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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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さあ、ユニホームも変になったし、今年は本格的に応援ひとやすみだ!

プロ野球・中日、新ユニホーム披露(時事通信)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120130-00000048-jijp-spo.view-000

青色が好きなんだけど・・・。
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最後にタイトルを「かんちゅう」で変換して、

最初に出たのが「漢中」・・・。三国志かよw


今年は去年より寒いと言われていますがどうなんですかね。

たしかに、昨年は水道の凍結はありませんでしたが、

今年は寸前まで行きました。

うちのところは北海道といっても、それほど雪は多くないので、

その分寒いです(雪が降ってしまうとあまり寒くない、と感じるようになる)

でも、去年のように夜中ずっとストーブを付けて寝るということはないので、

去年の方が寒かったのではないかと思ったりもするんですがねえ。

二月になったらもっと寒くなるのかしら。

このごろずっと背中のあたりがぞくぞくしますが、

みなさんもお体にはお気をつけて。

拝啓 DEBBY様

日曜日に東京から資料が届いたので報告いたします。

一つは会社案内のようなもの。パンフレットです。

入会時には200以上の希望条件を登録するそうですが(カップはないと思う)、これによって希望に沿ったお相手候補を紹介することが可能になるとのことです。毎月数人の候補が紹介されます(プランによって人数は異なる)

そんなに細かく設定したら誰もリストアップされないような気もしますが…。まあ、マッチングしないということは(商売上)ないでしょうから、近い条件の候補がリストアップされるのでしょう。初対面でも共通点が多い方が安心ですからね。

気になる相手がいれば専用の掲示板が開設されて、実際に会う前にコミュニケーションを取ることができます。

んー、説明していると、なんだか相談所の回し者になったような気がしてきた(笑)

また、インターネット上や会員誌でも相手を見つけることが可能です。支社に行くと写真検索のサービスもあります。あとは、イベントやパーティで会うことも可能となっています。こういうのは苦手…。

あとはアドバイザーのカウンセリングなどですね。わからないことは積極的に相談しましょう。ちなみに、ここは成婚料なしです。

来社予約をして(札幌まで行かねばならん…)、そこで無料体験&カウンセリングをして、実際に入会するかどうか判断することになるでしょう。

もう一つはいくつかの書類が入っていて、その中の一つが、アンケートをもとにマッチングした結果がありました(5人)。年齢、住所、その他プロフィールがぎっしりです。実際の相手を想像すると現実感がわきますよね。あと入っていたのは、体験談、データなどですね。他社の実名入り比較とかいいのかな、と。うちの業界ではおそらくNGです。

就職活動のようなもので、無料で受けられるサービスは受けてみて、その結果を見てから判断してもいいかと。一生ものの話ですからね。

敬具
「戦国人物紹介」

■毛利元就1

037 毛利元就 【もうりもとなり】
 1497-1571

松寿丸、少輔次郎。治部少輔、右馬頭、陸奥守、従四位上。

前にも書きましたが、何代か続いた家というのはその家の通字を持つことが多くあります。伊達家であれば「宗」の字。島津家であれば「久」の字。どちらも鎌倉時代以前から続き維新までを生き抜いた名門中の名門ですが、名前は主従関係を表すこともあって、上位の人の下の字を賜って、自分の上の字とし、下に通字をつけることがあります。伊達政宗の父は輝宗という名前ですが、上の「輝」は足利義輝から、下の「宗」は伊達家の通字です(ちなみに、独眼竜政宗の「政宗」は先祖と同じ名前)

徳川将軍家の通字は「家」ですが、将軍は武家の頂点に立つので、この「家」の字は名前の上に来ます(足利家の「義」と同じ)。ただし、養子が入るとこの限りではありません。五代将軍綱吉は兄である四代将軍家綱から一字を賜っています(弟といっても家臣である)。八代将軍吉宗は紀州から養子入りしましたが、言うまでもなく、「吉」の字は綱吉の「吉」から来ています。

さて、毛利家の系図をつらつらと見ると、この家の通字は何という字なのか悩むところですが、先祖の鎌倉時代の大江広元(公家出身の政治家で源頼朝に招かれて公文所(政所)の初代長官(別当)となる)から来ているのか、「元」、あるいは「広」の字となりそうです。輝元の子秀就(豊臣秀吉、ではなく秀頼から一字)あたりからすでにこの通字はあやしくなっており、幕末の藩主敬親に至っては原形を留めていません(一時、将軍家慶から一字を賜って慶親と名乗るが、長州征伐により剥奪されて敬親に戻る)。

元就の周辺の人物を見てみると、父は弘元(大内政弘より一字)、兄は興元(大内義興より一字)、長男は隆元(大内義隆より一字)と、みな大内家の当主から一字を賜って名前を付けています。一方で「元就」は通字の「元」の字が上に来ていますが、これは彼が長男ではなかったことを表しています。

父、兄とも酒毒が元で早世したと言われ、1523年、兄の子幸松丸も幼少で亡くなったことから、元就が毛利家の後継として家臣に推挙されることになり吉田郡山城に入城します。こういう形で家督を継ぐと、当主の権力基盤が弱くなることは武田信玄や上杉謙信の時にも書きました(絶対権力者のように思われている彼らも家臣の推戴により当主の地位に就いたため、家臣の意向に振り回されることも多かった)。現に元就の場合も、異母弟の相合元綱を擁する家臣の一部が尼子経久の勢力を借りて反旗を翻したため、これを鎮圧して毛利家家督を確固たるものにしています。この頃の毛利家は安芸吉田庄の国人領主(在地の武士)に過ぎず、東西を大内、尼子といった大勢力に挟まれていました。毛利家は尼子家の庇護を受けていた時期もありましたが、これを機に元就は大内義隆に臣従を誓うことになります。

1540年には三万の尼子軍に居城吉田郡山城を囲まれますが、三千の兵を集めて籠城、大内家の陶晴賢の援軍もあり、尼子軍を退けます。こののち、瀬戸内海に水軍を擁する竹原小早川氏に三男の隆景を、妻の実家でもあり山陰の豪族である吉川氏に二男の元春を養子として送り込み、謀略同然に両家の乗っ取りを果たしています。いわゆる毛利両川(りょうせん)と言われる二つの分家を山陽、山陰に展開し、中国地方の制覇に乗り出していくことになります。



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家紋は一文字三つ星(いちもんじにみつぼし)紋。

同族の越後北条(きたじょう)氏も同じ家紋である。


戦国最高の謀将。「謀神」とは近年つけられた渾名であろう。

ただ、策略家につきものであるダークなイメージは少ないが、

これは「三本の矢」に代表される一族の団結を訴えた家族愛のせいだろうか。
「戦国人物紹介」 毛利家についてのイメージ

毛利と言ったら毛利元就なのである。異論は認めない。元就を完コピしたような小早川隆景という極めて優秀な三男はいるが、毛利と言ったら、何をおいても毛利元就しかいないのである。この傑出した才能が大内、尼子の二大勢力を制して中国地方を支配し、維新の原動力となった長州藩の礎を築いたのである。

書きづらい毛利家
さて、そんな毛利家(毛利元就)であるが書きづらいのである。上杉や武田は一定のニーズがあるので書く分にはいい。上杉なんかは家臣の直江兼続をひっぱり出してきても、配役に妻夫木聡や当時の人気子役だった加藤清史郎クンなどを当てれば、数字が取れるのである(「天地人」の平均視聴率は20%を超えた)。武田家も「武田信玄」だけでなく、山本勘助バージョンもあった。ちなみに、NHKの大河ドラマの話をすると、地方の一大名に過ぎなかった伊達政宗(渡辺謙)を発掘してきてメジャーにしたのは見事と言える。

それらに比べると、毛利はちょっとリスキーである。大河ドラマもかなり前だし(1997年、ただし、平均視聴率は「天地人」よりも高い)、主役の中村橋之助も微妙なところである(個人的には「真田太平記」での向井佐助役のイメージが強かった)。

毛利ブームというのも来ない気がするのだが、一つには元就が戦国時代の早い時期(1571年)に退場したというのがある。武田にしても上杉にしても、伊達でさえも天下人(信長、秀吉、家康)との絡みがあるのだが、元就の場合はないのである。信長と争ったのは孫の輝元である。天下人の三人を扱った作品は多いが、そこに元就は登場しない。これは知名度という点で大きく不利となる。

「毛利元就?」「あのおじいちゃん武将?」「三本の矢?」…世間のイメージはこんなところである。

一方で、幕末の志士たちは大人気である。正面切って徳川幕府を倒そうと現実に行動したのは毛利家の長州藩だけである。薩摩も倒幕派ではないか、と言われそうだが、実は薩摩は当初は佐幕派(幕府寄りの態度)だったのである。内から幕政を改革しようとした薩摩(篤姫の輿入れもこの一環)は、1864年の禁門の変(蛤御門の変)では会津とともに長州軍を破っている。長州はこの二藩を憎み、「薩賊会奸」と言ったという。長州と薩摩は相容れなかったが、倒幕のために手を結んだのが薩長同盟である。

幕末の毛利家藩主
しかし、維新の立役者として、長州の高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)といった名前は出てきても、肝心の長州藩主となるとあまり知られていない。薩摩における幕末の藩主、島津斉彬や島津久光(藩主忠義の父)に比べると知名度が低い。毛利家の実質的な最後の藩主は毛利敬親(たかちか)という人物だが、何事にも「そうせい、そうせい(そのようにせよ)」と言ったという逸話から「そうせい侯」のあだ名がある。主体性を欠いた暗君として批判的に使われることが多いが、これは他藩からの揶揄のようで、実際は家臣を自由に働かせて維新を成し遂げた名君と見ることができよう。

明治になっても江戸時代の藩主はそのまま存在していたが、彼らが土地と人民を天皇に返上したのが版籍奉還である。のちの廃藩置県に続く改革で、要は社員が社長を首にするという話なのだが、この改革を進めたのが薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允である。他藩に率先して長州藩が版籍を奉還する範を示す必要があると考えた木戸は主君である毛利敬親(当時の藩主は養子の元徳)のもとに赴いた。敬親はあっさりと了解したが、木戸を呼びとめて、時機を見計らうように注意したという。また薩摩を説くように話し、これが薩長土肥の四藩主が奉還を出願することにつながる。他藩主もこれにならうこととなり、版籍奉還が実現した。機を見るに敏な大器だったのではなかろうか。
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