兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
■コラム 名前の話1 何と呼んだか?
武田家の最終回に女性を取り上げたが、「実際に何と呼ばれていたか」を調べるのは男女を問わず難しい。
現代の話をすれば、あなたがサラリーマンだとして、社長の名前は「山田太郎」さんだとする。
社内では間違っても、部下が「山田さん」「太郎殿」などと呼ぶことはない。普通は「社長」である。社内ならば「山田社長」と名前を付けて呼ばれることもまずない。これは目上の人に対して、実名を呼ぶことは失礼にあたると考えられているからである。一方、社外に出れば、部下が「うちの山田がお世話になっております」と呼び捨てにすることもあるだろう。
その山田太郎さんも、家に帰れば、奥さんには、「あなた」、もしくは「太郎さん」、あるいは「ダーリン」などと呼ばれているかもしれないし、子供には、「お父さん」「パパ」、親と同居していれば、「太郎」「太郎さん」「太郎ちゃん」などと呼ばれているかもしれない。英会話スクールに通っていれば、先生からは「山田さん」と呼ばれるだろう。
このように、社会の中での呼び方と、夫婦や親子といった家族、師弟といった間柄で、どういう呼び方をされるかは異なる。そして、それが記録に残ることはまずない。あまりに当たり前すぎること(当時の人にとって)は記録されないのである。
昔の中国でも同じことで、諸葛孔明のことを名前(諱、いみな)の「亮」と呼ぶことはほとんどなく(目上の人しか使わない)、主君の劉備でも「孔明」と字(あざな、成人してつける名前)を呼んだであろう。一般的には役職名である「丞相」と呼んでいたかもしれない。ただ、こういうことは記録に残っていることもあれば、残っていないこともあるので、もしかしたら、みんなは親しみをこめて、中国語で「チュー」さんと呼んでいたかもしれない(記録には残らない)
日本の戦国時代でも、男性の場合は、通称として(正式に任命されているかはともかく)役職名を名乗ることが多いから、武田信繁であれば「典厩(てんきゅう)殿」、原虎胤であれば「美濃守(みののかみ)殿」などと呼ばれていたと思われる。女性の場合は難しいのだが、一般的には「姫様」「奥方様」「お方様」、あるいは住居の位置、場所の名前から「北の方様」など、名前を呼ぶのは避けていたと思われる。
来年の大河ドラマの主人公であるお江(ごう)の方も名前が多く、いつどのように呼ばれていたか決めるのは難しい。小督(おごう)、江与(えよ)という名もあるし、従一位になったときは「達子」という名をつけている。亡くなってからは崇源院と名をつけられた。ちなみに、姉の淀殿の淀は「淀城」の淀であり、地名である。名は茶々と言われる。
さて、昔の書物を見て、どのように記されているのかと、実際にどのように呼ばれていたかはまた別である。『信長公記』では、信長を「信長公」、秀吉を「羽柴筑前」、家康を「家康(公)」と書いていることが多いが、1812年に編纂された『寛政重修諸家譜』では、信長を「右府(註:右大臣のこと)」、秀吉を「豊臣太閤」、家康を「東照宮」と書いていることが多い。ほかに家康は「神君(しんくん)」という書き方をされることも多い。
実際に何と呼ばれていたかは難しいところだが、信長は右大臣を辞任してしまったので「前右府」あるいは普通に「殿」など、秀吉は「太閤殿下」、家康は「内府殿」、将軍位を譲ってからは「大御所様」などといったところだろうか。「東照宮」や「神君」は死んでからの号なので、生きている家康に向って「神君様」などと呼ぶことはない。
まとめ
・いまも昔も、名前を直接呼ぶことはまれ。役職名で呼ぶことが多い
・当時は当たり前でも、いまとなってどのように呼ばれていたかを探るのは難しい
武田家の最終回に女性を取り上げたが、「実際に何と呼ばれていたか」を調べるのは男女を問わず難しい。
現代の話をすれば、あなたがサラリーマンだとして、社長の名前は「山田太郎」さんだとする。
社内では間違っても、部下が「山田さん」「太郎殿」などと呼ぶことはない。普通は「社長」である。社内ならば「山田社長」と名前を付けて呼ばれることもまずない。これは目上の人に対して、実名を呼ぶことは失礼にあたると考えられているからである。一方、社外に出れば、部下が「うちの山田がお世話になっております」と呼び捨てにすることもあるだろう。
その山田太郎さんも、家に帰れば、奥さんには、「あなた」、もしくは「太郎さん」、あるいは「ダーリン」などと呼ばれているかもしれないし、子供には、「お父さん」「パパ」、親と同居していれば、「太郎」「太郎さん」「太郎ちゃん」などと呼ばれているかもしれない。英会話スクールに通っていれば、先生からは「山田さん」と呼ばれるだろう。
このように、社会の中での呼び方と、夫婦や親子といった家族、師弟といった間柄で、どういう呼び方をされるかは異なる。そして、それが記録に残ることはまずない。あまりに当たり前すぎること(当時の人にとって)は記録されないのである。
昔の中国でも同じことで、諸葛孔明のことを名前(諱、いみな)の「亮」と呼ぶことはほとんどなく(目上の人しか使わない)、主君の劉備でも「孔明」と字(あざな、成人してつける名前)を呼んだであろう。一般的には役職名である「丞相」と呼んでいたかもしれない。ただ、こういうことは記録に残っていることもあれば、残っていないこともあるので、もしかしたら、みんなは親しみをこめて、中国語で「チュー」さんと呼んでいたかもしれない(記録には残らない)
日本の戦国時代でも、男性の場合は、通称として(正式に任命されているかはともかく)役職名を名乗ることが多いから、武田信繁であれば「典厩(てんきゅう)殿」、原虎胤であれば「美濃守(みののかみ)殿」などと呼ばれていたと思われる。女性の場合は難しいのだが、一般的には「姫様」「奥方様」「お方様」、あるいは住居の位置、場所の名前から「北の方様」など、名前を呼ぶのは避けていたと思われる。
来年の大河ドラマの主人公であるお江(ごう)の方も名前が多く、いつどのように呼ばれていたか決めるのは難しい。小督(おごう)、江与(えよ)という名もあるし、従一位になったときは「達子」という名をつけている。亡くなってからは崇源院と名をつけられた。ちなみに、姉の淀殿の淀は「淀城」の淀であり、地名である。名は茶々と言われる。
さて、昔の書物を見て、どのように記されているのかと、実際にどのように呼ばれていたかはまた別である。『信長公記』では、信長を「信長公」、秀吉を「羽柴筑前」、家康を「家康(公)」と書いていることが多いが、1812年に編纂された『寛政重修諸家譜』では、信長を「右府(註:右大臣のこと)」、秀吉を「豊臣太閤」、家康を「東照宮」と書いていることが多い。ほかに家康は「神君(しんくん)」という書き方をされることも多い。
実際に何と呼ばれていたかは難しいところだが、信長は右大臣を辞任してしまったので「前右府」あるいは普通に「殿」など、秀吉は「太閤殿下」、家康は「内府殿」、将軍位を譲ってからは「大御所様」などといったところだろうか。「東照宮」や「神君」は死んでからの号なので、生きている家康に向って「神君様」などと呼ぶことはない。
まとめ
・いまも昔も、名前を直接呼ぶことはまれ。役職名で呼ぶことが多い
・当時は当たり前でも、いまとなってどのように呼ばれていたかを探るのは難しい
PR