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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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『本能寺の変 431年目の真実』
明智憲三郎、文芸社文庫、720円+税

※ネタバレを含みますが、カバーの裏にも要旨は書かれています。

この本、人気のようです。今年(2015年。この本の初版は2013年12月)の初めには平積みされていたのを見かけたのですがスルー。5月になって、amazonでは売れているようなので、読んでみようと思っていくつかの書店で探してみましたが、どこも売り切れ。結局、amazonで買いました。

本書の中心に関わる話ですが、光秀が土岐氏の出身か否かと、光秀自身が「土岐氏の血を引いている」と認識していたか、またそのように振る舞ったか、というのは別の話です。筆者も光秀の子孫なのか定かではありませんが、筆者自身は光秀の血を引くと思って本書を書いています。そこから導き出されるのは、本書の狙いが光秀の弁護、擁護にあるということです。

「自称」子孫による謀叛人・明智光秀の名誉回復の書かと思えば、さにあらず、と思うのは第一部、せいぜい第二部の途中まででしょう。どのような説を唱えたところで、光秀が主殺しを行ったことは動かしようのない事実です。

子孫でなければ書けない本能寺の変の真実とは何だろうと思ったのですが、そんなものはないのです。代々伝わってきた直筆の書状があるとでもいうのなら別ですが、そういうものがあるのであれば、一刻も早く公開して、研究者に価値を見てもらった方がいいでしょう。

結局は各種の説、史料から自説に都合のいいところを取りだしてきて「つぎはぎ」したに過ぎず、第二部以降は支離滅裂、論理も破綻しています。「通説」の矛盾を指摘すると別の矛盾が出てくる始末です。筆者の想像の産物ですが、小説として読む分には面白いのではないでしょうか。後半はさらに雑になって、読み進めるのが苦痛になりますが。

『信長公記』やフロイスの『日本史』、公家などの日記からの引用は多く見られますが、手紙などが用いられることはほとんどありません。もちろん、信長による家康謀殺、光秀による信長暗殺に関わるやりとりが手紙で残っているはずがない、というのでしょうが、根拠となる史料もなく状況証拠だけで、さも事実らしい事象を積み上げるのは陰謀説の常套手段です。

「石谷家文書」にしても、本書に限らず、内容先行の感があって、文書の価値についてはさらなる研究が必要でしょう。本能寺の変に関する史料として、正月十一日付と五月二十一日付の書状が注目されていますが、後者は光秀の重臣である斎藤利三に届いたのか、はっきりしません(当時の交通事情から数日で届くものではありません)。

「石谷家文書」は本能寺の変に四国問題がかかわっていたことを示す史料ですが、本書(筆者の説全体)を裏付けるものではないことに注意が必要です。また「本城惣右衛門覚書」も新出の史料ではなく、本城惣右衛門が「家康を殺すものとばかり思っていた」と書いたのも、信長による家康謀殺の根拠とはなりえません。

本書も珍説、奇説の類を出ませんが、反響を呼ぶというのは、本能寺の変についての数多の研究が一般にはそれほど知られていないことを示しており、この本を批判的に読むことで、本能寺の変に真相について考えるきっかけになるのはいいと思います。

さて、最後にいくつかの疑問点を指摘しておきます。

一、土岐氏について。愛宕百韻における三句目の「池」を池田氏=土岐西池田氏としていますが、「池」で土岐氏を認識するのが一般的だったのでしょうか。それはともかく、光秀が土岐氏の一族だったとして(あるいは、自身がそのような認識を持っていたとして)、土岐氏の再興を考えていたにしては、旧美濃守護の土岐頼芸を庇護したわけでもありません。

光秀自身が土岐氏中興の祖となろうとしたのであれば、土岐一族を糾合してもいいはずですが、そのような形跡も見られません。土岐氏の一族とされる石谷氏に養子として入った石谷頼辰(異父妹が長宗我部元親の室)、その実弟の斎藤利三を家臣としたことが土岐氏の再興になるのでしょうか(この斉藤氏は斎藤道三以前の美濃守護代を務めた家柄であり、頼芸系の土岐氏を疎んじていたとすれば態度は一貫しているのかもしれません)。そもそも土岐氏を再興することに、「合理的な」光秀が意義を見出していたとも思えません。

土岐明智氏と言われる系統からは大名が出ていますが(上野沼田で廃藩)、以前、「獅子王」で書いたように、江戸時代においては土岐頼芸の系統(のち幕府高家)が土岐氏の正系と見られていたと考えられます。また、光秀の系統は土岐明智氏の分れである可能性が高いとは思われますが、いまだに父の名すら確定しておらず、土岐明智氏とどのようにつかながるのかは判明していません。

二、織田信忠について。amazonの評価でも触れられていますが、家康が信忠を殺す計画になっていたのなら、信忠一行(人数がどれくらいいたのか、京で手勢と合流したのか)が堺を離れたことは光秀に報せるべき重要な事項だったと思います。しかし、本書では、光秀は京に信忠がいたことに最初は気付かなかったとしています。信長を殺しても、すでに織田家の家督を継いでいた信忠が存命であれば、本書でも書いている通り、信忠率いる織田軍の報復を受けて光秀の計画は頓挫してしまいますが、この部分に納得のいく説明はありません。

三、家康をおびき寄せるべく無防備をさらす「天才」信長。のこのこ出向こうとする家康。信長から家康謀殺を持ちかけられて、信長暗殺にすり替えた光秀。光秀だけが俯瞰的に行動するというのはあり得ない話です。そしてそれをさらに上回る秀吉。秘匿すべき計画が実は誰もが知っていたとすれば驚愕の真実です。

信長が家康抹殺を決意した理由は信長でなければわからない、「信長の決断を現代人は理解できない」としていますが、筆者は一体いつの人なのでしょうか。すでに家臣化していた家康をこの時点で殺す必然性を説明できていません。

四、イエズス会の記録や秀吉の「唐入り」の事実から、信長も海外進出を目指していたという考えは否定しませんが(筆者の独創ではありません)、それを光秀が不安に思ったというのも、信長暗殺の動機としては薄いのではないでしょうか。

本書に限らず、「信長には天下統一が目前に迫っていた」というような書かれ方をされますが、西には中国、四国、九州があり、東も関東、東北があり、信長になびいている勢力が多いとしても、数年で天下統一から海外進出まで進んだとは思えません。また、信長が秀吉のように領地拡大を狙ったとしても、損害が増えるのを傍観したとは思えません。
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