兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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その一
人の気持ちを慮る(おもんばかる)のが苦手なら、なおさら人と接しなければならない。会話しなければならない。自分の心を開かなければ、相手も心を開いてはくれない。
その二
人は鏡ですから、自分が思っていることは、相手も思っているものです。自分が好きと思って、相手が好きと思ってくれるかはまた別ですが、相手に悪意を持って対すれば、相手も自分に悪意を持っていると思えてしまうのです。
人の気持ちを慮る(おもんばかる)のが苦手なら、なおさら人と接しなければならない。会話しなければならない。自分の心を開かなければ、相手も心を開いてはくれない。
その二
人は鏡ですから、自分が思っていることは、相手も思っているものです。自分が好きと思って、相手が好きと思ってくれるかはまた別ですが、相手に悪意を持って対すれば、相手も自分に悪意を持っていると思えてしまうのです。
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三国志(と言うと、一般的に『三国志演義』か、それをモチーフにした小説や漫画、ゲームなどということになるが)を読まれた方ならば、呂蒙という呉の武将はご存じであろう。
周瑜から魯粛と続く呉の名将の系譜は呂蒙に受け継がれ、さらにそれは陸遜に引き継がれていくのだが、蜀のファンならずとも、策を弄して関羽を討った武将として、あまり人気がないのではないだろうか。その後、短命にして死んだのも惜しまれる。
彼に関する故事成語が二つ残っている。
一つは「呉下の阿蒙」である。「阿」は「~ちゃん」の意味であり、劉禅の幼名「阿斗」や、魯迅の小説『阿Q正伝』の主人公「阿Q」の「阿」も同じ意味である。
呂蒙も若い頃は短慮なところがあったようで、自分を馬鹿にした役人を斬って逃亡している。のちに自首して孫策に助けられている(孫策の人物を見抜く目は優れており、多くの人材を発掘した。これはのちに呉の大きな財産となる)。
その後しばらくして、魯粛が呂蒙に会ったが、いろいろ質問してみると、勉学に励んでいた呂蒙はよどみなく答えてしまう。さらに呂蒙から関羽を討つ策まで授けられてしまい、そこで魯粛が言ったのが「呉下の阿蒙に非ず」である。「呉にいた時の蒙ちゃんではないな」の意味である。魯粛も『三国志演義』では諸葛亮にいいようにあしらわれる人物として描かれているが、実際は周瑜亡き後、軍事だけでなく、外交でも実績のあった人物である。その魯粛に認められたのであるから、呂蒙も非凡な人物である。
その言葉に対して呂蒙が返したのが、もう一つの故事成語、「士別れて三日、即ち更に括目して相待すべし」である。日本では「男子三日会わざれば括目して見よ」という言葉になっている。「日々努力しているのだから、三日も会わなければ、強い関心を持って見よ」という意味である。
昨日は震災の話を書いたが、三日会わなければ人は変わるというのだから、二年もたてばその変化はもっと大きいであろう。
周瑜から魯粛と続く呉の名将の系譜は呂蒙に受け継がれ、さらにそれは陸遜に引き継がれていくのだが、蜀のファンならずとも、策を弄して関羽を討った武将として、あまり人気がないのではないだろうか。その後、短命にして死んだのも惜しまれる。
彼に関する故事成語が二つ残っている。
一つは「呉下の阿蒙」である。「阿」は「~ちゃん」の意味であり、劉禅の幼名「阿斗」や、魯迅の小説『阿Q正伝』の主人公「阿Q」の「阿」も同じ意味である。
呂蒙も若い頃は短慮なところがあったようで、自分を馬鹿にした役人を斬って逃亡している。のちに自首して孫策に助けられている(孫策の人物を見抜く目は優れており、多くの人材を発掘した。これはのちに呉の大きな財産となる)。
その後しばらくして、魯粛が呂蒙に会ったが、いろいろ質問してみると、勉学に励んでいた呂蒙はよどみなく答えてしまう。さらに呂蒙から関羽を討つ策まで授けられてしまい、そこで魯粛が言ったのが「呉下の阿蒙に非ず」である。「呉にいた時の蒙ちゃんではないな」の意味である。魯粛も『三国志演義』では諸葛亮にいいようにあしらわれる人物として描かれているが、実際は周瑜亡き後、軍事だけでなく、外交でも実績のあった人物である。その魯粛に認められたのであるから、呂蒙も非凡な人物である。
その言葉に対して呂蒙が返したのが、もう一つの故事成語、「士別れて三日、即ち更に括目して相待すべし」である。日本では「男子三日会わざれば括目して見よ」という言葉になっている。「日々努力しているのだから、三日も会わなければ、強い関心を持って見よ」という意味である。
昨日は震災の話を書いたが、三日会わなければ人は変わるというのだから、二年もたてばその変化はもっと大きいであろう。
強制的に使いにくいエディタに変更されてしまった…。
エディター上で書く分には問題ないのですが、
ワードからのコピペは以前のエディタの方が使いやすかったです。
(フォントが自動に変換されて、改行も維持された)
さて、東日本大震災から二年がたちました。
一周忌の次は三回忌なので、今年は三回忌に当たります。
過ぎてみればあっという間ですね。
あの不気味な、長く続く横揺れは一生忘れないと思います。
阪神・淡路大震災の映像を見て、
強いショックを受けたため(おそらくPTSDになったのですが、
その概念が一般に知られるようになったのは、この震災のあとのことでした)、
東日本大震災でもなるべく映像は見ないようにしていました。
(それでも津波や火災の映像は目に入ってきましたが)
被災地で何かができるという状況でもなかったので、
ひたすら自分の仕事に専念していました。
当時も書きましたが、それで精神に負荷をかけないようにしていました。
目をそむけていたのか、と非難する人もいるかもしれません。
しかし、他に何ができたと言うのでしょうか。
多くの人には日常を続けるほかなかったのではないでしょうか。
まず自分の生活を維持すること、それがいつか巡り巡って、
復興につながる力になれば、とささやかに祈るしかありません。
エディター上で書く分には問題ないのですが、
ワードからのコピペは以前のエディタの方が使いやすかったです。
(フォントが自動に変換されて、改行も維持された)
さて、東日本大震災から二年がたちました。
一周忌の次は三回忌なので、今年は三回忌に当たります。
過ぎてみればあっという間ですね。
あの不気味な、長く続く横揺れは一生忘れないと思います。
阪神・淡路大震災の映像を見て、
強いショックを受けたため(おそらくPTSDになったのですが、
その概念が一般に知られるようになったのは、この震災のあとのことでした)、
東日本大震災でもなるべく映像は見ないようにしていました。
(それでも津波や火災の映像は目に入ってきましたが)
被災地で何かができるという状況でもなかったので、
ひたすら自分の仕事に専念していました。
当時も書きましたが、それで精神に負荷をかけないようにしていました。
目をそむけていたのか、と非難する人もいるかもしれません。
しかし、他に何ができたと言うのでしょうか。
多くの人には日常を続けるほかなかったのではないでしょうか。
まず自分の生活を維持すること、それがいつか巡り巡って、
復興につながる力になれば、とささやかに祈るしかありません。
いわゆる一会桑政権ですね。一橋、会津、桑名(松平定敬、容保の実弟)の三者。
「一緒に命を懸けよう」と言いながら、次では「会津の戦には付き合いきれない」と言う慶喜。この人の人柄がよく出たシーン。
池田屋事件も会津から見ればこうなるのだなあ。沖田か血を吐いた細かいシーンも再現。
池田屋事件の評価は、有能な人材が多数失われて、維新が一年遅れたとも言われ、一方で、尊攘派を刺激して維新を早めたとも言われています。
佐久間象山に暗殺フラグが立っておる。予告では来週までの命か。
八重さんと尚之助さんは徐々に接近中。こちらも見逃せません。
「一緒に命を懸けよう」と言いながら、次では「会津の戦には付き合いきれない」と言う慶喜。この人の人柄がよく出たシーン。
池田屋事件も会津から見ればこうなるのだなあ。沖田か血を吐いた細かいシーンも再現。
池田屋事件の評価は、有能な人材が多数失われて、維新が一年遅れたとも言われ、一方で、尊攘派を刺激して維新を早めたとも言われています。
佐久間象山に暗殺フラグが立っておる。予告では来週までの命か。
八重さんと尚之助さんは徐々に接近中。こちらも見逃せません。
「戦国人物紹介」
島津氏中興の祖
050 島津忠良 【しまづただよし】 1492-1568
菊三郎、三郎左衛門尉、相模守、愚谷軒日新斎。島津氏四代忠宗の弟久長に始まる伊作島津家の九代善久の子。母は常盤(梅窓夫人、新納是久の娘。是久の玄孫が忠元)。
幸運な始まり
父善久は1494年、馬丁に撲殺される。二十八歳の若さであった。1500年には祖父久逸も薩州家の内紛に巻き込まれ、島津忠興に攻められて戦死した。このため、伊作家の家政は常盤が後見した。相州家の運久(ゆきひさ)は未亡人となった常盤に求婚するのだが(正室まで殺したという)、このとき常盤が出した条件が、常盤の子忠良が成人した際には、忠良に相州家の所領を譲るとの内容だった。運久は約束を守り、忠良は伊作家、相州家両家を合わせて薩摩に勢力を拡大した。常盤にはよほどの器量があったのだろう。男子がなかった運久(異説あり)と常盤の政略結婚だったという説もある。運久と常盤の間には女子が生まれているが、これが男子であれば、忠良の運命も島津家の運命も変わっていたものとなったに違いない。
当時の島津宗家の当主は勝久であったが、島津氏の領国は一族や家臣の内訌によりほぼ崩壊していた。勝久は独力では勢力を維持できず、薩州家の実久の力を借りることにした。勝久は実久の姉(妹とも)を正室に迎えるが、実久は自らが勝久に取って代わろうと考えていた。勝久に対し、自分を島津宗家の家督とするよう迫ったのである。勝久がこれを拒否すると、実久は兵を挙げ、勝久を鹿児島から追放した。追放された勝久は忠良を頼り、1526年、忠良の子貴久を養子として守護職を譲って出家、隠居した(所領を交換したというのは後世の創作)。
当然、実久はこの状況に不満を持ち、兵を挙げた。忠良・貴久方の城が相次いで陥落し、一時は貴久も死を覚悟したほどであった。さらに実久は隠居していた勝久を説いて還俗させ、再び守護職に復帰させた。薩摩は忠良・貴久方と実久・勝久方に分かれて争いが続いた。結局は勝久と実久が再び仲違いをし、忠良・貴久方に敗れた実久は出水に隠棲、勝久も敗れて大隅、さらに大友氏を頼って豊後に落ちていった。
1550年、貴久が鹿児島の内城に入ると、薩摩加世田に隠居したが、その後も貴久を後見し、また「いろは歌」を残すなど、家臣たちに薩摩の士風を教化し、のちの薩摩藩士の教育にも影響を与えた。
島津氏中興の祖
050 島津忠良 【しまづただよし】 1492-1568
菊三郎、三郎左衛門尉、相模守、愚谷軒日新斎。島津氏四代忠宗の弟久長に始まる伊作島津家の九代善久の子。母は常盤(梅窓夫人、新納是久の娘。是久の玄孫が忠元)。
幸運な始まり
父善久は1494年、馬丁に撲殺される。二十八歳の若さであった。1500年には祖父久逸も薩州家の内紛に巻き込まれ、島津忠興に攻められて戦死した。このため、伊作家の家政は常盤が後見した。相州家の運久(ゆきひさ)は未亡人となった常盤に求婚するのだが(正室まで殺したという)、このとき常盤が出した条件が、常盤の子忠良が成人した際には、忠良に相州家の所領を譲るとの内容だった。運久は約束を守り、忠良は伊作家、相州家両家を合わせて薩摩に勢力を拡大した。常盤にはよほどの器量があったのだろう。男子がなかった運久(異説あり)と常盤の政略結婚だったという説もある。運久と常盤の間には女子が生まれているが、これが男子であれば、忠良の運命も島津家の運命も変わっていたものとなったに違いない。
当時の島津宗家の当主は勝久であったが、島津氏の領国は一族や家臣の内訌によりほぼ崩壊していた。勝久は独力では勢力を維持できず、薩州家の実久の力を借りることにした。勝久は実久の姉(妹とも)を正室に迎えるが、実久は自らが勝久に取って代わろうと考えていた。勝久に対し、自分を島津宗家の家督とするよう迫ったのである。勝久がこれを拒否すると、実久は兵を挙げ、勝久を鹿児島から追放した。追放された勝久は忠良を頼り、1526年、忠良の子貴久を養子として守護職を譲って出家、隠居した(所領を交換したというのは後世の創作)。
当然、実久はこの状況に不満を持ち、兵を挙げた。忠良・貴久方の城が相次いで陥落し、一時は貴久も死を覚悟したほどであった。さらに実久は隠居していた勝久を説いて還俗させ、再び守護職に復帰させた。薩摩は忠良・貴久方と実久・勝久方に分かれて争いが続いた。結局は勝久と実久が再び仲違いをし、忠良・貴久方に敗れた実久は出水に隠棲、勝久も敗れて大隅、さらに大友氏を頼って豊後に落ちていった。
1550年、貴久が鹿児島の内城に入ると、薩摩加世田に隠居したが、その後も貴久を後見し、また「いろは歌」を残すなど、家臣たちに薩摩の士風を教化し、のちの薩摩藩士の教育にも影響を与えた。