兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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増補「関ヶ原の戦い・大名一覧」
東 南部利直 【なんぶとしなお】 天正四年(1576)-寛永九年(1632) 信濃守
■1.本拠、石高
陸奥国不来方(こずかた)城、10万石(南部七郡)
■2.略歴
彦九郎。初め晴直。父信直と小田原に赴いたときに、前田利家の加冠で元服してその諱を賜ったという。文禄四年(1595)、従五位下、信濃守。盛岡(南部)藩初代藩主。
南部氏は清和源氏義光流で、初代の光行が源頼朝に従って治承四年(1180)、石橋山の戦いで軍功があり、甲斐国巨摩(こま)郡南部郷を与えられて南部姓を称したのが始まりである。光行は文治五年(1189)のいわゆる奥州征伐でも戦功を立てて陸奥国糠部郡などに所領を与えられ三戸に入った。南部氏が陸奥に勢力を持つことになったきっかけである。
光行は加賀美遠光の三男で、母は和田義盛の娘(あるいは姉妹とも)とされる。光行の兄長清は小笠原氏の祖であり、遠光の兄信義は武田氏の祖である(系図には異説がある)。信義、遠光の曽祖父は源義光(新羅三郎、しんらさぶろう)で、義光の兄が源義家(八幡太郎)になる。
その後は一族が分かれるが、十三代の大膳大夫守行(禅高法師)が陸奥国司となった前後を除くと事跡がはっきりしない当主が多く、利直の父信直以前の系図も諸説あって確定していない。
現在の岩手県から青森県の下北半島に及ぶ南部氏の広大な版図は「三日月の丸くなるまで南部領」と言われた。歩けばそれだけ日数がかかるという意味であろう。それゆえに一族の争いも多く、利直の父信直も激しい争いの末、庶流から南部氏の家督を継いでいる。南部一族とされる九戸政実はこれに不満を抱いて反乱を起こした。折しも津軽では大浦為信が独立の動きを示しているときである。信直は豊臣政権の力を借りて九戸政実の乱を鎮圧するが、いち早く秀吉に通じていた大浦為信の独立は防げなかった。
信直は慶長四年(1599)、死去し、利直が家督を継いだ。
■3.関ヶ原の戦いでの動向
会津征伐では最上義光に属して米沢口の攻め手となり山形に駐屯するが、西軍の挙兵によりいったん居城に戻って領国を守った。のち上杉家の直江兼続の攻撃を受けた最上義光の救援に赴くが、領内の和賀・稗貫地方で一揆が起こったため再び領国に戻った。伊達政宗に使嗾されたという和賀主馬忠親のこもる岩崎城を落とし一揆を鎮圧するのは翌年のことである。
東軍に味方した功で所領を安堵され、戦いの翌年には西軍の武将四人(石川備前守貞清、宮部兵部少輔長房、岸田伯耆守忠氏、松浦安大夫宗清)を預けられた。
■4.その後
不来方(こずかた、のちの盛岡)での築城は信直の代に始まり、二代藩主重直の寛永十年(1633)に完成した。利直が盛岡城に移るのは元和元年(1615)で、それまでは福岡城(二戸市)に在城した。大坂の陣にも従軍するが、南部家中には豊臣方についた者もあり、戦後、利直が追及される原因となった。
弘前(津軽)藩には遺恨を抱いており、江戸幕府も基本的には両家を同席させないように配慮したほどである。参勤交代の際も弘前藩主は南部領を通過しないようにしていた。文政四年(1821)には南部藩士である下斗米秀之進が津軽寧親の行列の襲撃を企てている(相馬大作事件)。このとき襲撃者側が待ち受けたのは秋田藩領内である。
維新時は家老楢山佐渡の主張で奥羽越列藩同盟に参加、秋田藩(佐竹氏)に攻撃を加えたが、のち新政府軍に降伏した。最後の藩主であった南部利恭の子利祥は日露戦争に従軍して戦死している。
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南部晴政 【なんぶはるまさ】 永正十四年(1517)?-天正十年(1582)
戦国時代に南部氏の全盛期を築くのが晴政である。父は安信とされるが、実際に親子だったかはっきりしない。南部氏の一族間で争いがあって、晴政が安信を討って家督を継いだとする説もある。このあたりの系図は混乱しており(戦乱の中で焼失したという)、南部信直の父石川高信も晴政の弟、あるいは安信の弟(晴政の叔父)、安信の叔父という説がある。
晴政の時の南部氏最盛期を指してのことと思われるが、「三日月の丸くなるまで南部領」とは、誰が詠んだのかよくわからない。もしかしたら、逆に有名な人だろうか。ビジュアル的に、三陸(陸中)海岸沿いから内陸に領地を拡大していくシーンと思っていたが違っていたようで、南部領を歩き始めたときは三日月だったが、満月(十五夜)になってもまだ領内を歩いているほど広いという意味のようである。一日に20km歩いたとすれば、南北に優に200kmは超える領地である。
戦前に書かれた中里介山の未完の長編小説『大菩薩峠』の「白雲の巻」に「このまま三日月の円くなり、明月の三日月になるまで、南部領あたりを巡っていたかも知れないのです」との文章があるが、これがオリジナルとは思えず、もとは俚言、俗言の類だろうか。
『信長の野望・天翔記』で西国や中央の大名でプレイしていると、伊達や最上を滅ぼして東北を統一した南部家の騎馬大名が怒涛の進撃を見せて恐ろしかった。
晴政には男子がなく、いったんは信直に長女を娶せて養嗣子としたが、元亀元年(1570)に嫡男の晴継が誕生したことから、信直は後継の地位を退いた。しかし、南部家中では北信愛ら信直を支持する勢力や、九戸氏の勢力が対立するようになる。天正十年(1582)、晴政が死去すると直後に晴継も病死したが、信直側との内乱で殺されたとの説や九戸政実に暗殺されたとの説もある。なお、利直の母は晴政の長女ではないようである。
その後は信直を推す重臣と晴政の二女が嫁いだ九戸実親を推す九戸政実(実親の兄)が争うことになる。
東 南部利直 【なんぶとしなお】 天正四年(1576)-寛永九年(1632) 信濃守
■1.本拠、石高
陸奥国不来方(こずかた)城、10万石(南部七郡)
■2.略歴
彦九郎。初め晴直。父信直と小田原に赴いたときに、前田利家の加冠で元服してその諱を賜ったという。文禄四年(1595)、従五位下、信濃守。盛岡(南部)藩初代藩主。
南部氏は清和源氏義光流で、初代の光行が源頼朝に従って治承四年(1180)、石橋山の戦いで軍功があり、甲斐国巨摩(こま)郡南部郷を与えられて南部姓を称したのが始まりである。光行は文治五年(1189)のいわゆる奥州征伐でも戦功を立てて陸奥国糠部郡などに所領を与えられ三戸に入った。南部氏が陸奥に勢力を持つことになったきっかけである。
光行は加賀美遠光の三男で、母は和田義盛の娘(あるいは姉妹とも)とされる。光行の兄長清は小笠原氏の祖であり、遠光の兄信義は武田氏の祖である(系図には異説がある)。信義、遠光の曽祖父は源義光(新羅三郎、しんらさぶろう)で、義光の兄が源義家(八幡太郎)になる。
その後は一族が分かれるが、十三代の大膳大夫守行(禅高法師)が陸奥国司となった前後を除くと事跡がはっきりしない当主が多く、利直の父信直以前の系図も諸説あって確定していない。
現在の岩手県から青森県の下北半島に及ぶ南部氏の広大な版図は「三日月の丸くなるまで南部領」と言われた。歩けばそれだけ日数がかかるという意味であろう。それゆえに一族の争いも多く、利直の父信直も激しい争いの末、庶流から南部氏の家督を継いでいる。南部一族とされる九戸政実はこれに不満を抱いて反乱を起こした。折しも津軽では大浦為信が独立の動きを示しているときである。信直は豊臣政権の力を借りて九戸政実の乱を鎮圧するが、いち早く秀吉に通じていた大浦為信の独立は防げなかった。
信直は慶長四年(1599)、死去し、利直が家督を継いだ。
■3.関ヶ原の戦いでの動向
会津征伐では最上義光に属して米沢口の攻め手となり山形に駐屯するが、西軍の挙兵によりいったん居城に戻って領国を守った。のち上杉家の直江兼続の攻撃を受けた最上義光の救援に赴くが、領内の和賀・稗貫地方で一揆が起こったため再び領国に戻った。伊達政宗に使嗾されたという和賀主馬忠親のこもる岩崎城を落とし一揆を鎮圧するのは翌年のことである。
東軍に味方した功で所領を安堵され、戦いの翌年には西軍の武将四人(石川備前守貞清、宮部兵部少輔長房、岸田伯耆守忠氏、松浦安大夫宗清)を預けられた。
■4.その後
不来方(こずかた、のちの盛岡)での築城は信直の代に始まり、二代藩主重直の寛永十年(1633)に完成した。利直が盛岡城に移るのは元和元年(1615)で、それまでは福岡城(二戸市)に在城した。大坂の陣にも従軍するが、南部家中には豊臣方についた者もあり、戦後、利直が追及される原因となった。
弘前(津軽)藩には遺恨を抱いており、江戸幕府も基本的には両家を同席させないように配慮したほどである。参勤交代の際も弘前藩主は南部領を通過しないようにしていた。文政四年(1821)には南部藩士である下斗米秀之進が津軽寧親の行列の襲撃を企てている(相馬大作事件)。このとき襲撃者側が待ち受けたのは秋田藩領内である。
維新時は家老楢山佐渡の主張で奥羽越列藩同盟に参加、秋田藩(佐竹氏)に攻撃を加えたが、のち新政府軍に降伏した。最後の藩主であった南部利恭の子利祥は日露戦争に従軍して戦死している。
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南部晴政 【なんぶはるまさ】 永正十四年(1517)?-天正十年(1582)
戦国時代に南部氏の全盛期を築くのが晴政である。父は安信とされるが、実際に親子だったかはっきりしない。南部氏の一族間で争いがあって、晴政が安信を討って家督を継いだとする説もある。このあたりの系図は混乱しており(戦乱の中で焼失したという)、南部信直の父石川高信も晴政の弟、あるいは安信の弟(晴政の叔父)、安信の叔父という説がある。
晴政の時の南部氏最盛期を指してのことと思われるが、「三日月の丸くなるまで南部領」とは、誰が詠んだのかよくわからない。もしかしたら、逆に有名な人だろうか。ビジュアル的に、三陸(陸中)海岸沿いから内陸に領地を拡大していくシーンと思っていたが違っていたようで、南部領を歩き始めたときは三日月だったが、満月(十五夜)になってもまだ領内を歩いているほど広いという意味のようである。一日に20km歩いたとすれば、南北に優に200kmは超える領地である。
戦前に書かれた中里介山の未完の長編小説『大菩薩峠』の「白雲の巻」に「このまま三日月の円くなり、明月の三日月になるまで、南部領あたりを巡っていたかも知れないのです」との文章があるが、これがオリジナルとは思えず、もとは俚言、俗言の類だろうか。
『信長の野望・天翔記』で西国や中央の大名でプレイしていると、伊達や最上を滅ぼして東北を統一した南部家の騎馬大名が怒涛の進撃を見せて恐ろしかった。
晴政には男子がなく、いったんは信直に長女を娶せて養嗣子としたが、元亀元年(1570)に嫡男の晴継が誕生したことから、信直は後継の地位を退いた。しかし、南部家中では北信愛ら信直を支持する勢力や、九戸氏の勢力が対立するようになる。天正十年(1582)、晴政が死去すると直後に晴継も病死したが、信直側との内乱で殺されたとの説や九戸政実に暗殺されたとの説もある。なお、利直の母は晴政の長女ではないようである。
その後は信直を推す重臣と晴政の二女が嫁いだ九戸実親を推す九戸政実(実親の兄)が争うことになる。
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