忍者ブログ
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「戦国人物紹介」

いまはもう次の世代が種牡馬となっていますが、サンデーサイレンスの優秀さと言えば、13年連続でリーディングサイヤーとなったことを示すだけでも十分です。ただ、あまり知られていないのは競走馬としての実績で、アメリカでは二冠を達成するなど、G1五勝を達成しています。イージーゴアとのライバル対決は名勝負でした。

イージーゴアが種牡馬供用御後、わずか4年で死んでしまい(種付け後に心臓麻痺)、わずかな産駒しか残せなかったのに比べ、サンデーは(血統的に人気がなく日本に来た)多くの優秀な競走馬を輩出しました。ここでもサンデーが勝利したと言ってもいいのですが、わずかでも産駒が残っていれば、のちに化けて評価が変わる可能性もあるのが競馬の魅力でもあります。

戦国時代のサンデーサイレンス
 
051 島津貴久 【しまづたかひさ】 1514-1571
 
虎寿丸、又三郎、三郎左衛門尉。修理大夫、陸奥守、従五位下。号は伯囿。偉大な祖父と優秀な四子に挟まれて影が薄いが、貴久自身も優秀な人物である。
 
勝久、実久と戦い勝利、1550年には鹿児島に内城を築いてこれに入った。1552年、貴久に従五位下修理大夫が与えられ、公的にも島津家の家督として認められることになった。しかし、これで島津氏の支配が確立したわけではない。この後も貴久の戦いは続いた。
 
貴久は島津家の「本来の」支配地である薩摩のほか、大隅、日向の三州統一を目指した。まずは大隅の蒲生氏と戦い、ついで肝付氏と戦った。さらに肝付氏と結んだ日向の伊東氏と戦い、薩摩北部の入来院氏とも戦う。伊東氏との戦いは一進一退となったが、1570年には入来院氏を服属させ、薩摩の統一を完成した。三州統一の夢は義久、義弘ら次代に託されることになった。
 
外交的には、鹿児島に上陸したザビエルと面会してキリスト教の布教を許可したり、琉球王尚元と友好関係を築いたりするなど、積極的であった。



© 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

2013年3月にも極で登場しているが、なぜか銃を持つ姿が似合う。
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
無題
多分サンデーサイレンスが種牡馬として大成したのはそれまでのノーザンダンサー系牝馬が主流の日本競馬に合ってたからなんでしょうね
それとダート競馬が主流のアメリカだったら種牡馬として成功してたかどうか...
セレス 2013/03/16(Sat)17:16 編集
無題
そのへんは恵まれていますよね。
血統的に魅力がなくて、日本に来たのが運があったというか、明暗を分けたというか。

あ、全然島津氏の話になっていないw
Rakuna 2013/03/16(Sat)23:05 編集
[1226]  [1225]  [1224]  [1223]  [1222]  [1221]  [1220]  [1219]  [1218]  [1217]  [1216
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
ブログ内検索
最新のコメント
[10/03 Rakuna]
[10/03 セレス]
[09/25 Rakuna]
[09/25 セレス]
[08/22 Rakuna]
[08/22 セレス]
バーコード
アーカイブ
カウンター
Admin / Write
忍者ブログ [PR]