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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「もの」の名前が気になります。なぜその「名前」「呼び方」になったのか気になります。人なら「人名」ですし、場所なら「地名」ですが、名づけた「由来」があるはずで、それがなんだったのか気になります。

真田「幸村」について考えてみましたが、「村」は「邑」「邨」などとも書きますが、基本的に「村」の意味しかありません。

とは書いてみたものの、もしかしたら、「群」に通じるのかもしれません。

「村」の本字が「邨」になりますが、右は「邑」で意味を表し、左は「屯」で音を表します。「邨」も「群」も「あつまる」の意味で、「むら」と読むことから、置き換えることは可能かもしれません。意味が同じ、あるいは意味が同じでなくても、同じ音の字を置き換えることはまま見られることです。

熊本はもと「隈本」と書きましたが、「隈」の字には「(川に沿って)平地が曲がりこんで山に囲まれたところ」「奥まったところ」という意味があり、これから発展していくにはふさわしくないとして、加藤清正が改めたという説があります。なお、信長の「岐阜」改名と同様に、「熊本」が清正の独創かはわかりません。「岐阜」は信長の改名以前からあった地名で、「岐阜」が信長の独創かどうかよりも、「岐阜」と改めたことに意味があります。これらの話は以前にも書きました。
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『軍師官兵衛』がようやくストーリー的に面白いところに差し掛かってきました。黒田官兵衛の人生からすると、重要なところに差し掛かってきたという意味で、大河ドラマが面白くなるかどうかはわかりませんが。

単身、荒木村重の説得に向かうのですが、見事に失敗。捕えられて幽閉。命があっただけマシですが、なぜ殺されなかったのかは興味深いところです。

村重の関与がなければ、生きながらえたことは説明しようがないのですが、村重も生かして使おうと思っていたのでしょうか。それにしては期間が長いのが不審ではあります。

マイナーな人物も登場しますが、あまり調べないようにしています。あえて知りすぎないようにしています。自分でネタバレを見てしまうのは面白さが半減してしまいますからね。

その中でも官兵衛のお父さん、黒田職隆はかっこいい。柴田恭兵の演技が味わい深いですね。

「(万が一の時は)官兵衛を捨てて、松寿を取る」、なんて、かっこいい~、くぅ、しびれるセリフですな。職隆でなければ、このセリフは言えません。

松寿はどうなるの、殺されちゃうの、と思ったら、来週も見逃せません。

来週出るかどうかはわかりませんが、竹中半兵衛、最後の策には泣けます。
『真田丸』の続き

「真田幸村(実名は信繁、ともういちいち書きたくない)」と昨日書いたのですが、では、なぜ「幸村」なのか、という点については、いまだ確定的な説がありません。

この件は前のブログでも書きましたが、根拠資料を突き詰めていくと、なかなか難しいところに突き当たります。

「幸村」の初出は寛文十二年(1672)に成立した『難波戦記』とされていますが、同書の序文に(別の人が)「寛文十二年(中略)謹言」と付してあるので、遅くてもこの年代までには成立していたと考えられているようです(吟味が必要)。

「幸」が真田氏の通字から採ったことには異論がないと思われますが、「村」の字については、幸村の姉の村松から採ったとする説、幸村の子孫が仕えた仙台藩主の伊達綱村から採ったとする説、あるいは妖刀とされた村正から採ったとする説まであります。

このうち、伊達綱村についてですが、政宗(藤次郎)の曾孫に当たる人物で、仙台藩の第四代藩主になります(伊達氏としては第二十代当主)。父は綱宗で、父子の「綱」は徳川家綱からの偏諱です。

父が強制的に隠居させられたため、綱村は二歳にして家督を継ぎますが、この時点では幼名の亀千代(亀千代丸)です。その後、寛文九年十二月九日(1670年、寛文九年の大半は1669年だが、十二月九日はすでに1670年となっている)、元服して名を総次郎と改め、さらに将軍家綱から一字を賜って「綱基」と名乗っています。

このあと、仙台藩では伊達騒動が起こりますが、綱基が「綱村」と改めたのは、騒動が終わった後の、延宝五年正月朔日(一日、1677年)になります(治家記録)

そうなると、「伊達綱村」が誕生する以前に「真田幸村」の呼び名があったわけで、「幸村」が「伊達綱村」に由来するという説は否定されることになります。

名前に「村」を付ける例は珍しいことではなく、いまの大河ドラマ『軍師官兵衛』の荒木村重を初め、赤松氏にも見られます。後醍醐天皇の挙兵に応じた播磨の豪族が赤松円心で、名は則村です。私見ですが、赤松氏は村上源氏を称しているので、この「村」なのかもしれません。下に付けるのがどうなのかわかりませんが。

伊達氏にも二代目当主に宗村がおり、「綱村」と称したのは宗村に由来するのかもしれません(伊達氏の通字である「宗」を使うと、「綱宗」となり、まだ存命であった父と同名になってしまう)。

ちなみに、伊達氏は将軍から偏諱を賜ることが多いのですが、藤次郎政宗は、先祖で伊達氏中興の祖である政宗(大膳大夫)にあやかって同じ名にしています。また、綱村の二代後は、将軍吉宗から一字を賜り、伊達氏の通字と合わせて「宗村」と名乗っています。先の二代目当主と同じ名となっています。

(信長の父と子が信秀で同名だったり、同名は多くはないが探すときりがない…と前に書きました)

話がそれたので、今回はこれまで。

「津軽為信」や「加藤清正・平岩親吉」で検索が入るので、
続きを書いてみましょうかね。

津軽為信は弘前藩(津軽藩)が編纂した『津軽一統志』が面白いのですが、
真に受けることはできない内容なので、批判的にと言いますか、
裏を取りながら読んでいくことができれば、なお興味深いのかなと。

部分的に美辞麗句が並ぶのはいいとして
(顕彰しているだけで、実質的な意味には乏しい)、
わざわざ異説を取り上げて反論しているのは面白いですね。
むしろ、そちらの方が真実に近いのではないかと勘繰ってしまいます。
そこをあえて書いたというのは、何らかの意図を感じざるを得ません。

伯父の子二人が船に乗っていて溺死したとか、
それは為信の暗殺と思われるだろう、
ということも普通に書いてありますし。
編纂する人がわざと書いたのかと。

いわば「官製」の歴史書ですから、都合の悪いことは隠してもおかしくないのですが。

津軽為信の次の南部氏はあまり筆が進まないので、
なおさら、為信について書きたくなります。


平岩親吉は、親吉以外に適当な暗殺者(に仕立てられる人物)が
いなかったのか、家康の家臣の没年を追っています。
範囲を広げ過ぎるときりがないので、
どこかでバーを設ける必要があるかなとは思っています。
(関ヶ原の戦いの時点で三万石以上の所領を有していたとか)

知名度が低い(マイナー)というだけで、
暗殺者として名前を持ってくるにはふさわしくないですからね。

平岩親吉がメジャーとも言い切れないのですが…。

大河ドラマ『軍師官兵衛』

荒木村重が謀反を起こし、説得に赴いた官兵衛が幽閉される、
というところで、ようやく面白くなってきました。

さて、村重の妻だしが生まれたばかりの子を抱いているシーンがありますが、
一方で、荒木村次という村重の子も出てきます。
年が離れすぎじゃね?
てか、だしも飛ばしすぎだろ(肌)?
と思いつつ、この子が後で出てくるんでしょうかね。

いままでの歴史ドラマではほとんど登場しなかった万見仙千代が出てきたり、
小寺政職の子である斎(いつき)ちゃんが何度も出てきたり、
今後の展開にどう影響を与えるのか興味深いところです。

てか、登場人物多すぎて、追い切れないんじゃない?

荒木村重の「号」も興味深いのですが、
中川清秀の悪人っぷりがいいね。

本願寺に兵糧を横流ししてもうけておきながら、
村重には謀反をそそのかして、
信長が出てくると…(自主規制)

個人的には、いつでも冷静沈着、官兵衛の家臣である
井上九郎右衛門(之房、周防守)が一押し(高橋一生)
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