兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
平岩親吉・2
平岩親吉・1
http://naraku.or-hell.com/Entry/1584/
平岩親吉・2
http://naraku.or-hell.com/Entry/1619/
平岩親吉・3
http://naraku.or-hell.com/Entry/1817/
平岩親吉・4
http://naraku.or-hell.com/Entry/1836/
平岩親吉・5
http://naraku.or-hell.com/Entry/1964/
それにしても、なぜこのようなマイナーな人物を取り上げるのかというと、きっかけは2013年11月『戦国IXA』の新武将カードとして登場したからです。渋いイラストと「毒饅頭(まんじゅう)」のスキルにしびれました。

家康と同い年なので、家康と同様に老けた印象がありましたが、近年の家康はショタ化しているので、親吉もこんなものかと。それにしても、書を片手に、煙草を吹かしながら、遠くを眺める親吉。本多正信もかくやの陰険な策謀家っぷりです。

本多正信:弥八郎、佐渡守。家康が「友」と呼んだ帷幄(いあく)の臣。
二十代の頃は、三河一向一揆で一揆側に立ち、一時出奔している。
まもなく帰参するが(帰参した時期には諸説ある)、焦ったのか、姉川の戦いでは敵中に深入りしすぎて、捕らわれそうになったところを味方に助けられたという。
平岩の毒饅頭
さて、この話にはいくつかの変種(バリエーション)があるが、中心となっているのは、慶長十六年(1611)三月二十八日、二条城で行われた徳川家康と豊臣秀頼の会見、および、その後の加藤清正と平岩親吉の病死である。
会見で家康(あるいは謀臣の本多正信)は秀頼の毒殺を図り、親吉は毒針で刺した饅頭をみずから食した上で秀頼に勧めたが、毒殺の意図を察した清正が饅頭を食べて秀頼の身を守った、という話である。会見後に、親吉が清正、池田輝政、浅野幸長、片桐且元を招いて、秀頼から賜ったという饅頭を食べさせようとする話もある。
清正も親吉も同じ年のうちに死んでいることから、巷間、「毒饅頭による暗殺説」がささやかれ、「毒饅頭を食べ、みずからの命を投げ打って、主君の身命を守る」という構図は歌舞伎にも取り入れられた。
明らかな創作
ただ、この話は明らかに創作であって事実ではない。清正が死んだのは会見から三か月後の六月二十四日であり、肥後への帰途、船中で発症し、やがて会話ができない状態になり、肌が黒くなって死んだとされており、このことから、死因は脳溢血や腎虚というのが一般的である。親吉に至っては、死んだのは十二月三十日であり、いかに「遅効性」の毒を使ったとしても、同じ毒でこれだけ間があるのはおかしい。
なお、「毒殺」を載せるような俗書で、秀頼の忠臣として名が挙げられているのは、清正のほかに、池田輝政と浅野幸長(よしなが)の二人だが、この二人も会見から二年ほど後の慶長十八年に死んでいる。輝政は五十歳だが、幸長は三十八歳の若さである。彼らの死にも暗殺説があるが、ここに福島正則は含まれていない。清正、輝政、幸長の三人が暗殺されたかはともかく、会見後に死んだために、名が挙げられたと考えた方がいいだろう。
さて、暗殺説は創作として、暗殺者に親吉の名が使われた理由を考えてみたい。考えられるのは以下の三つである。
1.家康の重臣で、会見後に死んだ(相応に名が知られており、「間もなく」死んだ)
2.家康の信任が厚く、恩義を感じていた(命を投げ打って毒饅頭を食べるほど)
3.直接の子孫が残っておらず悪役に仕立てやすい(大名としては断絶した)
次回はそれぞれについてもう少し深く考察してみよう。

加藤清正:虎之助。主計頭、肥後守、侍従。
母は秀吉の母大政所の縁者(いとことも)と言われ、秀吉子飼いの武将として育つ。賤ヶ岳の七本鎗の一人。佐々成政の改易後、肥後半国を与えられ熊本城に入る。死後、子の忠広が継いだが改易。その後に肥後に入った細川氏が清正を敬ったために、次第に神格化された。

池田輝政:幼名は古新、初名は照政。「輝政」と改めるのは晩年(1609年頃)である。三左衛門。侍従。
恒興(信輝)の二男。父と兄が小牧・長久手の戦いで戦死したため、池田家を継いだ。目立った戦功はないが、秀吉に取り立てられる形で厚遇される。秀吉の仲介で家康の二女督姫(初め北条氏直室)を娶る。関ヶ原の戦い後は播磨姫路五十二万石を与えられ、播磨宰相、西国将軍などと呼ばれた。

浅野幸長(よしなが):幼名は長満(ちょうみつ)。左京大夫、紀伊守。
長政の子。長政は秀吉の義弟に当たり、いわゆる「五奉行」の一人となった。武断派の一人として、秀吉の死後は三成排斥に動く。関ヶ原の戦い後は紀伊和歌山三十七万石を与えられる。幸長の死後は弟長晟(ながあきら)が継ぎ、大坂の陣後は安芸広島に入った。長晟の弟長重の系統は播磨赤穂に入るが、曾孫の長矩が殿中(江戸城内)で刃傷事件を起こして切腹となり、赤穂藩は取り潰しとなった。
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平岩親吉・2
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平岩親吉・3
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平岩親吉・4
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平岩親吉・5
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それにしても、なぜこのようなマイナーな人物を取り上げるのかというと、きっかけは2013年11月『戦国IXA』の新武将カードとして登場したからです。渋いイラストと「毒饅頭(まんじゅう)」のスキルにしびれました。
家康と同い年なので、家康と同様に老けた印象がありましたが、近年の家康はショタ化しているので、親吉もこんなものかと。それにしても、書を片手に、煙草を吹かしながら、遠くを眺める親吉。本多正信もかくやの陰険な策謀家っぷりです。
本多正信:弥八郎、佐渡守。家康が「友」と呼んだ帷幄(いあく)の臣。
二十代の頃は、三河一向一揆で一揆側に立ち、一時出奔している。
まもなく帰参するが(帰参した時期には諸説ある)、焦ったのか、姉川の戦いでは敵中に深入りしすぎて、捕らわれそうになったところを味方に助けられたという。
平岩の毒饅頭
さて、この話にはいくつかの変種(バリエーション)があるが、中心となっているのは、慶長十六年(1611)三月二十八日、二条城で行われた徳川家康と豊臣秀頼の会見、および、その後の加藤清正と平岩親吉の病死である。
会見で家康(あるいは謀臣の本多正信)は秀頼の毒殺を図り、親吉は毒針で刺した饅頭をみずから食した上で秀頼に勧めたが、毒殺の意図を察した清正が饅頭を食べて秀頼の身を守った、という話である。会見後に、親吉が清正、池田輝政、浅野幸長、片桐且元を招いて、秀頼から賜ったという饅頭を食べさせようとする話もある。
清正も親吉も同じ年のうちに死んでいることから、巷間、「毒饅頭による暗殺説」がささやかれ、「毒饅頭を食べ、みずからの命を投げ打って、主君の身命を守る」という構図は歌舞伎にも取り入れられた。
明らかな創作
ただ、この話は明らかに創作であって事実ではない。清正が死んだのは会見から三か月後の六月二十四日であり、肥後への帰途、船中で発症し、やがて会話ができない状態になり、肌が黒くなって死んだとされており、このことから、死因は脳溢血や腎虚というのが一般的である。親吉に至っては、死んだのは十二月三十日であり、いかに「遅効性」の毒を使ったとしても、同じ毒でこれだけ間があるのはおかしい。
なお、「毒殺」を載せるような俗書で、秀頼の忠臣として名が挙げられているのは、清正のほかに、池田輝政と浅野幸長(よしなが)の二人だが、この二人も会見から二年ほど後の慶長十八年に死んでいる。輝政は五十歳だが、幸長は三十八歳の若さである。彼らの死にも暗殺説があるが、ここに福島正則は含まれていない。清正、輝政、幸長の三人が暗殺されたかはともかく、会見後に死んだために、名が挙げられたと考えた方がいいだろう。
さて、暗殺説は創作として、暗殺者に親吉の名が使われた理由を考えてみたい。考えられるのは以下の三つである。
1.家康の重臣で、会見後に死んだ(相応に名が知られており、「間もなく」死んだ)
2.家康の信任が厚く、恩義を感じていた(命を投げ打って毒饅頭を食べるほど)
3.直接の子孫が残っておらず悪役に仕立てやすい(大名としては断絶した)
次回はそれぞれについてもう少し深く考察してみよう。
加藤清正:虎之助。主計頭、肥後守、侍従。
母は秀吉の母大政所の縁者(いとことも)と言われ、秀吉子飼いの武将として育つ。賤ヶ岳の七本鎗の一人。佐々成政の改易後、肥後半国を与えられ熊本城に入る。死後、子の忠広が継いだが改易。その後に肥後に入った細川氏が清正を敬ったために、次第に神格化された。
池田輝政:幼名は古新、初名は照政。「輝政」と改めるのは晩年(1609年頃)である。三左衛門。侍従。
恒興(信輝)の二男。父と兄が小牧・長久手の戦いで戦死したため、池田家を継いだ。目立った戦功はないが、秀吉に取り立てられる形で厚遇される。秀吉の仲介で家康の二女督姫(初め北条氏直室)を娶る。関ヶ原の戦い後は播磨姫路五十二万石を与えられ、播磨宰相、西国将軍などと呼ばれた。
浅野幸長(よしなが):幼名は長満(ちょうみつ)。左京大夫、紀伊守。
長政の子。長政は秀吉の義弟に当たり、いわゆる「五奉行」の一人となった。武断派の一人として、秀吉の死後は三成排斥に動く。関ヶ原の戦い後は紀伊和歌山三十七万石を与えられる。幸長の死後は弟長晟(ながあきら)が継ぎ、大坂の陣後は安芸広島に入った。長晟の弟長重の系統は播磨赤穂に入るが、曾孫の長矩が殿中(江戸城内)で刃傷事件を起こして切腹となり、赤穂藩は取り潰しとなった。
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