兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
三好一族の話をすると言って、また刀の話。
宗三左文字【そうざさもんじ】
三好一族の惣領である三好元長を讒言により殺し、その代官領を奪った三好政長。のち元長の子長慶に敗れて討ち死にしますが、号を宗三と言い、彼の所持していた刀を「宗三左文字」と言います。政長の生前、この刀は同じ甲斐源氏である武田信虎(信玄の父)に贈られます。
その後、信虎の長女である定恵院が今川義元に嫁いだときに、信虎は娘にこの刀を持たせ、義元が所持することになります。このことから「義元左文字」とも呼ばれるようになります。1560年、桶狭間の戦いで義元が討ち死にすると、所有者は織田信長に移ります。信長はこの刀に「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」「織田尾張守信長」と刻み、本能寺の変まで所持していたと言われています。変後は秀吉、ついで秀頼、さらに家康の手に渡り、その後は代々の徳川将軍家に受け継がれていきます。
維新後、明治天皇が信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、建勲(たけいさお、けんくん)神社が作られると、徳川家から「宗三左文字」が奉納されました。現在では重要文化財となっています。
さて、三好氏を中心にした「三好史観」なんてものはないので、自分で書くしかありません。
そうなると、三好長慶の曽祖父之長あたりから始めて、真田十勇士のモデルとなった三好政康(清海入道)、政勝(伊三入道)、大坂落城で終わりということになるでしょうか。一族の十河(そごう)氏に触れても、やはり大坂の陣で終わりとなりそうです。十河氏といえば、長宗我部氏との不思議な因縁については書いておきたいですね。
三好長慶は三好氏の中ではもっとも有名ですが、彼以降となるとあまり目立ちません。足利将軍と敵対したのか、信長や秀吉との関係はどうだったのか。主役にはなりえず、脇役として甘んじただけに、どの勢力に味方したのか、敵対したのか、わかりづらいのが実感ではないでしょうか。
あるいは、将軍を殺したのは事実ですし、信長に敵対した時期があることも明らかですから、三好、というか、三好三人衆、それに松永久秀と組み合わせると、どうも悪い人たち、という印象を持たれていそうです。畿内を押さえたことから、文化的に優れた人物も輩出しており、個々人についてはもう少しはっきりさせておきたいと思います。
三好一族の話をすると言って、また刀の話。
宗三左文字【そうざさもんじ】
三好一族の惣領である三好元長を讒言により殺し、その代官領を奪った三好政長。のち元長の子長慶に敗れて討ち死にしますが、号を宗三と言い、彼の所持していた刀を「宗三左文字」と言います。政長の生前、この刀は同じ甲斐源氏である武田信虎(信玄の父)に贈られます。
その後、信虎の長女である定恵院が今川義元に嫁いだときに、信虎は娘にこの刀を持たせ、義元が所持することになります。このことから「義元左文字」とも呼ばれるようになります。1560年、桶狭間の戦いで義元が討ち死にすると、所有者は織田信長に移ります。信長はこの刀に「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」「織田尾張守信長」と刻み、本能寺の変まで所持していたと言われています。変後は秀吉、ついで秀頼、さらに家康の手に渡り、その後は代々の徳川将軍家に受け継がれていきます。
維新後、明治天皇が信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、建勲(たけいさお、けんくん)神社が作られると、徳川家から「宗三左文字」が奉納されました。現在では重要文化財となっています。
さて、三好氏を中心にした「三好史観」なんてものはないので、自分で書くしかありません。
そうなると、三好長慶の曽祖父之長あたりから始めて、真田十勇士のモデルとなった三好政康(清海入道)、政勝(伊三入道)、大坂落城で終わりということになるでしょうか。一族の十河(そごう)氏に触れても、やはり大坂の陣で終わりとなりそうです。十河氏といえば、長宗我部氏との不思議な因縁については書いておきたいですね。
三好長慶は三好氏の中ではもっとも有名ですが、彼以降となるとあまり目立ちません。足利将軍と敵対したのか、信長や秀吉との関係はどうだったのか。主役にはなりえず、脇役として甘んじただけに、どの勢力に味方したのか、敵対したのか、わかりづらいのが実感ではないでしょうか。
あるいは、将軍を殺したのは事実ですし、信長に敵対した時期があることも明らかですから、三好、というか、三好三人衆、それに松永久秀と組み合わせると、どうも悪い人たち、という印象を持たれていそうです。畿内を押さえたことから、文化的に優れた人物も輩出しており、個々人についてはもう少しはっきりさせておきたいと思います。
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「戦国人物紹介」
有職読み
歴史小説家としても知られる松本清張の下の名前は「せいちょう」と読むが、これはペンネームで、本名は「きよはる」である。平安時代の書家である三蹟(さんせき)とは藤原佐理、藤原行成、小野道風のことであり、彼らの下の名前はそれぞれ「すけまさ」「ゆきなり」「みちかぜ」と読むが、「さり」「こうぜい」「とうふう」と読まれることが多い。このように名前を音読みすることを有職(ゆうそく)読みという。本名を読むことを忌んだ(避けた)一つの例である。文人に使われることが多いが、木戸孝允(たかよし、こういん)のように政治家にも使われることがある。本稿の三好長慶も「ながよし」が本来の読みであるが、「ちょうけい」と呼ばれることも多い。別に誤りではない。私も昔からもっぱら「みよしちょうけい」と呼んでいた記憶がある。
029 三好長慶 【みよしながよし】 1523-64
三好氏は小笠原氏の支流で四国の阿波三好郡を本拠とした。長慶は元長の嫡男で幼名は千熊丸、通称は孫次郎。名はほかに利長、範長とも。修理大夫、筑前守。幕府御供衆、相伴衆。
父の復讐
この人の人生は殺された父の仇討ちから始まる。長慶の父元長は細川晴元(養子をはさむが、系図的には応仁の乱の細川勝元の曾孫に当たる)の重臣であったが、晴元から恐れられるほどの勢力を持っていた。元長の一族であった三好政長は元長とそりが合わなかったことから晴元に讒言したため、晴元は木沢長政や一向一揆とともに元長を攻め殺してしまった。さらに政長は元長が代官を務めていた河内の所領を奪ってしまう。1532年、長慶十歳の時である。長慶は幼少を理由に命を助けられ、晴元の臣下として隠忍の生活を続けることになる。
1539年、淡路で勢力を蓄えた長慶は十八歳で兵二千五百を率いて上洛。晴元に河内の代官領を要求するが、晴元が拒否したため、両者の間に戦端が開かれた。その後、両者は和睦し、長慶は摂津半国の守護代、越水城主となった。ついで父の仇の一人である木沢長政を破る。晴元の被官として各地で戦うが、1548年、三好政長を除くべく、同じ細川氏の氏綱を擁立して晴元に反旗を翻した。翌年、政長を敗死させ、晴元を京から追うことに成功する。父が殺されてから十七年後のことであった。
三好政権の樹立と崩壊
以後も晴元との戦いは続き、晴元が擁立する将軍足利義輝とも戦っている。1553年、摂津芥川城に本拠を移し、本格的に畿内の支配に着手。この頃が長慶の絶頂期で、京に義輝を迎え、細川氏綱を管領とし、幕府の実権を掌握した。畿内五カ国のほか、本拠である阿波や讃岐、淡路などに一族諸将を配し統治した。しかし、摂津などで諸勢力との戦いが続く。
そんな中、1561年に末弟十河一存(そごうかずなが、かずまさ)が三十代の若さで病死。さらに翌年、弟の三好義賢が畠山高政、根来寺僧兵と戦って戦死。1563年には長慶の子である義興がわずか二十二歳で病死。松永久秀の毒殺説もある。養子として十河一存の子義継を養子に迎えたが、病もあって政務を執らなくなり、最後に残っていた弟安宅冬康も久秀の讒言を受けて殺してしまう。冬康誅殺から間もなく、失意のうちに病死した。
次回は三好家の人々。長慶の覇業を援けた一族を取り上げます。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
管領細川氏に代わって権勢を誇るが、自身も家臣の松永久秀に実権を奪われた。
有職読み
歴史小説家としても知られる松本清張の下の名前は「せいちょう」と読むが、これはペンネームで、本名は「きよはる」である。平安時代の書家である三蹟(さんせき)とは藤原佐理、藤原行成、小野道風のことであり、彼らの下の名前はそれぞれ「すけまさ」「ゆきなり」「みちかぜ」と読むが、「さり」「こうぜい」「とうふう」と読まれることが多い。このように名前を音読みすることを有職(ゆうそく)読みという。本名を読むことを忌んだ(避けた)一つの例である。文人に使われることが多いが、木戸孝允(たかよし、こういん)のように政治家にも使われることがある。本稿の三好長慶も「ながよし」が本来の読みであるが、「ちょうけい」と呼ばれることも多い。別に誤りではない。私も昔からもっぱら「みよしちょうけい」と呼んでいた記憶がある。
029 三好長慶 【みよしながよし】 1523-64
三好氏は小笠原氏の支流で四国の阿波三好郡を本拠とした。長慶は元長の嫡男で幼名は千熊丸、通称は孫次郎。名はほかに利長、範長とも。修理大夫、筑前守。幕府御供衆、相伴衆。
父の復讐
この人の人生は殺された父の仇討ちから始まる。長慶の父元長は細川晴元(養子をはさむが、系図的には応仁の乱の細川勝元の曾孫に当たる)の重臣であったが、晴元から恐れられるほどの勢力を持っていた。元長の一族であった三好政長は元長とそりが合わなかったことから晴元に讒言したため、晴元は木沢長政や一向一揆とともに元長を攻め殺してしまった。さらに政長は元長が代官を務めていた河内の所領を奪ってしまう。1532年、長慶十歳の時である。長慶は幼少を理由に命を助けられ、晴元の臣下として隠忍の生活を続けることになる。
1539年、淡路で勢力を蓄えた長慶は十八歳で兵二千五百を率いて上洛。晴元に河内の代官領を要求するが、晴元が拒否したため、両者の間に戦端が開かれた。その後、両者は和睦し、長慶は摂津半国の守護代、越水城主となった。ついで父の仇の一人である木沢長政を破る。晴元の被官として各地で戦うが、1548年、三好政長を除くべく、同じ細川氏の氏綱を擁立して晴元に反旗を翻した。翌年、政長を敗死させ、晴元を京から追うことに成功する。父が殺されてから十七年後のことであった。
三好政権の樹立と崩壊
以後も晴元との戦いは続き、晴元が擁立する将軍足利義輝とも戦っている。1553年、摂津芥川城に本拠を移し、本格的に畿内の支配に着手。この頃が長慶の絶頂期で、京に義輝を迎え、細川氏綱を管領とし、幕府の実権を掌握した。畿内五カ国のほか、本拠である阿波や讃岐、淡路などに一族諸将を配し統治した。しかし、摂津などで諸勢力との戦いが続く。
そんな中、1561年に末弟十河一存(そごうかずなが、かずまさ)が三十代の若さで病死。さらに翌年、弟の三好義賢が畠山高政、根来寺僧兵と戦って戦死。1563年には長慶の子である義興がわずか二十二歳で病死。松永久秀の毒殺説もある。養子として十河一存の子義継を養子に迎えたが、病もあって政務を執らなくなり、最後に残っていた弟安宅冬康も久秀の讒言を受けて殺してしまう。冬康誅殺から間もなく、失意のうちに病死した。
次回は三好家の人々。長慶の覇業を援けた一族を取り上げます。
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管領細川氏に代わって権勢を誇るが、自身も家臣の松永久秀に実権を奪われた。
「戦国人物紹介」
祝・100回記念!
今回はいつもと趣を変えて、人物ではなく刀です。
三日月宗近 【みかづきむねちか】
平安時代の刀工三条宗近作の日本刀。天下五剣の一つ。国宝。
美術館で見たことがあったかなあ。いい刀はその美しさにひきこまれてしまって、いつまで見ていても飽くことがありません。
料理をする人ならわかると思いますが、豚肉などを切っていると、包丁に脂がついてだんだん切りづらくなりますよね。人を切るのも同じで(人間も脂が多い)、二、三人切ると、切れ味を保てなくなります。切り合えば刃こぼれもしますし、刀の腰が伸びれば(日本刀といえども曲がる)「なまくら」になります。
そこで足利義輝がやったのが、秘蔵の刀を何本も出してきては、鞘から出して抜き身にし、それを床に突き立てて、刀がなまくらになると、床に刺した刀を抜いてまた戦うという方法でした。鞘から抜く間さえ惜しんだといったところでしょうか。実戦での刀の限界をよくわきまえていたと思います。
二条御所で義輝は三日月宗近を振るって戦ったと言われていますが、その後は三好三人衆の三好政康の手に渡ります。その後は政康から秀吉に献上され、秀吉から北政所、さらに徳川秀忠へと所有者を変えます。現在は国立博物館に所蔵されています。
外部リンク e國寶 太刀 銘三条(名物 三日月宗近)

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
足利義輝の剣術の師。この人くらいなら石燈籠も真っ二つ?
祝・100回記念!
今回はいつもと趣を変えて、人物ではなく刀です。
三日月宗近 【みかづきむねちか】
平安時代の刀工三条宗近作の日本刀。天下五剣の一つ。国宝。
美術館で見たことがあったかなあ。いい刀はその美しさにひきこまれてしまって、いつまで見ていても飽くことがありません。
料理をする人ならわかると思いますが、豚肉などを切っていると、包丁に脂がついてだんだん切りづらくなりますよね。人を切るのも同じで(人間も脂が多い)、二、三人切ると、切れ味を保てなくなります。切り合えば刃こぼれもしますし、刀の腰が伸びれば(日本刀といえども曲がる)「なまくら」になります。
そこで足利義輝がやったのが、秘蔵の刀を何本も出してきては、鞘から出して抜き身にし、それを床に突き立てて、刀がなまくらになると、床に刺した刀を抜いてまた戦うという方法でした。鞘から抜く間さえ惜しんだといったところでしょうか。実戦での刀の限界をよくわきまえていたと思います。
二条御所で義輝は三日月宗近を振るって戦ったと言われていますが、その後は三好三人衆の三好政康の手に渡ります。その後は政康から秀吉に献上され、秀吉から北政所、さらに徳川秀忠へと所有者を変えます。現在は国立博物館に所蔵されています。
外部リンク e國寶 太刀 銘三条(名物 三日月宗近)
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足利義輝の剣術の師。この人くらいなら石燈籠も真っ二つ?
「戦国人物紹介」
「戦国人物紹介」、ナンバリングされた人物は27人ですが、関東三国志だけで100回近く書いてしまいました。北条は氏康の死まで、武田は滅亡まで、上杉は御館の乱まで書きました。北条、上杉の続きはまたいずれ。「関東三国志」編を終えて、「畿内の戦い」編に移ります。ナンバリングされた人物の紹介は実に三か月ぶり。
■畿内の戦い
028 足利義輝 【あしかがよしてる】 1536-65
室町幕府の十三代将軍(1546-65)。父は十二代義晴、母は関白近衛尚通の娘慶寿院。最後の将軍義昭は同母弟になる。幼名は菊童丸。初名は義藤。細川藤孝(幽斎)は「義藤」の偏諱である。
前振りとして、流浪する代々の足利将軍について書いてもいいのだが、この人で書きたいことは最期の場面だけである。
三好、松永の兵に二条御所を襲われると、義輝の家臣たちは防戦に努め、義輝の脱出を図った。しかし、義輝は逃れ難しと覚ると、みずから刀を振るって応戦することを決めた。数人を斬ると刀はなまくらになってしまう。そこで義輝は足利家秘蔵の名刀を鞘から抜いて床に並べて突き立て、刀が切れなくなると別の刀に取り替えてまた戦ったという。将軍の思わぬ奮闘に三好、松永の兵も攻めあぐねたが、最後は四方から襖を盾に動きを封じ、突き殺したという。御所は煙に包まれ、母親も自害した。将軍としては凄まじい最期である。
将軍とは、言うまでもなく武家の棟梁であるが、将軍自身が強い必要はない。むしろ将軍みずから戦うようでは負けである。とは言っても、将軍や戦国大名に武芸の嗜みがなかったわけではない。信長が弓や鉄砲を習ったことは知られているし、家康も鉄砲や剣術に巧みであったという。それにしても、義輝の剣術は嗜みの域を超えている。塚原卜伝から奥義「一の太刀」を伝授され、上泉信綱からは兵法の講義を受けたというから、「殿様剣法」どころの話ではない。
書きたいのはここだけなのだが、そこに至るまでの経緯は書かねばなるまい。
義輝が生まれた当時の京は管領細川晴元の専権下にあったが、父である十二代将軍義晴と晴元はたびたび対立し、そのたびに義輝は義晴とともに近江坂本へ逃れる生活が続いた。1546年、父の将軍辞退により、わずか十一歳で将軍となり、晴元と和睦して京に戻った。しかし、その後、晴元の家臣であった三好長慶が細川氏綱を擁立するとこれに敗れ、今度は晴元とともに近江坂本に逃れ、堅田、朽木と各地を転々とする。1552年に細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶との和睦が成立し、京に戻るが、長慶との抗争はこの後も続いた。
1558年に京に戻ったあとは安定した地位を築き、各地の大名間の調停に乗り出したり、偏諱を与えたりするなど、幕府権威の上昇に努める。1564年に長慶が死んだが、翌年には三好三人衆、松永久秀が足利義栄(義輝の従弟)を擁立する。清水寺の参詣と称して上洛した彼らは目ざわりとなった二条御所の義輝を襲撃するのである。

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名刀蒐集家(コレクター)。道具は集めて眺めるものではなく、使ってこそのものである。秘蔵の名刀を存分に振るうことができて、案外満足だったのかもしれない。
1559年二月、尾張から上総介を称する男が上洛して、京の義輝に謁見、尾張の統一がほぼなったことを報告している。小説的に書けば、天下について談じ、意気投合したというところだろうか。義輝が健在であれば、この上総介信長が将軍候補を擁立して上洛することもなかっただろうから、この二人がともに戦った可能性は低いのだが、馬が合ったようだから見たかった気もする。
「戦国人物紹介」、ナンバリングされた人物は27人ですが、関東三国志だけで100回近く書いてしまいました。北条は氏康の死まで、武田は滅亡まで、上杉は御館の乱まで書きました。北条、上杉の続きはまたいずれ。「関東三国志」編を終えて、「畿内の戦い」編に移ります。ナンバリングされた人物の紹介は実に三か月ぶり。
■畿内の戦い
028 足利義輝 【あしかがよしてる】 1536-65
室町幕府の十三代将軍(1546-65)。父は十二代義晴、母は関白近衛尚通の娘慶寿院。最後の将軍義昭は同母弟になる。幼名は菊童丸。初名は義藤。細川藤孝(幽斎)は「義藤」の偏諱である。
前振りとして、流浪する代々の足利将軍について書いてもいいのだが、この人で書きたいことは最期の場面だけである。
三好、松永の兵に二条御所を襲われると、義輝の家臣たちは防戦に努め、義輝の脱出を図った。しかし、義輝は逃れ難しと覚ると、みずから刀を振るって応戦することを決めた。数人を斬ると刀はなまくらになってしまう。そこで義輝は足利家秘蔵の名刀を鞘から抜いて床に並べて突き立て、刀が切れなくなると別の刀に取り替えてまた戦ったという。将軍の思わぬ奮闘に三好、松永の兵も攻めあぐねたが、最後は四方から襖を盾に動きを封じ、突き殺したという。御所は煙に包まれ、母親も自害した。将軍としては凄まじい最期である。
将軍とは、言うまでもなく武家の棟梁であるが、将軍自身が強い必要はない。むしろ将軍みずから戦うようでは負けである。とは言っても、将軍や戦国大名に武芸の嗜みがなかったわけではない。信長が弓や鉄砲を習ったことは知られているし、家康も鉄砲や剣術に巧みであったという。それにしても、義輝の剣術は嗜みの域を超えている。塚原卜伝から奥義「一の太刀」を伝授され、上泉信綱からは兵法の講義を受けたというから、「殿様剣法」どころの話ではない。
書きたいのはここだけなのだが、そこに至るまでの経緯は書かねばなるまい。
義輝が生まれた当時の京は管領細川晴元の専権下にあったが、父である十二代将軍義晴と晴元はたびたび対立し、そのたびに義輝は義晴とともに近江坂本へ逃れる生活が続いた。1546年、父の将軍辞退により、わずか十一歳で将軍となり、晴元と和睦して京に戻った。しかし、その後、晴元の家臣であった三好長慶が細川氏綱を擁立するとこれに敗れ、今度は晴元とともに近江坂本に逃れ、堅田、朽木と各地を転々とする。1552年に細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶との和睦が成立し、京に戻るが、長慶との抗争はこの後も続いた。
1558年に京に戻ったあとは安定した地位を築き、各地の大名間の調停に乗り出したり、偏諱を与えたりするなど、幕府権威の上昇に努める。1564年に長慶が死んだが、翌年には三好三人衆、松永久秀が足利義栄(義輝の従弟)を擁立する。清水寺の参詣と称して上洛した彼らは目ざわりとなった二条御所の義輝を襲撃するのである。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
名刀蒐集家(コレクター)。道具は集めて眺めるものではなく、使ってこそのものである。秘蔵の名刀を存分に振るうことができて、案外満足だったのかもしれない。
1559年二月、尾張から上総介を称する男が上洛して、京の義輝に謁見、尾張の統一がほぼなったことを報告している。小説的に書けば、天下について談じ、意気投合したというところだろうか。義輝が健在であれば、この上総介信長が将軍候補を擁立して上洛することもなかっただろうから、この二人がともに戦った可能性は低いのだが、馬が合ったようだから見たかった気もする。
「戦国人物紹介」外伝
「羽柴」の名乗りについての考察・6(最終回)
ここでようやく秀吉の話になりますが、主君でもなく、かつ二人から一字ずつ名字をもらって自分の名字にしたというのは秀吉以外に聞いたことがありません(「松前」の例はあやしい)
丹羽長秀は織田家の重臣か
秀吉が「羽柴」と改めたのは1573年のことで、当時織田家の重臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつを取ったと言われています。柴田は信長の上洛(1568年)以降重く用いられ、いわゆる軍団長(方面司令官)とされたのも佐久間信盛(のちに本願寺攻めで成果を上げられず、信長から延々十九ヶ条にも渡る折檻状をもらって追放される)と並んで早い部類に入ります。
一方の丹羽は美濃攻めに功績があり、上洛後も京の行政に携わりますが、以後、少なくとも軍事的には目立った武功を挙げることはなく、軍団長になることもありませんでした(ただし、丹羽は安土城普請などの奉行職をそつなくこなし、信長からの信頼を受けていました)。本能寺の変の直前に準備された四国攻めでも織田信孝(信長の三男)の副将の一人に過ぎません。本能寺の変の際は堺にいましたが、四国攻めの軍が四散してしまい、東上してきた秀吉の軍に加わり、山崎の戦いに参加しました。その後、清洲会議に参加したことから織田家重臣と見なされることが多いのですが、それまでの経歴を考えると過大評価というものです。
「丹羽」の下と「柴田」の上を組み合わせた不思議
もちろん、丹羽が重臣である必要はなく、秀吉と仲が良かったので、一字をもらったという見方も成り立ちます。しかし、それでは重臣筆頭とも言える柴田の立場がありません。二人から一字ずつもらった話は、丹羽とともに柴田を立てた(柴田に媚びた)という内容になっていますが、この話、柴田にしてみれば、「丹羽」の下の字を上に、「柴田」の上の字を下にされたのですから、自分より格下である丹羽の下に置かれたわけです。いままで名前をもらう例を見てきましたが、それからしても納得がいかないでしょう。そして秀吉にしてみれば、あえて柴田の不興を買ってまで元の名字から変える意味がありません。ですが、秀吉が「羽柴」を称したのは歴史的な事実です。どう考えたらいいのでしょうか。
字を替えた可能性
もしかしたら地名に由来するのかとも考えてみましたが、少なくとも「羽柴秀吉」以前に「羽柴」という地名はなかったようです。現在、京都府伏見区に「羽柴」の名がついた地名がありますが、これは武家屋敷の名前に由来するもので、秀吉の「羽柴」が先にあったものです。読みは同じままで文字だけを変えるというのは地名でもよくあることです。「大坂」が「土に返る」を避けて「大阪」に改めたのは有名ですし、「熊本」も元は「隈本」で、「隈」の字が狭い(山に囲まれる)に通じることから、加藤清正が改めたものです。名字でも「得川」を「徳川」、「浮田」を「宇喜多」などに改めた例があります。
羽柴秀吉の前の名前は「木下藤吉郎」ですが、「木下」の姓は母方の姓とも言われ、父は名字があったかもはっきりしません。もしかすると、「羽柴」はもともと別の「ハシバ」で(おそらく「橋場」であって、橋場という地名も名字もある)、丹羽と柴田からこじつけたのではないでしょうか。

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いまも「羽柴」さんはいますが、秀吉の遠戚とは限りません。
ただ、「羽柴」という名字を秀吉が創作したことは事実のようです。
次回から通常版に戻ります。「戦国人物紹介」畿内編。
「羽柴」の名乗りについての考察・6(最終回)
ここでようやく秀吉の話になりますが、主君でもなく、かつ二人から一字ずつ名字をもらって自分の名字にしたというのは秀吉以外に聞いたことがありません(「松前」の例はあやしい)
丹羽長秀は織田家の重臣か
秀吉が「羽柴」と改めたのは1573年のことで、当時織田家の重臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつを取ったと言われています。柴田は信長の上洛(1568年)以降重く用いられ、いわゆる軍団長(方面司令官)とされたのも佐久間信盛(のちに本願寺攻めで成果を上げられず、信長から延々十九ヶ条にも渡る折檻状をもらって追放される)と並んで早い部類に入ります。
一方の丹羽は美濃攻めに功績があり、上洛後も京の行政に携わりますが、以後、少なくとも軍事的には目立った武功を挙げることはなく、軍団長になることもありませんでした(ただし、丹羽は安土城普請などの奉行職をそつなくこなし、信長からの信頼を受けていました)。本能寺の変の直前に準備された四国攻めでも織田信孝(信長の三男)の副将の一人に過ぎません。本能寺の変の際は堺にいましたが、四国攻めの軍が四散してしまい、東上してきた秀吉の軍に加わり、山崎の戦いに参加しました。その後、清洲会議に参加したことから織田家重臣と見なされることが多いのですが、それまでの経歴を考えると過大評価というものです。
「丹羽」の下と「柴田」の上を組み合わせた不思議
もちろん、丹羽が重臣である必要はなく、秀吉と仲が良かったので、一字をもらったという見方も成り立ちます。しかし、それでは重臣筆頭とも言える柴田の立場がありません。二人から一字ずつもらった話は、丹羽とともに柴田を立てた(柴田に媚びた)という内容になっていますが、この話、柴田にしてみれば、「丹羽」の下の字を上に、「柴田」の上の字を下にされたのですから、自分より格下である丹羽の下に置かれたわけです。いままで名前をもらう例を見てきましたが、それからしても納得がいかないでしょう。そして秀吉にしてみれば、あえて柴田の不興を買ってまで元の名字から変える意味がありません。ですが、秀吉が「羽柴」を称したのは歴史的な事実です。どう考えたらいいのでしょうか。
字を替えた可能性
もしかしたら地名に由来するのかとも考えてみましたが、少なくとも「羽柴秀吉」以前に「羽柴」という地名はなかったようです。現在、京都府伏見区に「羽柴」の名がついた地名がありますが、これは武家屋敷の名前に由来するもので、秀吉の「羽柴」が先にあったものです。読みは同じままで文字だけを変えるというのは地名でもよくあることです。「大坂」が「土に返る」を避けて「大阪」に改めたのは有名ですし、「熊本」も元は「隈本」で、「隈」の字が狭い(山に囲まれる)に通じることから、加藤清正が改めたものです。名字でも「得川」を「徳川」、「浮田」を「宇喜多」などに改めた例があります。
羽柴秀吉の前の名前は「木下藤吉郎」ですが、「木下」の姓は母方の姓とも言われ、父は名字があったかもはっきりしません。もしかすると、「羽柴」はもともと別の「ハシバ」で(おそらく「橋場」であって、橋場という地名も名字もある)、丹羽と柴田からこじつけたのではないでしょうか。
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いまも「羽柴」さんはいますが、秀吉の遠戚とは限りません。
ただ、「羽柴」という名字を秀吉が創作したことは事実のようです。
次回から通常版に戻ります。「戦国人物紹介」畿内編。