兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
似た者同士とはいえ、信長と久秀では信長の方が明らかに実力が上である。天下統一を進めていく信長を久秀はどう見ていたのだろうか。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77.10.10 (中編)
1570年、信長は越前の朝倉義景を攻めるが、義弟の浅井長政が離反。信長は金ヶ崎城に秀吉らを殿軍(しんがり)として置き、琵琶湖の西、朽木越えで京を目指した。このとき、朽木谷の領主である朽木元綱を説いて信長に味方させたのが久秀である。逆に説けば信長を抹殺する絶好の機会であったのだが。しかし、信長に従順だったのはこの頃までで、翌年、信玄の西上が近づくと謀反の虫がうずいたのか、これに通じて徐々に信長から離反。1573年、足利義昭が信長に兵を挙げると、ともに反抗する。しかし、信玄は西上の途中で病死、武田軍は撤退する。足利義昭も敗れて京を追放され、久秀も大和の多聞山城を差し出して再び信長に降伏、剃髪して動意と号する。再度赦された久秀だが、地位は低下し、佐久間信盛の与力として大坂の本願寺攻めに加わることになる。
1577年、最後に叛いたのは謙信の上洛を期待してのものとされる。手取川の戦いで上杉軍が勝利する直前の謀反だが、上杉軍には上洛するだけの実力も計画もなく、久秀にしては勝算が薄いのに決起したという感じである。むしろ、織田家での地位が低下する中、信長に構ってほしくて謀反したのではないかとさえ思える。信長も松井友閑を派遣して理由を問いただそうとするのだが、久秀は会おうともしなかった。やむなく、信長は嫡子信忠に信貴山城を囲ませるのだが、平蜘蛛の茶釜を差し出せば赦すと、信長にしては寛大な条件を出している。しかし、久秀はこれを断ると、平蜘蛛の茶釜を粉々に叩き割って(あるいは爆破し)、切腹、爆死したという。死んだのは十月十日で、大仏殿が焼けた日のちょうど十年後であったことから、世の人は天罰だと噂しあったという。
人質であった久秀の孫二人(久通の子)は処刑されたが、歌人の松永貞徳も孫に当たる(養子をはさむようだが)。1581年、京で馬揃えがあったときに、当時十一歳の貞徳も見物に並んでいたが、そこで馬揃えの行列が詰まったことに怒る信長の大音声を聴いたという話が残っている。その子が朱子学者の松永尺五。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
ボンバーマン。
爆死は火薬あってのもので、当時の最先端のスタイルだが、のちに信長も本能寺で真似ている。
古天明平蜘蛛 【こてんみょうひらぐも】
下野安蘇郡天明から産出した鉄から作った茶釜を「天明釜」といい、このうち正長から天文年間のものを「古天明」、慶長年間のころまでのものを「後天明」と呼ぶ。「平蜘蛛」の名は、蜘蛛が這いつくばっているような形をしていることから、あるいは、湯がわいてくると、釜の底に鋳された蜘蛛が生きてうごめくように見えたことから名付けられたともいう。
久秀は信長には「この平蜘蛛と白髪首は渡さぬ」と釜に火薬を詰め、鎖で首からかけ、釜とともに爆死したという。一方、釜は現存している(戦後、がれきの中から探し出して修復した)という説もあり、私も写真で見たことがある。蜘蛛が這いつくばっているような形にはあまり見えない。それにしても、名器の価値がわかる人が名器を壊すだろうか。
似た者同士とはいえ、信長と久秀では信長の方が明らかに実力が上である。天下統一を進めていく信長を久秀はどう見ていたのだろうか。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77.10.10 (中編)
1570年、信長は越前の朝倉義景を攻めるが、義弟の浅井長政が離反。信長は金ヶ崎城に秀吉らを殿軍(しんがり)として置き、琵琶湖の西、朽木越えで京を目指した。このとき、朽木谷の領主である朽木元綱を説いて信長に味方させたのが久秀である。逆に説けば信長を抹殺する絶好の機会であったのだが。しかし、信長に従順だったのはこの頃までで、翌年、信玄の西上が近づくと謀反の虫がうずいたのか、これに通じて徐々に信長から離反。1573年、足利義昭が信長に兵を挙げると、ともに反抗する。しかし、信玄は西上の途中で病死、武田軍は撤退する。足利義昭も敗れて京を追放され、久秀も大和の多聞山城を差し出して再び信長に降伏、剃髪して動意と号する。再度赦された久秀だが、地位は低下し、佐久間信盛の与力として大坂の本願寺攻めに加わることになる。
1577年、最後に叛いたのは謙信の上洛を期待してのものとされる。手取川の戦いで上杉軍が勝利する直前の謀反だが、上杉軍には上洛するだけの実力も計画もなく、久秀にしては勝算が薄いのに決起したという感じである。むしろ、織田家での地位が低下する中、信長に構ってほしくて謀反したのではないかとさえ思える。信長も松井友閑を派遣して理由を問いただそうとするのだが、久秀は会おうともしなかった。やむなく、信長は嫡子信忠に信貴山城を囲ませるのだが、平蜘蛛の茶釜を差し出せば赦すと、信長にしては寛大な条件を出している。しかし、久秀はこれを断ると、平蜘蛛の茶釜を粉々に叩き割って(あるいは爆破し)、切腹、爆死したという。死んだのは十月十日で、大仏殿が焼けた日のちょうど十年後であったことから、世の人は天罰だと噂しあったという。
人質であった久秀の孫二人(久通の子)は処刑されたが、歌人の松永貞徳も孫に当たる(養子をはさむようだが)。1581年、京で馬揃えがあったときに、当時十一歳の貞徳も見物に並んでいたが、そこで馬揃えの行列が詰まったことに怒る信長の大音声を聴いたという話が残っている。その子が朱子学者の松永尺五。
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ボンバーマン。
爆死は火薬あってのもので、当時の最先端のスタイルだが、のちに信長も本能寺で真似ている。
古天明平蜘蛛 【こてんみょうひらぐも】
下野安蘇郡天明から産出した鉄から作った茶釜を「天明釜」といい、このうち正長から天文年間のものを「古天明」、慶長年間のころまでのものを「後天明」と呼ぶ。「平蜘蛛」の名は、蜘蛛が這いつくばっているような形をしていることから、あるいは、湯がわいてくると、釜の底に鋳された蜘蛛が生きてうごめくように見えたことから名付けられたともいう。
久秀は信長には「この平蜘蛛と白髪首は渡さぬ」と釜に火薬を詰め、鎖で首からかけ、釜とともに爆死したという。一方、釜は現存している(戦後、がれきの中から探し出して修復した)という説もあり、私も写真で見たことがある。蜘蛛が這いつくばっているような形にはあまり見えない。それにしても、名器の価値がわかる人が名器を壊すだろうか。
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「戦国人物紹介」
三悪事
「この老人は世の人がなしがたい事を三つなした者である。一つは主君の三好を殺したこと。二つは将軍を殺したこと。三つは東大寺の大仏殿を焼いたこと」
信長が家康に語った久秀評である。久秀は冷や汗をかいて平伏していたというが、私は信長のこの発言にあまり悪意を感じない。むしろこれくらいのことはやって当然というところではないだろうか。信長とて尾張守護の斯波氏を追放しているし、三好長慶も主家の細川氏と対立してこれを倒している。のちに信長は足利義昭を京から追放し、また比叡山を焼き討ちし、一向宗との戦いでは何万人もの大量殺戮をなしている。
気の合う二人
従来、信長が久秀を辱めた場面とされてきたが、どうも信長が久秀を責めているという感じはしない。世の人は久秀のことを「悪人」と言うが、信長の場合、むしろ感心しているのではないか。久秀は信長に二度叛き、三度戦ったが、この二人、似た者同士、気が合ったのではないだろうか。信長も最期は爆死するが、これは久秀リスペクトの一面(あるいはイミテーション)さえあると思う。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77 (前編)
弾正(だんじょう)。弾正忠、従四位下弾正少弼、弾正台の唐名から「霜台(そうだい)」とも称すという。また山城守。
前半生は不明な部分が多い。京の西岡の商人出身とも言われ、斎藤道三(の父)と同郷で旧知という俗説もある。初め三好長慶に仕えて右筆(ゆうひつ、書記官だがそれに留まらない)。1549年、長慶が京の諸政を掌握してからは、三好家の家宰として台頭、弾正忠となり、霜台と称される。のちに長慶は娘を久秀に嫁がせている。大和信貴山、のち多聞山に移り大和北部に勢力を築く。幕臣としては長慶の生前から長慶と匹敵する地位を認められていた。三好一族の相次ぐ死去には久秀の暗殺説もささやかれるが、次第に主家をしのいで権勢をふるう。
長慶の死後は三好三人衆とともに、義継を擁立して、1565年、足利義輝を殺した。久秀は子の久通を派遣し直接襲撃にはかかわっていないが、主導したことは間違いないから、久秀が殺したといっても誤りではない。ついでキリシタン宣教師を追放する。しかし、同年、弟の長頼が丹波で荻野直正(赤井直正)を攻めて敗死し、畿内の覇権を狙った久秀の戦略は狂いを生じることになる。1566年になると、三好三人衆と対立、三好家中で孤立し、筒井順慶に攻められて一時は堺に隠れる窮地に追い込まれるが、反撃に転じて東大寺に布陣していた三人衆を攻撃、このときに大仏殿を焼く(三人衆側が火を放ったともいう)。
1568年、信長が上洛してくると、名物の茶器である九十九髪茄子(つくもがみなす)を差し出して信長に従う。兄の仇であったことから将軍義昭は猛反対するが、信長は久秀の恭順を受け容れ、大和国切り取り次第の許しを与える(身分としては信長の家臣ではなく幕臣である)。大和を任せられたものの、大和には筒井順慶ら国衆がおり、大和の支配はなかなか進まなかった。
九十九髪茄子 【つくもがみなす】
足利義満が所有した唐物の茶入れ。付藻茄子、松永茄子などとも呼ばれる。唐物の茶入れでは茄子は肩衝(かたつき)以上に珍重された。『伊勢物語』の「百年(ももとせ)に一とせ(一年)足らぬ九十九髪 我を恋ふらしおもかけ(面影)に見ゆ」の歌にちなむという。「百」から「一」を取れば「白」になることから、九十九髪とは白髪の意味である。
義満以降は所有者が転々とし、のちに松永久秀が手に入れる。久秀が信長に降った際に、信長に献上されており、『信長公記』には「我朝無双」と記されている。以後は信長が本能寺の変まで所有したという。変により灰燼に帰したという説もあるが、その後は豊臣家が所有するともいう。しかし、大坂落城で破損、家康は塗工の藤重家に預け、漆塗りによって修復させ、以後、藤重家が伝えた。明治になって岩崎弥之助(弥太郎)が所有し、現在は東京の静嘉堂文庫美術館(三菱系の美術館)で保管されている。
外部リンク(所蔵品を見ることができる) 静嘉堂文庫美術館
久秀とは関係ないのだが、曜変天目の青は美しい。
三悪事
「この老人は世の人がなしがたい事を三つなした者である。一つは主君の三好を殺したこと。二つは将軍を殺したこと。三つは東大寺の大仏殿を焼いたこと」
信長が家康に語った久秀評である。久秀は冷や汗をかいて平伏していたというが、私は信長のこの発言にあまり悪意を感じない。むしろこれくらいのことはやって当然というところではないだろうか。信長とて尾張守護の斯波氏を追放しているし、三好長慶も主家の細川氏と対立してこれを倒している。のちに信長は足利義昭を京から追放し、また比叡山を焼き討ちし、一向宗との戦いでは何万人もの大量殺戮をなしている。
気の合う二人
従来、信長が久秀を辱めた場面とされてきたが、どうも信長が久秀を責めているという感じはしない。世の人は久秀のことを「悪人」と言うが、信長の場合、むしろ感心しているのではないか。久秀は信長に二度叛き、三度戦ったが、この二人、似た者同士、気が合ったのではないだろうか。信長も最期は爆死するが、これは久秀リスペクトの一面(あるいはイミテーション)さえあると思う。
030 松永久秀 【まつながひさひで】 1510?-77 (前編)
弾正(だんじょう)。弾正忠、従四位下弾正少弼、弾正台の唐名から「霜台(そうだい)」とも称すという。また山城守。
前半生は不明な部分が多い。京の西岡の商人出身とも言われ、斎藤道三(の父)と同郷で旧知という俗説もある。初め三好長慶に仕えて右筆(ゆうひつ、書記官だがそれに留まらない)。1549年、長慶が京の諸政を掌握してからは、三好家の家宰として台頭、弾正忠となり、霜台と称される。のちに長慶は娘を久秀に嫁がせている。大和信貴山、のち多聞山に移り大和北部に勢力を築く。幕臣としては長慶の生前から長慶と匹敵する地位を認められていた。三好一族の相次ぐ死去には久秀の暗殺説もささやかれるが、次第に主家をしのいで権勢をふるう。
長慶の死後は三好三人衆とともに、義継を擁立して、1565年、足利義輝を殺した。久秀は子の久通を派遣し直接襲撃にはかかわっていないが、主導したことは間違いないから、久秀が殺したといっても誤りではない。ついでキリシタン宣教師を追放する。しかし、同年、弟の長頼が丹波で荻野直正(赤井直正)を攻めて敗死し、畿内の覇権を狙った久秀の戦略は狂いを生じることになる。1566年になると、三好三人衆と対立、三好家中で孤立し、筒井順慶に攻められて一時は堺に隠れる窮地に追い込まれるが、反撃に転じて東大寺に布陣していた三人衆を攻撃、このときに大仏殿を焼く(三人衆側が火を放ったともいう)。
1568年、信長が上洛してくると、名物の茶器である九十九髪茄子(つくもがみなす)を差し出して信長に従う。兄の仇であったことから将軍義昭は猛反対するが、信長は久秀の恭順を受け容れ、大和国切り取り次第の許しを与える(身分としては信長の家臣ではなく幕臣である)。大和を任せられたものの、大和には筒井順慶ら国衆がおり、大和の支配はなかなか進まなかった。
九十九髪茄子 【つくもがみなす】
足利義満が所有した唐物の茶入れ。付藻茄子、松永茄子などとも呼ばれる。唐物の茶入れでは茄子は肩衝(かたつき)以上に珍重された。『伊勢物語』の「百年(ももとせ)に一とせ(一年)足らぬ九十九髪 我を恋ふらしおもかけ(面影)に見ゆ」の歌にちなむという。「百」から「一」を取れば「白」になることから、九十九髪とは白髪の意味である。
義満以降は所有者が転々とし、のちに松永久秀が手に入れる。久秀が信長に降った際に、信長に献上されており、『信長公記』には「我朝無双」と記されている。以後は信長が本能寺の変まで所有したという。変により灰燼に帰したという説もあるが、その後は豊臣家が所有するともいう。しかし、大坂落城で破損、家康は塗工の藤重家に預け、漆塗りによって修復させ、以後、藤重家が伝えた。明治になって岩崎弥之助(弥太郎)が所有し、現在は東京の静嘉堂文庫美術館(三菱系の美術館)で保管されている。
外部リンク(所蔵品を見ることができる) 静嘉堂文庫美術館
久秀とは関係ないのだが、曜変天目の青は美しい。
「戦国人物紹介」
三好氏特集(後編)
三好義継 【みよしよしつぐ】 1549-73
熊王丸、左京大夫。義重。三好長慶の弟十河一存の子で初名は重存。長慶の子義興が早世したため、長慶の養子となり、長慶の死後、三好氏の家督を継ぐ。三好三人衆や松永久秀の後見を受け、1565年には彼らとともに足利義輝を襲殺し、キリスト教宣教師を京から追放した。三人衆と久秀が不仲となると、初めは三人衆、のち久秀と結んで互いに争い、1567年の東大寺大仏殿の戦いでは大仏が焼けた。翌年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀とともに信長に降り、河内北半国を与えられ、若江城主となった。また信長の媒酌で足利義昭の妹を娶る。その後は信長に背いて信長包囲網に加わり、織田方で河内の畠山昭高や摂津の細川昭元と戦う。1573年、足利義昭が京から追放されると、これを保護するが、佐久間信盛に攻められて若江城は落城、妻子とともに自害し、ここに三好氏の嫡流は絶えた。三好家の血は十河氏に受け継がれていくことになる。
のち、大谷刑部吉継が三好義継と同じ読みであることを忌んで、関ヶ原の戦いの前に「吉隆」と改めたという話があるから、当時の評価も芳しくなかったようである。
三好三人衆 【みよしさんにんしゅう】
松永久秀と融合すると化学反応が起こって、将軍だって殺しちゃうし東大寺だって燃やしちゃう人々だが、具体的には、三好長逸、三好政康、岩成友通の三人である。

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だいたい、悪いことをするのはこの人たちということにされる。
三好長逸 【みよしながゆき】 ?-1573?
孫四郎、長縁。従四位下日向守。北斎と号す。系図的には三好之長の子長則の子とされている。長慶の父元長のいとこに当たる。早くから長慶に従って畿内で戦う。1558年以降は山城飯岡城主となり、山城の南半分を統治した。1564年に長慶が死去すると、一族の長老格として義継を補佐し、1565年には他の三人衆や松永久秀らとともに足利義輝を暗殺するに至る。その後は久秀、さらに義継と対立。1567年には東大寺で久秀と戦い、大仏殿は延焼してしまう(どちらが火を放ったかについては議論がある)。
翌年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、近江の六角義賢と結んで抵抗しようとするも、六角方が敗れ、久秀や義継は信長に降伏したため、長逸は阿波に逃れた。1569年、三人衆は本圀寺の足利義昭を襲撃するも、信長方の必死の防戦に遭い、信長自身も急ぎ岐阜から駆け付けたため、襲撃は失敗に終わった。1570年、再度兵を挙げ、野田城・福島城で戦い、石山本願寺の支援を受けて信長に抵抗する。これは足掛け十一年も続いた信長と本願寺側の石山合戦の始まりでもある。一時は摂津を支配するが、年末には和議が成立している。その後も信長包囲網の一翼として信長方と戦い続けるが、1573年に敗北し、その後の行方は不明となった(戦死したともいう)

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2012年4月の新武将。迅速行軍はスキル合成用か。
三好政康 【みよしまさやす】 1528?-1615?
初め政生。下野守。号は釣閑斎、法名は宗渭(そうい)、清海(せいかい)入道。三好頼澄の子で、長慶の父元長のいとこに当たる(系図については諸説ある)。三好三人衆の一人として行動するが、信長の上洛に敗れて逃亡する。その後、秀吉、秀頼に仕えて大坂夏の陣で戦死した三好清海入道が政康の後の姿という俗説がある。いわゆる「真田十勇士」の一人である。

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得物は筋金を打った八尺ほどの樫の棒。秀頼と幸村の大坂城脱出を見届けると、腹を切り、みずから首を刎ねたという。
三好政勝 【みよしまさかつ】 1536-1631
政長(宗三)の子。三好之長の甥に当たる(諸説ある)。右衛門大夫、因幡守。一任。法名は為三(いさ)。父を殺した長慶と対立することもあったが、のち和解。1570年には信長に降り、摂津豊島郡で所領を与えられた。のち秀吉に仕え、さらに家康に属して会津攻めに参加し、大坂の陣にも徳川方として参加し、九十六歳の長命を保った。真田十勇士の一人である三好「伊三」入道のモデルとされる。
次回からは松永久秀。
三好氏特集(後編)
三好義継 【みよしよしつぐ】 1549-73
熊王丸、左京大夫。義重。三好長慶の弟十河一存の子で初名は重存。長慶の子義興が早世したため、長慶の養子となり、長慶の死後、三好氏の家督を継ぐ。三好三人衆や松永久秀の後見を受け、1565年には彼らとともに足利義輝を襲殺し、キリスト教宣教師を京から追放した。三人衆と久秀が不仲となると、初めは三人衆、のち久秀と結んで互いに争い、1567年の東大寺大仏殿の戦いでは大仏が焼けた。翌年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀とともに信長に降り、河内北半国を与えられ、若江城主となった。また信長の媒酌で足利義昭の妹を娶る。その後は信長に背いて信長包囲網に加わり、織田方で河内の畠山昭高や摂津の細川昭元と戦う。1573年、足利義昭が京から追放されると、これを保護するが、佐久間信盛に攻められて若江城は落城、妻子とともに自害し、ここに三好氏の嫡流は絶えた。三好家の血は十河氏に受け継がれていくことになる。
のち、大谷刑部吉継が三好義継と同じ読みであることを忌んで、関ヶ原の戦いの前に「吉隆」と改めたという話があるから、当時の評価も芳しくなかったようである。
三好三人衆 【みよしさんにんしゅう】
松永久秀と融合すると化学反応が起こって、将軍だって殺しちゃうし東大寺だって燃やしちゃう人々だが、具体的には、三好長逸、三好政康、岩成友通の三人である。
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だいたい、悪いことをするのはこの人たちということにされる。
三好長逸 【みよしながゆき】 ?-1573?
孫四郎、長縁。従四位下日向守。北斎と号す。系図的には三好之長の子長則の子とされている。長慶の父元長のいとこに当たる。早くから長慶に従って畿内で戦う。1558年以降は山城飯岡城主となり、山城の南半分を統治した。1564年に長慶が死去すると、一族の長老格として義継を補佐し、1565年には他の三人衆や松永久秀らとともに足利義輝を暗殺するに至る。その後は久秀、さらに義継と対立。1567年には東大寺で久秀と戦い、大仏殿は延焼してしまう(どちらが火を放ったかについては議論がある)。
翌年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、近江の六角義賢と結んで抵抗しようとするも、六角方が敗れ、久秀や義継は信長に降伏したため、長逸は阿波に逃れた。1569年、三人衆は本圀寺の足利義昭を襲撃するも、信長方の必死の防戦に遭い、信長自身も急ぎ岐阜から駆け付けたため、襲撃は失敗に終わった。1570年、再度兵を挙げ、野田城・福島城で戦い、石山本願寺の支援を受けて信長に抵抗する。これは足掛け十一年も続いた信長と本願寺側の石山合戦の始まりでもある。一時は摂津を支配するが、年末には和議が成立している。その後も信長包囲網の一翼として信長方と戦い続けるが、1573年に敗北し、その後の行方は不明となった(戦死したともいう)
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2012年4月の新武将。迅速行軍はスキル合成用か。
三好政康 【みよしまさやす】 1528?-1615?
初め政生。下野守。号は釣閑斎、法名は宗渭(そうい)、清海(せいかい)入道。三好頼澄の子で、長慶の父元長のいとこに当たる(系図については諸説ある)。三好三人衆の一人として行動するが、信長の上洛に敗れて逃亡する。その後、秀吉、秀頼に仕えて大坂夏の陣で戦死した三好清海入道が政康の後の姿という俗説がある。いわゆる「真田十勇士」の一人である。
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得物は筋金を打った八尺ほどの樫の棒。秀頼と幸村の大坂城脱出を見届けると、腹を切り、みずから首を刎ねたという。
三好政勝 【みよしまさかつ】 1536-1631
政長(宗三)の子。三好之長の甥に当たる(諸説ある)。右衛門大夫、因幡守。一任。法名は為三(いさ)。父を殺した長慶と対立することもあったが、のち和解。1570年には信長に降り、摂津豊島郡で所領を与えられた。のち秀吉に仕え、さらに家康に属して会津攻めに参加し、大坂の陣にも徳川方として参加し、九十六歳の長命を保った。真田十勇士の一人である三好「伊三」入道のモデルとされる。
次回からは松永久秀。
「戦国人物紹介」
三好氏特集(中編)
安宅冬康 【あたぎふゆやす】 1528-64
「安宅」は「あたか」「あたけ」と読むが、この一族は「あたぎ」と読む。三好元長の三男で長慶の弟。神太郎、摂津守。号は宗繁、一舟軒、鴨冬。なかなか洒落たネーミングセンスである。
安宅氏を継いで淡路の水軍衆を統率して各地を転戦。三好氏の本拠である四国阿波と畿内の間の制海権を握った冬康の功績は大きい。1562年には和泉久米田で畠山高政らと戦って兄三好義賢を失い、阿波に逃れるが、翌年、再起して河内教興寺の戦いで高政を破った。兄弟や甥が亡くなる中、兄長慶を助けたが、1564年、松永久秀の謀略により謀反の疑いで長慶に殺される。長慶も連歌をよくしたが、冬康も歌や書に優れ、また茶の湯を好んだ文化人であった。温厚な性格で知られ、戦いを続ける兄長慶に鈴虫を送り、「鈴虫でも大事に育てれば長生きする」と無用な殺生を諫めた逸話が伝わっている。鈴虫の話は松永久秀に続く。
冬康の跡は長男信康が継いだ。信長の上洛後は石山本願寺とともに信長に敵対したが、降伏、木津川口の戦いで毛利水軍と戦った。信康の死後は弟清康が継いだが、毛利氏に内応して信長に敵対したことから、秀吉に攻められて降伏した。安土に赴いて信長に本領を安堵されたが、子の重俊が関ヶ原の戦いで西軍に属して没落したという。
十河一存 【そごうかずなが】 1532-61
名は「かずまさ」ともする。又四郎、長正、之虎。民部大輔、讃岐守。三好元長の四男で長慶の末弟。一存が生まれた前後には父元長は戦死していたことになる。讃岐十河城主の十河景滋に子がなかったことから、十河氏を継ぎ、讃岐衆を率いる。
1549年には父の仇である三好政長と摂津江口で戦い、政長を敗死させた。1560年には河内の畠山高政を破り、岸和田城主となった。しかし、翌年、瘡(かさ)により病死。松永久秀と有馬温泉で湯治中に死去し、久秀の暗殺説が噂されたともいう。あるいは、有馬の権現が嫌う芦毛の馬に乗ったため、落馬して死んだという説もある。
軍事面で長慶を補佐した一存がわずか三十歳で死去したことから、三好政権は崩壊の兆しを見せる。子はのち長慶の養子となり義継と称したことから、十河氏は長慶の弟義賢の子である存保(ながやす)が継いだ。

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目が緑色に光っています・・・。
長慶のもとで畿内各地を転戦、その戦いぶりから「鬼十河」と称された。
十河存保 【そごうながやす】 1554-86
三好義賢(実休)の子。讃岐十河城主である叔父十河一存の養子となった。本家の三好氏とともに信長に敵対したが、土佐の長宗我部元親の勢力が伸長してくると信長に従った。1577年、実兄の三好長治が元親方についた細川真之と戦って敗死すると、翌年、阿波勝瑞城主を兼ねた。以後は信長の支援を受けて元親と戦うが、1582年、本能寺の変で信長が倒れると、織田家の後ろ盾を失い、同年の中富川の戦いに敗れて阿波を追われて讃岐に撤退した。1584年、讃岐十河城、虎丸城が陥落し、大坂に逃れて秀吉を頼った。
1585年、秀吉の四国攻めに従い、旧領である讃岐十河三万石を回復した。しかし、翌年、九州攻めの先鋒として出陣する。旧敵、長宗我部元親の長男信親らとともに、島津家久と戦うが、戸次川の戦いで存保、信親とも戦死した。
子の存英は所領を継ぐことを許されなかったため、長く浪々の身となったが、のち大坂城に入る。1615年、大坂夏の陣で摂津尼崎において戦死した。長宗我部元親の元親の四男で信親の弟である盛親も大坂方に属し、敗北。のち捕らえられて斬られた。存保にしろ、存英にしろ、元は敵方であった長宗我部氏とともに戦い、二代に渡って同じ戦いで死ぬとは不思議な因縁である。

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元親の嫡男として将来を期待されたが戦死。長宗我部家の家運が傾くきっかけとなる。
三好氏特集(中編)
安宅冬康 【あたぎふゆやす】 1528-64
「安宅」は「あたか」「あたけ」と読むが、この一族は「あたぎ」と読む。三好元長の三男で長慶の弟。神太郎、摂津守。号は宗繁、一舟軒、鴨冬。なかなか洒落たネーミングセンスである。
安宅氏を継いで淡路の水軍衆を統率して各地を転戦。三好氏の本拠である四国阿波と畿内の間の制海権を握った冬康の功績は大きい。1562年には和泉久米田で畠山高政らと戦って兄三好義賢を失い、阿波に逃れるが、翌年、再起して河内教興寺の戦いで高政を破った。兄弟や甥が亡くなる中、兄長慶を助けたが、1564年、松永久秀の謀略により謀反の疑いで長慶に殺される。長慶も連歌をよくしたが、冬康も歌や書に優れ、また茶の湯を好んだ文化人であった。温厚な性格で知られ、戦いを続ける兄長慶に鈴虫を送り、「鈴虫でも大事に育てれば長生きする」と無用な殺生を諫めた逸話が伝わっている。鈴虫の話は松永久秀に続く。
冬康の跡は長男信康が継いだ。信長の上洛後は石山本願寺とともに信長に敵対したが、降伏、木津川口の戦いで毛利水軍と戦った。信康の死後は弟清康が継いだが、毛利氏に内応して信長に敵対したことから、秀吉に攻められて降伏した。安土に赴いて信長に本領を安堵されたが、子の重俊が関ヶ原の戦いで西軍に属して没落したという。
十河一存 【そごうかずなが】 1532-61
名は「かずまさ」ともする。又四郎、長正、之虎。民部大輔、讃岐守。三好元長の四男で長慶の末弟。一存が生まれた前後には父元長は戦死していたことになる。讃岐十河城主の十河景滋に子がなかったことから、十河氏を継ぎ、讃岐衆を率いる。
1549年には父の仇である三好政長と摂津江口で戦い、政長を敗死させた。1560年には河内の畠山高政を破り、岸和田城主となった。しかし、翌年、瘡(かさ)により病死。松永久秀と有馬温泉で湯治中に死去し、久秀の暗殺説が噂されたともいう。あるいは、有馬の権現が嫌う芦毛の馬に乗ったため、落馬して死んだという説もある。
軍事面で長慶を補佐した一存がわずか三十歳で死去したことから、三好政権は崩壊の兆しを見せる。子はのち長慶の養子となり義継と称したことから、十河氏は長慶の弟義賢の子である存保(ながやす)が継いだ。
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目が緑色に光っています・・・。
長慶のもとで畿内各地を転戦、その戦いぶりから「鬼十河」と称された。
十河存保 【そごうながやす】 1554-86
三好義賢(実休)の子。讃岐十河城主である叔父十河一存の養子となった。本家の三好氏とともに信長に敵対したが、土佐の長宗我部元親の勢力が伸長してくると信長に従った。1577年、実兄の三好長治が元親方についた細川真之と戦って敗死すると、翌年、阿波勝瑞城主を兼ねた。以後は信長の支援を受けて元親と戦うが、1582年、本能寺の変で信長が倒れると、織田家の後ろ盾を失い、同年の中富川の戦いに敗れて阿波を追われて讃岐に撤退した。1584年、讃岐十河城、虎丸城が陥落し、大坂に逃れて秀吉を頼った。
1585年、秀吉の四国攻めに従い、旧領である讃岐十河三万石を回復した。しかし、翌年、九州攻めの先鋒として出陣する。旧敵、長宗我部元親の長男信親らとともに、島津家久と戦うが、戸次川の戦いで存保、信親とも戦死した。
子の存英は所領を継ぐことを許されなかったため、長く浪々の身となったが、のち大坂城に入る。1615年、大坂夏の陣で摂津尼崎において戦死した。長宗我部元親の元親の四男で信親の弟である盛親も大坂方に属し、敗北。のち捕らえられて斬られた。存保にしろ、存英にしろ、元は敵方であった長宗我部氏とともに戦い、二代に渡って同じ戦いで死ぬとは不思議な因縁である。
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元親の嫡男として将来を期待されたが戦死。長宗我部家の家運が傾くきっかけとなる。
「戦国人物紹介」
四子がいずれも優秀で戦国時代のサンデーサイレンス(競馬界の名種牡馬)とも評される島津貴久ですが(笑)、三好長慶の父元長もいい線いってるんじゃないかな。
三好氏特集(前編)
三好之長 【みよしゆきなが】 1458-1520
主膳正、筑前守、のち長輝。三好氏の隆盛は之長に始まる。阿波の守護である細川成之に従い、応仁の乱では上洛している。管領細川政元(勝元の子。修験道に没頭した奇人、独身を通した)の家督をめぐって同じ養子である澄之(九条政基の子)と澄元(阿波細川家の成之の孫)が争うと、澄元を支持して各地で戦った。1507年、政元が暗殺されると、之長は澄元とともに澄之によって近江に追われた。のち政元のもう一人の養子である高国が澄之を討ったために入京したが、今度は澄元と高国が争い、高国に敗れた澄元は阿波に逃れた。1511年、高国や高国を支持する大内義興(義隆の父)と再度争う。一度は入京を果たすが、船岡山の戦いで敗れて再び阿波に逃れた。1519年、義興の不在をついて兵庫に上陸、高国を破る。澄元は将軍足利義稙から細川家の家督を認められた。しかし、翌年、高国の反撃に遭い、京都等持院で戦うが敗れ、捕らえられて斬られた。阿波で兵を養い、上洛して戦う、という三好氏の基本方針はすでに之長の代に見られる。
三好元長 【みよしもとなが】 1501-32
弾正少弼、筑前守、長基。長秀の子。之長は祖父(之長の子で長秀の弟とする異説もある)。父長秀は細川高国らとの戦いの中で殺され、之長が処刑されて元長が三好家の家督を継いだのは二十歳の時である。
1526年、足利義維を擁し、細川晴元(澄元の子)とともに阿波で挙兵し、畿内に進出。足利義晴と細川高国を破って近江に追った。1528年には山城守護代となるが、翌年には柳本賢治らと争い阿波に帰国した。1531年、高国側の巻き返しに遭った晴元は元長に救援を要請され、堺に入り、摂津で高国を敗死させた(大物崩れ)。一時高国政権を築いた細川高国は滅んだ。これにより足利義維の堺幕府に復帰するが、足利義晴との和睦を進めようとする晴元とうまくいかず、木沢長政や一族の三好政長らとの対立も生じていた。1532年、晴元側についた一向一揆に攻められて敗死する。

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2012年7月のシークレット。
三好義賢 【みよしよしかた】 1527?-62
千満丸、之康、之虎、元康。豊前守。号は物外軒実休(じっきゅう)。元長の二男、長慶の弟。中央にいることが多い兄長慶に代わり、本拠地の阿波を治めることが多かった。
1547年、当時の長慶は細川晴元に属していたが、晴元と対立する細川氏綱、遊佐長教らと摂津舎利寺に戦い大勝した。弟の十河一存が和泉岸和田城主となると、讃岐も支配下に置いた。1553年には阿波細川家の細川持隆を阿波勝瑞城下の見性寺で殺害し、持隆の子実之を擁立した。1560年には長慶とともに河内の畠山高政らを破り、河内の支配も任された。しかし、1562年、紀伊の根来衆の支援を受けた高政の反撃に遭い、和泉久米田の戦いで戦死した。長男長治が跡を継ぎ、長治の弟は十河一存の養子となり存保を名乗った。
茶の湯を武野紹鴎、千利休らに学んだ文化人としても知られる。義賢の死後に成立した三好氏の分国法「新加制式」は家臣の篠原長房が義賢の治政をもとに制定したものである。

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流れ弾に当たって戦死。武将級の人物が鉄砲で戦死するのは日本で初めてのこととされる。
四子がいずれも優秀で戦国時代のサンデーサイレンス(競馬界の名種牡馬)とも評される島津貴久ですが(笑)、三好長慶の父元長もいい線いってるんじゃないかな。
三好氏特集(前編)
三好之長 【みよしゆきなが】 1458-1520
主膳正、筑前守、のち長輝。三好氏の隆盛は之長に始まる。阿波の守護である細川成之に従い、応仁の乱では上洛している。管領細川政元(勝元の子。修験道に没頭した奇人、独身を通した)の家督をめぐって同じ養子である澄之(九条政基の子)と澄元(阿波細川家の成之の孫)が争うと、澄元を支持して各地で戦った。1507年、政元が暗殺されると、之長は澄元とともに澄之によって近江に追われた。のち政元のもう一人の養子である高国が澄之を討ったために入京したが、今度は澄元と高国が争い、高国に敗れた澄元は阿波に逃れた。1511年、高国や高国を支持する大内義興(義隆の父)と再度争う。一度は入京を果たすが、船岡山の戦いで敗れて再び阿波に逃れた。1519年、義興の不在をついて兵庫に上陸、高国を破る。澄元は将軍足利義稙から細川家の家督を認められた。しかし、翌年、高国の反撃に遭い、京都等持院で戦うが敗れ、捕らえられて斬られた。阿波で兵を養い、上洛して戦う、という三好氏の基本方針はすでに之長の代に見られる。
三好元長 【みよしもとなが】 1501-32
弾正少弼、筑前守、長基。長秀の子。之長は祖父(之長の子で長秀の弟とする異説もある)。父長秀は細川高国らとの戦いの中で殺され、之長が処刑されて元長が三好家の家督を継いだのは二十歳の時である。
1526年、足利義維を擁し、細川晴元(澄元の子)とともに阿波で挙兵し、畿内に進出。足利義晴と細川高国を破って近江に追った。1528年には山城守護代となるが、翌年には柳本賢治らと争い阿波に帰国した。1531年、高国側の巻き返しに遭った晴元は元長に救援を要請され、堺に入り、摂津で高国を敗死させた(大物崩れ)。一時高国政権を築いた細川高国は滅んだ。これにより足利義維の堺幕府に復帰するが、足利義晴との和睦を進めようとする晴元とうまくいかず、木沢長政や一族の三好政長らとの対立も生じていた。1532年、晴元側についた一向一揆に攻められて敗死する。
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2012年7月のシークレット。
三好義賢 【みよしよしかた】 1527?-62
千満丸、之康、之虎、元康。豊前守。号は物外軒実休(じっきゅう)。元長の二男、長慶の弟。中央にいることが多い兄長慶に代わり、本拠地の阿波を治めることが多かった。
1547年、当時の長慶は細川晴元に属していたが、晴元と対立する細川氏綱、遊佐長教らと摂津舎利寺に戦い大勝した。弟の十河一存が和泉岸和田城主となると、讃岐も支配下に置いた。1553年には阿波細川家の細川持隆を阿波勝瑞城下の見性寺で殺害し、持隆の子実之を擁立した。1560年には長慶とともに河内の畠山高政らを破り、河内の支配も任された。しかし、1562年、紀伊の根来衆の支援を受けた高政の反撃に遭い、和泉久米田の戦いで戦死した。長男長治が跡を継ぎ、長治の弟は十河一存の養子となり存保を名乗った。
茶の湯を武野紹鴎、千利休らに学んだ文化人としても知られる。義賢の死後に成立した三好氏の分国法「新加制式」は家臣の篠原長房が義賢の治政をもとに制定したものである。
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流れ弾に当たって戦死。武将級の人物が鉄砲で戦死するのは日本で初めてのこととされる。