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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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欠席裁判で、あとから無理難題という名の判決を聞くか、
完全オブザーバーで、針のむしろになりながらも無言を貫くか。

まあ、ここにありと主張するつもりもありませんが、
アリバイ作りに利用されたり、
何も責任を取らない人々から責任を押し付けられたりしたら、
全力で反撃します。

相応の地位にあって、報酬ももらっている人々が、
このざまでは情けない。

問題が問題なので、
できない理由を述べるのはわからないではありませんが、
ではどうするべきか、対案を出しなさいって。
ただ不満を言うだけなら誰でもできます。

望んで当事者になったわけではないのもわかりますが、
あまりに当事者意識に欠けているんじゃないですかね。

明日、更新がなかったら察してください。
では。
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その時歴史が動く~まさにその瞬間を

目の当たりにするのかもしれませんが、

独立しなくても、ごね得みたいになるのもなー。


「独立」が「支配」との対比で、

いつも「プラス」のイメージとは限らないわけで。


大英帝国にしては(すでに栄光は過去のものですが)、

おひざ元というか、足元でこうなるとはなあ。


ポンドの使用禁止や北海油田(すぐ枯渇するのでは)を巡る問題など、

経済的な締め付けでどこまで対抗できるでしょうか。


二度の世界大戦を経て、その反省から、

EUを初めとして、従来の国家の枠組みを超えた

政治的な統合が進められる一方で、

民族主義的な分裂が進むというのも、皮肉なものです。


スコットランドの話に限らず、

民族や文化的な独立、あるいは宗教対立など、

いろいろな問題があるのでしょうが、

誰が得をするのかな(損をしないかな)、

と、経済的な不振が根本にあったりするのかなと思ったりして。

(人間は食べものやお金だけに生きるのではありませんが)


「戦国人物紹介」

平岩親吉・3

2月以来なので、下はバックナンバー、および追加分です。
平岩親吉だけを取り上げたいのではなくて、その周辺も広く見てみたいのです。

平岩親吉・1
http://naraku.or-hell.com/Entry/1584/

平岩親吉・2
http://naraku.or-hell.com/Entry/1619/

平岩親吉・3
http://naraku.or-hell.com/Entry/1817/

平岩親吉・4
http://naraku.or-hell.com/Entry/1836/

平岩親吉・5
http://naraku.or-hell.com/Entry/1964/

「おあつらえ向き」だった平岩親吉の存在

暗殺者に親吉の名が使われた理由として考えられるのは以下の三つである。

1.家康の重臣で、会見後に死んだ(相応に名が知られており、「間もなく」死んだ)
2.家康の信任が厚く、恩義を感じていた(命を投げ打って毒饅頭を食べるほど)
3.直接の子孫が残っておらず悪役に仕立てやすい(大名としては断絶した)

1については、言うまでもなく、会見後に死んだ家康の重臣ということが最大の理由である。会見前に死んだのでは、話が合わない。

そこで家康の重臣を調べてみよう。

まずは、家康の重臣として知られているのが、「徳川四天王」「徳川十六神将」といった面々である。なお、「神将」というのは、家康が死後に朝廷から「東照大権現」の「神号」を贈られたことによる。「神君(しんくん)」というと、一般的には家康の死後の尊称となる。

もちろん、十六神将の中にも、会見よりかなり前に死んでいて、跡を継いだ子らが目立たない場合もあるし、本多正信など十六神将に含まれていない重臣もいる。

詳細はあらためて掲げるが、四天王や十六神将をはじめとする家康の重臣、もう少し範囲を広く取って、家臣やその子らで、平岩親吉以外にも慶長十六年(1611)三月二十八日の会見後、同年中に死んだ者は何人かいるが、いずれも親吉の地位や石高、知名度には及ばない。

会見後(直前も含む)、同年中に死んだ者たち

本多康重 【ほんだやすしげ】 天文二十三年(1554)-慶長十六年三月二十二日
本多家にもいくつかの流れがあって、有名なのは本多平八郎忠勝の系統と本多佐渡守正信の系統であろう。康重はまた別の系統である。
通称は彦次郎。従五位下、豊後守(慶長四年)。長篠の戦いでは左の股に銃弾を受け、生涯弾が抜けなかったという。家康が関東に入ると、上野白井城で二万石を与えられて、関ヶ原の戦い後は三河岡崎城五万石に移されている。慶長十六年三月、岡崎で病を得て死去。

北条氏勝 【ほうじょううじかつ】 永禄二年(1559)-慶長十六年三月二十四日
北条氏繁の二男で氏舜の弟。「地黄八幡」の旗で知られる北条綱成の孫に当たり、北条早雲(伊勢宗瑞)の血も引いている。
早雲-氏綱-娘(北条綱成に嫁ぐ)-氏繁-氏勝
譜代大名に分類されるが、小田原攻めの後で家康に仕えた新参の家臣である。下総岩富で一万石を与えられた。関ヶ原の戦い後は岡崎、犬山、丹波亀山の城番を務めたが、病のため、弟で養子の繁広が代わった。慶長十六年、岩富で死去。

植村泰忠 【うえむらやすただ】 天文八年(1539)-慶長十六年一月十九日
のちに子孫が大名となるが、泰忠自身は万石未満の旗本(上総勝浦で五千石)。一族の家存は徳川十六神将の一人だが、会見当時はすでに死去している。万石に達したのは孫の家政の代で、三代将軍家光の時である。

大久保忠常 【おおくぼただつね】 天正八年(1580)-慶長十六年十月十日
創業の功臣の一人である大久保忠世の孫。父忠隣に先立って死去した。忠隣は本多正信・正純父子との権力を争い、大久保長安事件の影響で慶長十九年に改易となった。
忠常が忠隣、あるいは本多父子の指示を受けたとか、大久保長安事件と絡めるとか、小説的な組み立ては出来そうだが、話が複雑になってわかりづらくなってしまうし、そもそも忠常くらいまで世代が下ってしまうと、家康との縁が薄くなってしまう。このような回りくどいことをしなくても、親吉の名を使った方が早いだろう。

ここまで範囲を広げてしまうと、知名度が下がってしまい、「重臣」としてはふさわしくないだろう。

フジテレビの10月からの火曜21時枠で、
森博嗣の「すべてがFになる」がドラマ化されるのはいいけど、
綾野剛もいいけど、武井咲ではなあ…
S&Mシリーズのイメージが壊れちゃうので、観ません!

あの人は誰が演じるんだろう…。

秋になったのか、少し涼しくなってきたのはありますが、
それでもそれなりに暑さは残っています。

そういう中で、カーッと来ることがあると、
後頭部の左下あたりがモヤモヤっとするんですよね。
(春の多忙時にもあった)

デスクワークで首が疲れているという、
肉体的な影響もあるので、
首筋に温湿布を貼ると一定の効果があります。

ただねー、仕事のストレスがもっぱらでしょうから、
カーッと来て、熱っぽくなる、もやっとする、
ってのは、血管に来てるんじゃないかなーと思っています。

まったく関係がありませんが、
昨日と今日と、知り合いが激怒している夢を見ましてですね
(自分が怒られているわけではない)、
何かの前兆でしょうか。

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