兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「戦国人物紹介」
043 立花道雪 【たちばなどうせつ】 1513-85 (後編)
勇将の下(もと)に弱卒なし
武勇に優れた将軍の下に弱い兵士はいない、という意味だが、蘇軾の「題連公壁」に見える言葉である。蘇軾(蘇東坡)は北宋の詩人で「赤壁賦」で知られる。「三国志」の赤壁の戦いの「赤壁」である。さて、道雪は若いころ、木の下で雨を避けていたが、落雷に遭い、とっさに千鳥と名付ける刀で雷を斬った。そのため一命は取り留めたが、下半身不随になった。以後、その刀を雷切(らいきり)と名付けて生涯離さなかったという。輿(あるいは駕籠)に乗って指揮を執ったが、三十七度の合戦で一度も遅れを取ることがなかったとされる。家臣たちも道雪を雷の化身と恐れ、戦場で置き去りにすることはなかった。肥満のため(馬に乗れず)輿に乗ったが、戦場で置き去りにされて死んだ龍造寺隆信とは大違いである。まあ、雷を斬って雷の化身というのも、よく考えると無茶苦茶な話ではある。
戦場では棒を持って、駕籠を叩き、敵陣に担ぎ込ませた。家臣にためらいがあると、道雪は怒って持っていた棒で駕籠を激しく叩き、「命が惜しければ、わしを敵の真っただ中に担ぎ入れてから逃げろ」と叫んだ。このため、不利な状況でも家臣たちは必死になって戦って態勢を立て直したという。
戦場では厳しい道雪でも家臣に対する思いやりを語った逸話は事欠かない。「兵卒でもともと弱い兵卒はいない。もし弱い兵卒がいるとすれば、その者が悪いのではない。大将がその者を励ませないことが悪いのだ」「武功には運不運が絡むもの、お前が弱い人間でないことは、わしがよく知っているから焦るでない、次の戦で、無理をして命を落とすことがあってはならない、それこそ不忠というものだ、どうかこれからもわしのために働いてくれ」と、手柄のない家臣とも酒を酌み交わし、武具などを与えたという。いったん手柄を挙げれば「みな、あの者を見よ、わしの目に狂いはなかった」と手柄を立てた者を側に招き、今後も頼むと懇ろに礼を述べた。そして、手柄を立てた者、手柄のなかった者を一堂に招いて「こうやってみなが心を合わせてくれるので、わしは幸せ者だ」と言ったという。客席で家臣に粗相があったときでも、「ただいまこの者に不調法がありましたが、戦場では人に後れを取ることなく戦いまする。槍はこの者が家中随一でございます」と家臣に恥をかかせなかった。
一方でこんな話もある。筑前河原崎で蒲池氏と対陣していたが、年を越すことになった。すると、家臣の一部がひそかに陣を離れて自分の家へ年越しのために戻ってしまった。それを知った道雪はただちに追手を差し向けて、その家臣のみならず、親のいるものは親まで殺すよう命じた。家臣たちが親まで殺すことはなかろうと諫めても、「大事な戦場の持ち場から帰ってくる子に会った限り、親も同罪である」と耳を貸そうともしなかったという。
宗麟を諫める
九州最大の大名となった宗麟だが、慢心したのか酒色におぼれて政務を顧みなくなった。道雪も宗麟を諫めようと登城するのだが、肝心の宗麟が表に出てこないので会うことすらままならない。すると、武骨者の道雪も宗麟に倣ったのか、大勢の女性を集め、昼夜を問わず酒宴に興じ始めたのである。普段は堅物の道雪がいったいどうしたのか、と宗麟は気になって様子を見に行ったのだが、それは宗麟に会って直接諫言するための道雪の策であった。宗麟も涙ながらに諫言する道雪の話に耳を傾けざるを得なかった。しかし、しばらくすると元に戻ってしまい、島津氏に敗れて逼塞を余儀なくされたのはご存じの通りである。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
秋月氏との戦いで、自ら刀を振るって七人を斬った、という話もあり、下半身が不自由で輿に乗っていたことに疑問を呈す見方もある。
043 立花道雪 【たちばなどうせつ】 1513-85 (後編)
勇将の下(もと)に弱卒なし
武勇に優れた将軍の下に弱い兵士はいない、という意味だが、蘇軾の「題連公壁」に見える言葉である。蘇軾(蘇東坡)は北宋の詩人で「赤壁賦」で知られる。「三国志」の赤壁の戦いの「赤壁」である。さて、道雪は若いころ、木の下で雨を避けていたが、落雷に遭い、とっさに千鳥と名付ける刀で雷を斬った。そのため一命は取り留めたが、下半身不随になった。以後、その刀を雷切(らいきり)と名付けて生涯離さなかったという。輿(あるいは駕籠)に乗って指揮を執ったが、三十七度の合戦で一度も遅れを取ることがなかったとされる。家臣たちも道雪を雷の化身と恐れ、戦場で置き去りにすることはなかった。肥満のため(馬に乗れず)輿に乗ったが、戦場で置き去りにされて死んだ龍造寺隆信とは大違いである。まあ、雷を斬って雷の化身というのも、よく考えると無茶苦茶な話ではある。
戦場では棒を持って、駕籠を叩き、敵陣に担ぎ込ませた。家臣にためらいがあると、道雪は怒って持っていた棒で駕籠を激しく叩き、「命が惜しければ、わしを敵の真っただ中に担ぎ入れてから逃げろ」と叫んだ。このため、不利な状況でも家臣たちは必死になって戦って態勢を立て直したという。
戦場では厳しい道雪でも家臣に対する思いやりを語った逸話は事欠かない。「兵卒でもともと弱い兵卒はいない。もし弱い兵卒がいるとすれば、その者が悪いのではない。大将がその者を励ませないことが悪いのだ」「武功には運不運が絡むもの、お前が弱い人間でないことは、わしがよく知っているから焦るでない、次の戦で、無理をして命を落とすことがあってはならない、それこそ不忠というものだ、どうかこれからもわしのために働いてくれ」と、手柄のない家臣とも酒を酌み交わし、武具などを与えたという。いったん手柄を挙げれば「みな、あの者を見よ、わしの目に狂いはなかった」と手柄を立てた者を側に招き、今後も頼むと懇ろに礼を述べた。そして、手柄を立てた者、手柄のなかった者を一堂に招いて「こうやってみなが心を合わせてくれるので、わしは幸せ者だ」と言ったという。客席で家臣に粗相があったときでも、「ただいまこの者に不調法がありましたが、戦場では人に後れを取ることなく戦いまする。槍はこの者が家中随一でございます」と家臣に恥をかかせなかった。
一方でこんな話もある。筑前河原崎で蒲池氏と対陣していたが、年を越すことになった。すると、家臣の一部がひそかに陣を離れて自分の家へ年越しのために戻ってしまった。それを知った道雪はただちに追手を差し向けて、その家臣のみならず、親のいるものは親まで殺すよう命じた。家臣たちが親まで殺すことはなかろうと諫めても、「大事な戦場の持ち場から帰ってくる子に会った限り、親も同罪である」と耳を貸そうともしなかったという。
宗麟を諫める
九州最大の大名となった宗麟だが、慢心したのか酒色におぼれて政務を顧みなくなった。道雪も宗麟を諫めようと登城するのだが、肝心の宗麟が表に出てこないので会うことすらままならない。すると、武骨者の道雪も宗麟に倣ったのか、大勢の女性を集め、昼夜を問わず酒宴に興じ始めたのである。普段は堅物の道雪がいったいどうしたのか、と宗麟は気になって様子を見に行ったのだが、それは宗麟に会って直接諫言するための道雪の策であった。宗麟も涙ながらに諫言する道雪の話に耳を傾けざるを得なかった。しかし、しばらくすると元に戻ってしまい、島津氏に敗れて逼塞を余儀なくされたのはご存じの通りである。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
秋月氏との戦いで、自ら刀を振るって七人を斬った、という話もあり、下半身が不自由で輿に乗っていたことに疑問を呈す見方もある。
PR
本田の活躍は期待以上ですね。欲しい時に決めてくれます。
ヨルダンは相手じゃなかったと思うので(※)、
グループ内の最大の相手である次のオーストラリア戦をアウェイでどう戦うかですね。
ここでいまの日本代表の実力を見せつけてほしい。
仕事なんてしてる暇はありませんw
※昨年のアジアカップでは2戦して2分けだが、
今日の圧勝は、この一年で日本代表、個々の選手も大きく成長したということ。
ヨルダンは相手じゃなかったと思うので(※)、
グループ内の最大の相手である次のオーストラリア戦をアウェイでどう戦うかですね。
ここでいまの日本代表の実力を見せつけてほしい。
仕事なんてしてる暇はありませんw
※昨年のアジアカップでは2戦して2分けだが、
今日の圧勝は、この一年で日本代表、個々の選手も大きく成長したということ。
「戦国人物紹介」
信玄も書面で対面を望んだ名将
043 立花道雪 【たちばなどうせつ】 1513-85 (前編)
八幡丸。戸次鑑連。左衛門大夫、伯耆守、紀伊入道、丹後入道。父は戸次親家、母は由布惟常の娘。豊後鎧岳城主、筑前立花城主。
大友氏の一族である戸次(べっき)氏の出で、名は鑑連(あきつら)という。1562年、大友義鎮が剃髪して宗麟と号したのに従い、鑑連も剃髪し、宗麟から麟伯の号を送られ麟伯軒道雪と称する。1568年、同じ大友氏の一族である立花鑑載が毛利氏に通じたため、大友宗麟は道雪に征伐を命じた。立花山城が陥落すると宗麟は道雪に立花山城を守らせるとともに、立花氏を称させた。ここに立花道雪が誕生する。以後の呼称は道雪で統一する。
話は戻るが、道雪は1526年、十四歳で家督を継ぎ、大友義鑑(宗麟の父)に仕える。1550年の二階崩れの変では義鎮(宗麟)を支持し、家督相続に尽力している。また、塩市丸派であった入田親誠を討つべく肥後に攻め入っている。1553年に異母弟鑑方の子鎮連を養子に迎えて家督を譲っている(鎮連は大友義統の代に誅殺された)。しかし、その後も大友家の重臣として活躍する。1557年には毛利氏に通じた秋月文種を討つ。1561年には加判衆に任じられ、1571年に立花山城主となるまで十年間務めている。
1567年、毛利氏の支援を受けた秋月文種の子種実が筑前古処山城に入って秋月氏復興の兵を起こすと、大友氏の重臣である高橋鑑種が呼応して、筑前宝満城、岩屋城に拠って大友氏に反旗を翻した。さらに筑後の筑紫広門も離反。道雪は宗麟の命を受けて鎮圧に向かうが、大友氏一族の立花鑑載までが同調し、苦戦を強いられる。1568年に立花氏の立花山城を攻囲、陥落させて鑑載を自害させることで、優勢を確保し、秋月氏を降伏に追い込む。しかし、1569年には立花山城を奪回すべく毛利氏の吉川元春、小早川隆景が筑前に攻め込んでくる。このとき、大友軍は肥前の龍造寺氏と対陣中であり、立花山城は落城。急ぎ和議を結んだ大友軍は引き返してきて毛利軍と激突、多々良川で一進一退の攻防を繰り広げることになる。戦局が膠着する中、大友側は大内氏の一族である輝弘を周防に送り込んで蜂起させ、毛利氏の後方を攪乱、さらに出雲で尼子勝久ら尼子氏遺臣が挙兵するに及んで毛利軍は撤退した。1570年には立花山城も開城し、再び大友氏の手に帰した。1571年、一連の戦いで功績のあった道雪は立花(山)城の城督となる。
1578年、宗麟は島津氏攻めを始めるが、道雪はこれには反対。しかし、宗麟は日向侵攻を強行し、耳川の戦いで島津氏に大敗して、多くの家臣も失い、大友氏は衰退を始める。家臣の反乱が相次ぐ中、高橋紹運、立花宗茂とともに斜陽の大友家を支えるが、筑後猫尾城攻めなどを攻略したあと、高良山の陣中にて発病し陣没。享年七十三。
生前、宗麟から甥鎮連の子統連に立花氏の家督を譲るよう勧められたがこれを断る。道雪には一人娘の誾(吟)千代(ぎんちよ)しかおらず、誾千代に家督を譲って立花山城主としたが、高橋紹運に願って長男の統虎を養子にもらいうけた。これが後の立花宗茂である。城主が二人いるようで二人の仲はしっくりしなかったともいう。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
立花誾千代。「誾」が環境依存文字なので、「立花ぎん千代」になってしまう。
1602年、三十四歳で死去、宗茂の柳河復帰を見ることはなかった。
夢幻戦士みたいな格好でどうもしっくりこない。
龍造寺氏ではなく鍋島氏が近世大名として名を残した件は鍋島直茂のところで書くとして、立花氏も大友氏の忠臣であったのに、いつの間にか独立大名となっている。上杉家の直江兼続あたりにも誘って果たせなかったことだが、大大名を巧みに分裂させる秀吉の人たらしの手腕の見事なこと、である。立花氏は独立大名となったおかげで、大友氏の改易には無縁だったが、関ヶ原では秀吉の恩を忘れず西軍に属したために改易となる。のだが、のちに旧領に復帰するという奇跡をやってのけることになる。
小野和泉(鎮幸)も柳河復帰を見届けることなく死んだ。由布雪下(惟信)は見届けて死んだ。
信玄も書面で対面を望んだ名将
043 立花道雪 【たちばなどうせつ】 1513-85 (前編)
八幡丸。戸次鑑連。左衛門大夫、伯耆守、紀伊入道、丹後入道。父は戸次親家、母は由布惟常の娘。豊後鎧岳城主、筑前立花城主。
大友氏の一族である戸次(べっき)氏の出で、名は鑑連(あきつら)という。1562年、大友義鎮が剃髪して宗麟と号したのに従い、鑑連も剃髪し、宗麟から麟伯の号を送られ麟伯軒道雪と称する。1568年、同じ大友氏の一族である立花鑑載が毛利氏に通じたため、大友宗麟は道雪に征伐を命じた。立花山城が陥落すると宗麟は道雪に立花山城を守らせるとともに、立花氏を称させた。ここに立花道雪が誕生する。以後の呼称は道雪で統一する。
話は戻るが、道雪は1526年、十四歳で家督を継ぎ、大友義鑑(宗麟の父)に仕える。1550年の二階崩れの変では義鎮(宗麟)を支持し、家督相続に尽力している。また、塩市丸派であった入田親誠を討つべく肥後に攻め入っている。1553年に異母弟鑑方の子鎮連を養子に迎えて家督を譲っている(鎮連は大友義統の代に誅殺された)。しかし、その後も大友家の重臣として活躍する。1557年には毛利氏に通じた秋月文種を討つ。1561年には加判衆に任じられ、1571年に立花山城主となるまで十年間務めている。
1567年、毛利氏の支援を受けた秋月文種の子種実が筑前古処山城に入って秋月氏復興の兵を起こすと、大友氏の重臣である高橋鑑種が呼応して、筑前宝満城、岩屋城に拠って大友氏に反旗を翻した。さらに筑後の筑紫広門も離反。道雪は宗麟の命を受けて鎮圧に向かうが、大友氏一族の立花鑑載までが同調し、苦戦を強いられる。1568年に立花氏の立花山城を攻囲、陥落させて鑑載を自害させることで、優勢を確保し、秋月氏を降伏に追い込む。しかし、1569年には立花山城を奪回すべく毛利氏の吉川元春、小早川隆景が筑前に攻め込んでくる。このとき、大友軍は肥前の龍造寺氏と対陣中であり、立花山城は落城。急ぎ和議を結んだ大友軍は引き返してきて毛利軍と激突、多々良川で一進一退の攻防を繰り広げることになる。戦局が膠着する中、大友側は大内氏の一族である輝弘を周防に送り込んで蜂起させ、毛利氏の後方を攪乱、さらに出雲で尼子勝久ら尼子氏遺臣が挙兵するに及んで毛利軍は撤退した。1570年には立花山城も開城し、再び大友氏の手に帰した。1571年、一連の戦いで功績のあった道雪は立花(山)城の城督となる。
1578年、宗麟は島津氏攻めを始めるが、道雪はこれには反対。しかし、宗麟は日向侵攻を強行し、耳川の戦いで島津氏に大敗して、多くの家臣も失い、大友氏は衰退を始める。家臣の反乱が相次ぐ中、高橋紹運、立花宗茂とともに斜陽の大友家を支えるが、筑後猫尾城攻めなどを攻略したあと、高良山の陣中にて発病し陣没。享年七十三。
生前、宗麟から甥鎮連の子統連に立花氏の家督を譲るよう勧められたがこれを断る。道雪には一人娘の誾(吟)千代(ぎんちよ)しかおらず、誾千代に家督を譲って立花山城主としたが、高橋紹運に願って長男の統虎を養子にもらいうけた。これが後の立花宗茂である。城主が二人いるようで二人の仲はしっくりしなかったともいう。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
立花誾千代。「誾」が環境依存文字なので、「立花ぎん千代」になってしまう。
1602年、三十四歳で死去、宗茂の柳河復帰を見ることはなかった。
夢幻戦士みたいな格好でどうもしっくりこない。
龍造寺氏ではなく鍋島氏が近世大名として名を残した件は鍋島直茂のところで書くとして、立花氏も大友氏の忠臣であったのに、いつの間にか独立大名となっている。上杉家の直江兼続あたりにも誘って果たせなかったことだが、大大名を巧みに分裂させる秀吉の人たらしの手腕の見事なこと、である。立花氏は独立大名となったおかげで、大友氏の改易には無縁だったが、関ヶ原では秀吉の恩を忘れず西軍に属したために改易となる。のだが、のちに旧領に復帰するという奇跡をやってのけることになる。
小野和泉(鎮幸)も柳河復帰を見届けることなく死んだ。由布雪下(惟信)は見届けて死んだ。
「君○online」というオンラインRPGがありまして、いや、いまもあるんですが。
それにハマっていたころは、平日でも深夜2時ころまで遊んでいたのですが、
いまは無理です。単純に年齢のせいかな。
たしかに、年とともに活動時間が短くなって、睡眠時間を必要としています。
平日は夜の9時を過ぎると寝ることを考えますし(毎日9時半に寝ると体調がいい)、
実際は10時を過ぎないと寝ませんけど、
逆に11時が近づくと、寝なくちゃ、と強迫観念に襲われます(前に書いた)
11時を過ぎると明らかに寝不足になるというか、
薬が残っているのか、次の日の朝の寝覚めは悪くなります。
その日どれだけ仕事をしたか、体調にもよると思うので、
どこがベストの睡眠時間かというのは難しいですね。
休みの日は休みの日でまた別の論理が働くようで、
お昼寝はどこまでも気持ちよく寝られます。
サザエさんの時間あたりにうっかり寝てしまうと(これもまた気持ちよく寝られる)、
日曜の夜中に寝られなくなったりするわけですが。
それにハマっていたころは、平日でも深夜2時ころまで遊んでいたのですが、
いまは無理です。単純に年齢のせいかな。
たしかに、年とともに活動時間が短くなって、睡眠時間を必要としています。
平日は夜の9時を過ぎると寝ることを考えますし(毎日9時半に寝ると体調がいい)、
実際は10時を過ぎないと寝ませんけど、
逆に11時が近づくと、寝なくちゃ、と強迫観念に襲われます(前に書いた)
11時を過ぎると明らかに寝不足になるというか、
薬が残っているのか、次の日の朝の寝覚めは悪くなります。
その日どれだけ仕事をしたか、体調にもよると思うので、
どこがベストの睡眠時間かというのは難しいですね。
休みの日は休みの日でまた別の論理が働くようで、
お昼寝はどこまでも気持ちよく寝られます。
サザエさんの時間あたりにうっかり寝てしまうと(これもまた気持ちよく寝られる)、
日曜の夜中に寝られなくなったりするわけですが。
我々は社長でも自営業者でもないので、
会社の判断(要するにもっと上の人の判断)で、
したくてもできないということがある。
担当者はこの会社と契約したいと思っても、
価格が折り合わなかったり、納期が間に合わなかったり、
いろいろな条件が合わずに、契約できない、ということはある。
それはやむを得ない。
もうかる仕事ばかりではないが、赤字の仕事ばかりだったら、
会社が成り立たないのである。
そういう時は断らないといけない(あるいは別な判断を下さなければならない)のだが、
断れない担当者というのはいるものである。
そうやって行き詰って思考停止に陥って、時間だけが過ぎていく。
すぐに断れば、お客さんも別の行動が取れるのに、
ギリギリになってからでは(お客さんもできるものと期待してしまうし)
次の行動の取りようがないのである。
全部受けることが我々の仕事ではないし(断るなら早く断るべき)
そんなことは求められていない。
そして、できないとかわからないというのは恥ではないのだから、
自分の能力が足りなければ、周りに教えを請えばいいし、
そこから自分で勉強すればいい。
誰にでもわからないことはあるのである。
(ただ、レベルの低い質問は勘弁願いたいが)
何より、変なプライドのせいでお客さんに迷惑がかかるのは社会人としてダメである。
何度やらかしてもわからないのは理解力がないのかな。不思議。
会社の判断(要するにもっと上の人の判断)で、
したくてもできないということがある。
担当者はこの会社と契約したいと思っても、
価格が折り合わなかったり、納期が間に合わなかったり、
いろいろな条件が合わずに、契約できない、ということはある。
それはやむを得ない。
もうかる仕事ばかりではないが、赤字の仕事ばかりだったら、
会社が成り立たないのである。
そういう時は断らないといけない(あるいは別な判断を下さなければならない)のだが、
断れない担当者というのはいるものである。
そうやって行き詰って思考停止に陥って、時間だけが過ぎていく。
すぐに断れば、お客さんも別の行動が取れるのに、
ギリギリになってからでは(お客さんもできるものと期待してしまうし)
次の行動の取りようがないのである。
全部受けることが我々の仕事ではないし(断るなら早く断るべき)
そんなことは求められていない。
そして、できないとかわからないというのは恥ではないのだから、
自分の能力が足りなければ、周りに教えを請えばいいし、
そこから自分で勉強すればいい。
誰にでもわからないことはあるのである。
(ただ、レベルの低い質問は勘弁願いたいが)
何より、変なプライドのせいでお客さんに迷惑がかかるのは社会人としてダメである。
何度やらかしてもわからないのは理解力がないのかな。不思議。