一向一揆と結んで反撃に転じたため、信長は弟信治や森可成(長可、蘭丸らの父)、坂井政尚らを失っている。有名な比叡山の焼き討ちはこれら一連の流れの中で起きた事件である。その後も、浅井・朝倉氏は反信長包囲網の一端を形成し、信玄などとも連携して(実際は連携し損ねて信玄の激怒を招くのだが)信長を苦しめた。浅井・朝倉両氏が滅亡したのは、信玄死後の1573年である。姉川の戦いにおける敗戦が浅井・朝倉両家の滅亡の(少なくとも直接の)原因とは言えない。
 
武田家の場合も、1575年に長篠の戦いで大敗してから、1582年に滅亡するまで七年ある。長篠後の態勢立て直しがうまくいかず、滅亡につながったとすれば、直接の原因ではなくても、間接的な原因としては十分かもしれない。ただ、もっとほかの直接的な原因がなかったのかを検証する必要はあるだろう。
 
さて、武田家滅亡の遠因を信虎に求める人は皆無と言っていいが(そこまではさかのぼらない)、信玄の後継者選択(それは外交問題とも関係するが)に遠因を求める人は少なくない。今川家を巡る外交問題で嫡男義信(今川義元の娘を娶っていた)、およびそれを支持する層と対立した信玄は義信と飯富虎昌らを自害させた。反対派を粛清しなければ、自分が信虎にやったように、クーデターで国を追われる可能性もあったのである。
 
以後は四男の勝頼が事実上の後継者と目されたが、第二の義信になることを恐れた信玄は最後まで勝頼を後継者として扱わなかった。ここから考えると、愛妾の子であった勝頼を後継者にしたいために義信の謀反をでっち上げたという説はどうも信頼を欠く。後継者というのは指名だけすればいいという話ではなく、徐々に自分の権力を移行していくものであるから、逆に言うと、いつ自分の立場を脅かす存在になるかわからないのである。
 
父を追放し、嫡男を殺した、猜疑心の強い信玄のことである(そう思うと、生き延びた典厩信繁はよほど信用のある人物だったということになる)。義信も勝頼も無位無官のままであった。せいぜい、義信の「義」の字が将軍義輝の偏諱であったことくらいである。信長の圧力という説もあるが、信長と信玄は終始敵対していたわけではない。勝頼の妻(信勝の母)は信長の養女であるから、信長の仲介で任官していてもよさそうなものである。武田家、というか信玄側の事情であったと考えた方がよい。
 
親と子が争った例は枚挙にいとまがない。信玄は遺言に当たって勝頼の子信勝を家督と定め、勝頼はあくまでも「陣代」(後見人)としたという(ただ、最近の研究では、信玄の死後、武田姓に復して家督を継ぎ、「武田勝頼」と名乗っていることが判明している)。
 
あまり知られていないが、信長は1575年、織田家の家督を早々に嫡男信忠に譲り、自らの後継者であることを内外に示している。北条家や伊達家の例を見ても、後継者を早めに定めておくことは、のちの内紛を未然に防ぐことになる。「三国志」の呉の孫権のように、早めに太子を決めても、(太子が死んでしまって)後継者争いが起こることはあるのだが、呉の場合は陸遜ら重臣多数も失ってしまったから、後継者の選択というのは重大事なのである。

家督争いがなく、五代続いたというのは稀有なことなのだ。しかし、なぜにショートボブ。
私も人のことは言えませんが、

ある程度の年で結婚できていないってことは、

何かあるってことなんですよね。

今回の子もだいぶこじらせているようです。

素直に進んで行きません。
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