兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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『軍師官兵衛』を見ていますが、
秀吉が農民の意味で「百姓」と言うのを聞くと違和感があります。
(この場合の読みは「ひゃくしょう」)
いまに始まった話ではありませんが、「百姓」にはいくつかの意味があって、
「ひゃくせい」と読むこともあります。
官兵衛の家臣(この時点で完全な家臣となっているかは疑問ですが)
を自分の家臣に誘うあたりは、さすがの「人たらし」、
面目躍如といったところですが(家康の家臣を誘う話がモデルか)、
断られれば、こだわらない(ねちねちを執着しない)のが、
この時代の秀吉のいいところ、陽性なところですよね。
(ドラマで後からどうなるかは知りませんが)
という見えないところまでを演じる竹中秀吉がさすがですね。
自家薬篭中のもの、とはこういうことを言うのでしょう。
秀吉が農民の意味で「百姓」と言うのを聞くと違和感があります。
(この場合の読みは「ひゃくしょう」)
いまに始まった話ではありませんが、「百姓」にはいくつかの意味があって、
「ひゃくせい」と読むこともあります。
官兵衛の家臣(この時点で完全な家臣となっているかは疑問ですが)
を自分の家臣に誘うあたりは、さすがの「人たらし」、
面目躍如といったところですが(家康の家臣を誘う話がモデルか)、
断られれば、こだわらない(ねちねちを執着しない)のが、
この時代の秀吉のいいところ、陽性なところですよね。
(ドラマで後からどうなるかは知りませんが)
という見えないところまでを演じる竹中秀吉がさすがですね。
自家薬篭中のもの、とはこういうことを言うのでしょう。
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2月ももう3日だというのに、
試験勉強が進まないので、PCは中断!
仕事が進まないばかりか、
おっさんに絡まれてムカツク…。
そして、なぜかクロームと一緒にIEを立ち上げていると、
IEが強制終了する罠。。。
試験勉強が進まないので、PCは中断!
仕事が進まないばかりか、
おっさんに絡まれてムカツク…。
そして、なぜかクロームと一緒にIEを立ち上げていると、
IEが強制終了する罠。。。
「保科正直の娘は「ねね姫」か「栄姫」か?」
で検索が入りましたので、私見ですが検討してみましょう。
(NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』では、吉本実憂さんが演じるそうです)
『寛政重修諸家譜』から見る限りですが、まず、保科氏の項では、以下の通りとなっています。かっこは筆者(管理人)の補記です。
「母は(久松佐渡守)俊勝が女(家康の異父妹、多劫姫(たけひめ)…寛政譜で名が記されるのは珍しい)、東照宮(家康)の御養女となり、慶長五年(1600)六月六日(関ヶ原の戦いの直前)黒田筑前守長政に嫁がせらる。」
これでは名前についてはわかりません。続いて、黒田氏の項です。
「継室(最初は蜂須賀正勝の娘でのち離婚)は東照宮の御養女栄姫君、はじめねね姫君 実は保科弾正弾正忠正直が女。」
とあります。「はじめねね姫君」と注記してあります。
素直に考えると、最初は「ねね姫」で、家康の養女となって、黒田長政に嫁ぐ際に「栄姫」と改めたのではないでしょうか。
お江の方(督、江与、達子。法号は崇源院、浅井長政の三女で徳川秀忠の妻)のように複数の名があることも珍しくはないので、「栄姫」と名付けられた後も、内々に「ねね姫」と呼ばれていた可能性は否定できません(実際に呼ぶ場合には「ねね姫(様)」とは呼ばないでしょうが)。
なお、「栄姫」は「えいひめ」とされていますが、音読みとすべきかは判断しかねます。この時代に限った話ではなく、平安時代の藤原彰子(紫式部が仕えた)や藤原定子(清少納言が仕えた)の名をどのように呼んだかは定まっていません。
これらは「有職読み」そのものではありませんが、実際の名前と呼び方(呼び名)が違うこともあり得ます。そもそも、(現代でもそうですが)実名で呼ぶ場面は限られています。
http://naraku.or-hell.com/Entry/152/
で検索が入りましたので、私見ですが検討してみましょう。
(NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』では、吉本実憂さんが演じるそうです)
『寛政重修諸家譜』から見る限りですが、まず、保科氏の項では、以下の通りとなっています。かっこは筆者(管理人)の補記です。
「母は(久松佐渡守)俊勝が女(家康の異父妹、多劫姫(たけひめ)…寛政譜で名が記されるのは珍しい)、東照宮(家康)の御養女となり、慶長五年(1600)六月六日(関ヶ原の戦いの直前)黒田筑前守長政に嫁がせらる。」
これでは名前についてはわかりません。続いて、黒田氏の項です。
「継室(最初は蜂須賀正勝の娘でのち離婚)は東照宮の御養女栄姫君、はじめねね姫君 実は保科弾正弾正忠正直が女。」
とあります。「はじめねね姫君」と注記してあります。
素直に考えると、最初は「ねね姫」で、家康の養女となって、黒田長政に嫁ぐ際に「栄姫」と改めたのではないでしょうか。
お江の方(督、江与、達子。法号は崇源院、浅井長政の三女で徳川秀忠の妻)のように複数の名があることも珍しくはないので、「栄姫」と名付けられた後も、内々に「ねね姫」と呼ばれていた可能性は否定できません(実際に呼ぶ場合には「ねね姫(様)」とは呼ばないでしょうが)。
なお、「栄姫」は「えいひめ」とされていますが、音読みとすべきかは判断しかねます。この時代に限った話ではなく、平安時代の藤原彰子(紫式部が仕えた)や藤原定子(清少納言が仕えた)の名をどのように呼んだかは定まっていません。
これらは「有職読み」そのものではありませんが、実際の名前と呼び方(呼び名)が違うこともあり得ます。そもそも、(現代でもそうですが)実名で呼ぶ場面は限られています。
http://naraku.or-hell.com/Entry/152/
愛するおたつを失った官兵衛。
傷心を癒そうとする父職隆の配慮で、
鉄砲買い付けのために堺へと赴く。
しかし、そこに至るまでも戦争で多くの人が
死んでいるのを見て、トラウマが…
荒木村重がまんじゅうを食べるシーンはまたあとで登場します。
(予告編でもやっていたか)
お金は使う時には使う人です。
足利義輝が闘死するシーンはなかなかよかったですね。
(再現度がそれなりに高かった)
それにしても、鉄砲やら、キリスト教やら、
去年のヒロインがまじっていても違和感なかったかも…。
傷心を癒そうとする父職隆の配慮で、
鉄砲買い付けのために堺へと赴く。
しかし、そこに至るまでも戦争で多くの人が
死んでいるのを見て、トラウマが…
荒木村重がまんじゅうを食べるシーンはまたあとで登場します。
(予告編でもやっていたか)
お金は使う時には使う人です。
足利義輝が闘死するシーンはなかなかよかったですね。
(再現度がそれなりに高かった)
それにしても、鉄砲やら、キリスト教やら、
去年のヒロインがまじっていても違和感なかったかも…。
黒田氏というと、宇多源氏佐々木氏の一族とされる。
近江源氏とも呼ばれ、佐々木秀義の四人の子が頼朝に仕えて繁栄した。
婆沙羅大名として知られる佐々木道誉(京極高氏)を初め、
六角氏や京極氏は子孫である。
黒田氏も先祖を京極氏につなげているが、詳しい系譜は不明である。
はっきりしているのは、官兵衛(孝高)の祖父重隆の代からで、
播磨姫路で目薬を売っていたという。
ドラマでも「目薬屋」と言われる場面があるが、
商人の身から武士に成り上がった黒田氏を蔑んだ言い方である。
(官兵衛は本気で嫌がっていたのかもしれない)
さて、今回のドラマでは赤松氏がとても悪い人に描かれるようである。
ゲームにおける播磨と言えば、赤松やら浦上、別所やら弱小大名が
ひしめく地だが、そもそも播磨の守護は赤松氏であった。
赤松氏は村上源氏を称しているが、
著名になったのは赤松則村(円心)が、
後醍醐天皇に味方して挙兵してからである。
その後は足利尊氏に従って、
室町幕府では山名氏、一色氏、京極氏とともに、
四職(侍所の長官である所司に任じられる四家)と称せられた。
1441年、赤松満祐は恐怖政治を取った六代将軍足利義教(くじ将軍)を
自邸に招いて殺害。のち討伐軍と戦って敗死した。
赤松氏は衰退するが、遺臣が南朝に奪われた三種の神器(勾玉)を
奪還したため、その功を認められて復興する。
赤松氏が(しつこく)播磨で争うのはこういう背景があってのことである。
(赤松氏自体も一族でどろどろに争っておりますが)
信長が権六勝家に「俺が死んでほしいのか」的なことを訊いたのは、
かつて勝家が信長の弟信行(信勝)を擁して、信長に反旗を翻したため。
以前に書いた通り。
http://naraku.or-hell.com/Entry/1175/
信長にボコボコにされ、いったんは許されて、勝家は信長に心服するが、
信行はまた反乱を企て、仮病を装った信長に招かれて殺された。
(ドラマでのシーンの補足)
近江源氏とも呼ばれ、佐々木秀義の四人の子が頼朝に仕えて繁栄した。
婆沙羅大名として知られる佐々木道誉(京極高氏)を初め、
六角氏や京極氏は子孫である。
黒田氏も先祖を京極氏につなげているが、詳しい系譜は不明である。
はっきりしているのは、官兵衛(孝高)の祖父重隆の代からで、
播磨姫路で目薬を売っていたという。
ドラマでも「目薬屋」と言われる場面があるが、
商人の身から武士に成り上がった黒田氏を蔑んだ言い方である。
(官兵衛は本気で嫌がっていたのかもしれない)
さて、今回のドラマでは赤松氏がとても悪い人に描かれるようである。
ゲームにおける播磨と言えば、赤松やら浦上、別所やら弱小大名が
ひしめく地だが、そもそも播磨の守護は赤松氏であった。
赤松氏は村上源氏を称しているが、
著名になったのは赤松則村(円心)が、
後醍醐天皇に味方して挙兵してからである。
その後は足利尊氏に従って、
室町幕府では山名氏、一色氏、京極氏とともに、
四職(侍所の長官である所司に任じられる四家)と称せられた。
1441年、赤松満祐は恐怖政治を取った六代将軍足利義教(くじ将軍)を
自邸に招いて殺害。のち討伐軍と戦って敗死した。
赤松氏は衰退するが、遺臣が南朝に奪われた三種の神器(勾玉)を
奪還したため、その功を認められて復興する。
赤松氏が(しつこく)播磨で争うのはこういう背景があってのことである。
(赤松氏自体も一族でどろどろに争っておりますが)
信長が権六勝家に「俺が死んでほしいのか」的なことを訊いたのは、
かつて勝家が信長の弟信行(信勝)を擁して、信長に反旗を翻したため。
以前に書いた通り。
http://naraku.or-hell.com/Entry/1175/
信長にボコボコにされ、いったんは許されて、勝家は信長に心服するが、
信行はまた反乱を企て、仮病を装った信長に招かれて殺された。
(ドラマでのシーンの補足)