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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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地名の話・3

豊田市や天理市、北海道の伊達市、福島県の相馬市などについてはあとから書きますので焦らずに。いまは近世(江戸時代)以前の話をしています。

岐阜改名の話は信長の独創性を疑うよりも、そこに込められた天下統一への意志を見るべきです。次に長浜の話に移ります。1573年、秀吉が浅井氏の旧領を与えられると、翌年、当時今浜(いまはま)と呼ばれていた地を、信長の名から一字拝領して「長浜」と改めて城を築いたと伝えられています。長浜は秀吉が最初の拠点とした地と言ってもよく(俗に長浜時代と呼ばれる)、加藤清正や石田三成など秀吉の子飼いの武将の多くが長浜時代から秀吉に属しています。また、長浜城はのちに妻の「内助の功」で有名な山内一豊が入城したことでも知られています。いまでは当時の城とは無関係な鉄筋コンクリート、エレベーター付きの模擬天守が建っています。城(城跡)を期待して見に行くとがっかりします。遺構の一部は彦根城に使われているので、彦根城も見ておきましょう。

さて、このよく知られた話も、「今浜」についてあまり明確でないので(いまの滋賀県守山市今浜町とは異なる)、疑い出すときりがありません。しかし、この話の重要な点は、今浜から長浜への改名ではなく(もともと長浜という地名だったかもしれないし、昔あった長浜という地名に戻しただけかもしれない)、「長浜」という地名が信長に由来する、と伝えられてきた点にあります。

地名から人名を付けることはあっても、その逆がほとんどなかった日本においては、(真偽はともかく)「長浜」の由来が信長にあると伝えられてきたこと自体に意味があると言っていいでしょう。これで長浜城が落城でもすれば信長にとっては縁起でもない、という話になるわけで、秀吉が信長から一字を拝領して長浜に改めたことは、その時代においては画期的な発想だったと言えるでしょう。この主従、当時の常識からは少し自由であったのかもしれません。

最後に、「安土」については、京(平安京)に対抗して「平安楽土」から採ったとする説がありますが、ここはもともと安土山であって、信長が命名したというのは無理があります。ただ、城を築くのに、六角氏の観音寺城跡でなく、安土を選んだことには意義を認めるべきかもしれません。

なお、安土城には天皇を迎えるための施設(本丸御殿)があったという説があり、この施設は天主(安土城は天守ではなく「天主」という)の東に建てられていました。本丸御殿は清涼殿との類似が指摘されていますが(東西を逆にするとほぼ同じ)、東向きに建てられる清涼殿とは異なり、本丸御殿に天皇が来ると、天皇は天主に対し西を向くことになり、安土城の天主と本丸御殿の関係は天皇に対する挑戦的な位置関係となります。このあたりを含めて、安土城は防御施設というよりは政治的、儀式的な側面が大きいと言えましょう。いずれにせよ、安土城は信長の最終到達点ではありません。本能寺の変がなければ、次は大坂に城を築いたことでしょう。

次回は信長の思想的な後継者たちについて。蒲生氏郷と黒田長政を取り上げます。「博多」と「福岡」の違いについては深入りしたくないのですが、どこまでうまくまとめられますか。

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地名の話・2

そもそも地名というものは、地名を「付けた人」と、その地名を「認めた人」がいて初めて成立するものです。あの山は「高山」だ、いや「青山」だ、いやいや「神山」だ、と各人がてんでばらばらのことを主張していたら地名なんて決まらないわけです。一方で、「別名」や「異称」というものもありますよね。「信州」と言えば、日本人なら誰でも長野のことだとわかるでしょう。この「信州」も「信濃国」の言い換えなんですけどね。地名に限らず、対象の識別におけるあいまいさ、ふところの広さとでもいいましょうか。アバウトさが残っている部分もあります。ともかく、地名というものは、ある程度文化的に均一性を持ったコミュニティがあって存在するものです。違う文明の人々が来たら、その文明なりの地名を付けるかもしれません。

さて、前回、少なくとも近世(江戸時代)以前の日本人は、地名を変えることをタブー視していたのではないかという話をしましたが、これには例外が多々あります。

地名を変えることのタブーから少し自由であった人々、ということになりますが、まずは織田信長を挙げましょう。いろいろな方面で革新的、創造的であったと評されることが多い信長ですが、それは地名に対する考え方についても表れています。ここでは「岐阜」「長浜」「安土」について取り上げてみましょう。

1567年、信長は十年をかけて美濃を攻略すると、稲葉山城に入り、その地の名称であった井口(井ノ口、いのくち)を「岐阜」と改め、尾張から本拠地を移しました。改名を進言したのは信長の顧問とも言える立場であった禅僧の沢彦(たくげん)宗恩とされています。

若き信長の奇行を諫めて切腹したとされるのが平手政秀ですが、沢彦は政秀を弔った政秀寺を開山した人物として知られています。しかし、沢彦のほかの事績はあまり明確でなく、政秀寺開山と岐阜改名のほぼ二事で歴史に名を残した人物と言えます。

岐阜改名の話にはいくつか異説があるようですが、一つは沢彦が中国の地名にちなんで、「岐山、岐陽、岐阜」のいずれかから採って改名を勧めたとする説です。三つの候補を出したものの、勧め方としては最後の「岐阜」が本命だったのでしょう。もう一つが同じく中国の地名に基づいて沢彦が選定したもので、「岐山」と「曲阜」を合わせたとする説です。

「岐山」ですが、周の文王の祖父である古公亶父(ここうたんぽ)が岐山のふもとに周を建てました。文王は太公望(呂尚)を参謀に迎えたことで知られ、文王の子である武王が殷の紂王(「酒池肉林」の故事で有名、中国古代の代表的な暴君)を滅ぼしたとされています。天下を治めた周の建国の地であり、天下統一を目指す信長には通じるものがあったのでしょう。「曲阜」は儒教の祖である孔子生誕の地として知られています。ちなみに「岐」は「岐路」の語でもわかるように「分かれる」「分かれ道」の意味であり、「阜」は「丘」の意味です。「阜」という字は日本ではあまりなじみがないだけに、当時はこの字から曲阜、そして孔子を連想したのではないでしょうか。

一方で、古来より「岐府、岐陽、岐山、岐下、また岐阜」であったという説があり、岐阜命名は信長に始まるものではないとする見方もあります。ただこれは後世の記述によるもので、当時の典拠が明らかになっていないので、後世の人が信長の功績にケチをつけただけなのかもしれません。アンチ信長派の人々からすると、「それ見たことか」と信長の独創性を否定する材料になるのでしょうが。

「岐阜」改名の意味するところ
新たに名付けたとしても、旧名に復したとしても、「岐阜」という地名に改めたこと自体は信長の事績として認められるところです。そしてそこには天下統一を目指すという意志が込められており、またその意志を周囲に知らしめたことも間違いありません。同時期の話として、信長が「天下布武」の印判を使い始めたことが知られています。「天下布武」とは「天下に武を布く(しく)」の意味で、これも沢彦が選んだとされていますが、岐阜改名と同じく、天下統一の意志が感じられます。

ちなみに、何十冊にもなる大きな漢和辞典を紐解くと、「布武」には「ゆっくり歩く」という意味もあると書かれています。「天下をゆっくり歩く」とは、何事にも性急な信長を暗に諫めたと考えるのは深読みのしすぎでしょうか。

「岐阜」の話だけで終わってしまいました。次回は「長浜」、そして「安土」の話をしましょう。
「名前の話」の続きは週末くらいまで無理そうなので、行間に埋もれた文章を発掘するコーナー!

っていうか、没ネタ特集ですw

姓と氏、名字(苗字)の違いを話し出すと長くなりますし、難しくなるのでさわりだけ。例えば、伊達氏は藤原氏(藤原姓)を称したんだけど、これってわかりにくいですよね。藤原商事の伊達支店ってところでしょうか(なおさらわかりにくい)

「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の四姓(橘氏は早くに衰えた)が名流と意識されると、後世の人々の多くがみずからの出自をこれらに求めた。信長は最初藤原氏(藤原姓)を称したが、のちに平氏(平姓)に改めている。家康も源氏(源姓)を称したが、実際のところはあやしい。

平氏というと、平将門や清盛を輩出した桓武天皇の子孫、桓武平氏が有名だが、ほかにも任明天皇や光孝天皇の子孫にも「平」の姓を賜った者がいる。「平」の由来は桓武天皇が築いた「平安京」に由来するという説がある。

源氏は清和源氏が有名だが(実際は陽成天皇の子孫だったのではないかという異説がある)、臣籍降下した際にもっぱら源氏を名乗る例が多く、二十一流あるとも言われる。「源」の由来は皇室と祖を同じくする(「源」が同じ)ところから来ている。

藤原氏は大化の改新に功績のあった中臣鎌足が藤原姓を賜ったことに始まるが、なぜ「藤原」なのかはっきりしない。なお、この藤原氏とは別に、「藤原」の地名に由来する藤原氏もいるので、区別が必要である。藤原氏は中央だけでなく地方でも繁栄し、中でも藤原秀郷は平貞盛とともに平将門の乱を平定し、子孫はおもに東国で栄えた。奥州藤原氏も秀郷の子孫である。

ちなみに、「豊臣」も天皇からの賜姓だが、なぜ「豊臣」になったのかは「君臣豊楽」に由来するなど諸説あるがはっきりしない。「豊富」でなく「豊臣」であり、「臣」という文字が入っているところに朝廷側の思惑が感じられるが、最終的には秀吉が認めたようである。朝廷の深意に気付かなかったのだろうか。
地名の話(改題)

たまに世界史の話から入りますが、地名の移り変わりの話をするときによく出てくるのが、トルコのイスタンブールです。かつてはコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)、そのまた昔はビザンティオンと呼ばれていました。

紀元前にビュザンタスという王の名からビザンティオンと名付けられたという説が一般的ですが、その後、ローマ帝国に征服されると、コンスタンティヌス帝にちなんでコンスタンティノポリスと呼ばれるようになりました。ちなみに、ビザンティオンの名も、東ローマ帝国の別名である「ビザンツ帝国」にその名を残すことになります。1453年、オスマン帝国によって、ビザンツ帝国の首都であったコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国が滅亡すると、オスマン語で「コンスタンティーニーイェ」と呼ばれ、のちにイスタンブールと呼ばれるようになります(一説にギリシャ語の「都市に」「都市の中の都市」に由来するとされています)。支配者が替われば、地名も替わるという一つの例です。

地名と人名の話をするときに出てくるのが、マケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス大王)。征服地に自分の名前を付けた都市を建設したことで知られ、中でもエジプトのアレクサンドリアは有名です。ほかにも複数の「アレクサンドリア」があったことが知られていますが、同名のため「アレクサンドリア・アラコシオルム(アラコシアのアレクサンドリア)」などと呼び分けていたようです。

もう一つ。ロシアの都市にサンクトペテルブルクがありますが、これはピョートル大帝にちなみます(正確には大帝と同名であった聖ペテロにちなむ)。この読みはドイツ語風ですが、第一次世界大戦でロシアとドイツが交戦すると、ロシア語風にペトログラードと改名し、ソ連時代にはレーニンにちなんでレニングラードと改めました。レニングラードの方がなじみがあるという人も少なくないかもしれせん。ソ連崩壊後は、住民投票によって帝政ロシア時代の旧名に戻りました。ちなみに英語圏では「セントピーターズバーグ」と呼ばれます。

征服者、開拓者としての性格が強いと、人名から地名を付ける例が多くなりますが、日本の場合は、圧倒的に地名から人名(苗字)を付ける例が多くなります。それは領主として自分の支配地から名前を取ったことに由来するのですが、少なくとも近世以前で逆の例、地名に人名を付ける例はきわめてまれです。信長の場合は「今浜」から「長浜」の改名が例外ですが(秀吉の事績と言った方がいいかもしれない)、各地の大名を倒して、そこに信長の名を取った都市を建設するなどといったことはありませんでした。

本拠地を通称とする(通称として呼ばれる)例も多いですね。平清盛は六波羅殿、源頼朝は鎌倉殿とも呼ばれました。これは改名したわけではなく、敬称、尊称として、場所を呼び名にしたものですが、人名や役職を地名や建物の名称で呼ぶことは日本に限らず、世界にも例を見ることができます。「プリンス・オブ・ウェールズ」と言えば、もとは「ウェールズ公」くらいの意味ですが、現在ではイギリスの(第一)王位継承者のことを指します。また、「ホワイトハウス」と言えば、アメリカの政権を指す場合があることは誰でも知っていることだと思います。

フランス大統領シャルル・ド・ゴールの名を取った「シャルル・ド・ゴール空港」は有名ですし、この人の名前は空母にも使われています。欧米では人名を艦船名に使うことはよくあることで、数え上げるときりがないのですが、日本の場合は「大和」や「武蔵」など旧国名や山、川の名前をつけることがほとんどで、現在でも船舶名に人名を付けることはまれです。そういえば、「プリンス・オブ・ウェールズ」という戦艦もありました。第二次世界大戦で日本の航空機の攻撃を受けて沈没し、イギリス首相チャーチルに大きな衝撃を与えています。

いまでこそ、市町村合併でまったく新しい地名が創造されることも少なくないのですが、こうやって見ていくと、どうも日本の場合は人名から地名を付けることはタブー視されていたというか、そもそも地名を変えること自体タブー視されていたように思えます(「大坂」→「大阪」、「得川」→「徳川」のように字を変えることは地名でも人名でもある)。怨霊信仰や言霊(ことだま)といった考え方の影響なのか、よくわかりませんが、日本人の名前に対する意識を表している事例の一つと思います。

「岐阜」って信長の命名じゃなかったっけ、ということで、次回は信長とその後継者たちの事例を中心に見ていきましょう。
長門裕之について私が語るのはおこがましいのですが、印象に残っている話だけ。


思い出深いのは、NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」の徳川光圀役(1995年)

弟の津川雅彦(綱吉役)と共演した時ですね。

「兄弟で出てるやん」と感動したものです。

最近の話かと思ったら、もう15年も前の話ですね。


ぱらぱらっとネットを見ていると、今村昌平監督の「にあんちゃん」(1959年)で

ブルーリボン賞(主演男優賞)を取っていることを知りましたが、

これの脚本が池田一朗なんだよねえ。

「花の慶次」の原作『一夢庵風流記』を書いた、隆慶一郎と書いた方がわかりやすいでしょうか。

(池田一朗が本名)


ご冥福をお祈りいたします。
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