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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■秀吉の改易・4

並べるだけなら誰でもできるので総括です。結論から言えば、諸大名を改易できる存在は秀吉しかいなかったんだけど、政策として改易を進める組織ができる前に、秀吉の寿命が尽きてしまった、ということですね。政宗に一揆煽動の嫌疑をかけたり、毛利家に養子を送りこもうとしたり、いろいろやってはいるんですけどね。

豊臣政権が政策的、組織的に大名の改易を進めたということはおそらくなかったでしょう。秀吉の晩年になって豊臣政権の機構が整備されましたが、それも各大名の連合的性格を有しており、その組織が大名の改易を進めるというのは不可能に近かったと思います。仲間内の大名を潰すには敵を作って戦争を引き起こすしかありませんでしたが、関ヶ原でそれをやったのが、秀吉の死後、豊臣政権の最高実力者となった家康でした。

徳川幕府との比較で見ると、豊臣政権の場合は、晩年を除けば、秀吉の独裁政権としての性格を有しており、一揆発生や軍務怠慢といった理由になっていても、結局は秀吉の勘気に触れて(怒りを買って)改易になった例がほとんどです。一方、徳川三代で改易その他の処分を受けた大名は五十年間で百家を超えますが、その理由は無嗣や嗣子幼少といったものが半分以上を占めています。 将軍の一族は例外で、松平忠吉(家康の四男、秀忠の同母弟)や武田信吉(家康の五男、武田家の家名を継いだ)のように無嗣で断絶した家もありますが、松平忠輝(家康の六男)にしろ、松平忠直(家康の二男秀康の子、菊池寛の小説『忠直卿行状記』で知られるが、乱行は事実ではない)にしろ、徳川忠長(家光の同母弟、母はお江)にしろ、表向きは不行跡などといった理由を付けられていますが、実際は幕府、将軍ににらまれたというところでしょう。

さて、秀吉から徳川幕府の話に移りますが、幕府はあまりに改易、要はお取り潰しをやったもんですから、巷には浪人があふれて、社会不安を引き起こすに至ります。ここで起こったのが由井正雪の乱(慶安の変、1651年)です。幕府に対する反乱計画は未遂に終わりますが、これ以降、幕府は末期養子の禁(嗣子のいない大名が死に臨んで急に養子を決めること、幕政初期ではほとんど認められなかった)を大幅に緩和し、浪人の増加防止に努めることになります。

福島正則は幕法違反(広島城の無断修築)で減封となり、死後除封(改易)となります。加藤忠広(清正の子)も御家騒動や幕法違反によりいったん除封され、配流先において一万石を与えられますが、無嗣により改易となりました。これら豊臣系大名の改易や減封に実際にかかわったのは将軍ではなく、幕府の官僚でした。具体的に一人挙げるとすれば、土井利勝ということになるでしょうか。御家騒動などには幕府の人間として必ずと言っていいほど登場する人物ですが、彼は戦場での武功はほとんどなく、譜代大名の一人として老中の職にありましたが十万石にも満たない所領しか持ちませんでした(最終的には下総古河十六万石となる)。陰険な策謀家としての見方もありますが、幕政初期に辣腕を振るった政治家と評した方が正しいでしょう。

なお、利勝は最終的に大老となりましたが、子の利隆は父に似ぬ暗愚とされ、老中にはなれず若年寄止まりでした。子孫は無嗣絶家の危機もあって減封となり、老中になった者は三人だけです。利勝の七光りがあって子孫が栄達したということはありませんでした。時代によって差はありますが、徳川幕府は将軍を頂点としていながら、将軍が専制的な君主として存在していたわけではありません。合議制と一定の能力主義が採用されていたのが、組織としての徳川幕府の不思議なところです。



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桶屋の息子という。秀吉の縁故で出世。子孫は幕府の旗本となった。



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忠広には孫がおり、子孫は出羽の大庄屋となったという。

清正が「清正公」として神格化までされたのは、加藤氏の後に肥後に入った細川氏の影響が大きい。
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無題
忠長はシグルイの中心人物の一人ですね、第一巻の開いてすぐのカラーページで斬首されてますけどw 暴虐な振る舞いがあったと言われていますけど、殺された方は何とでも言われちゃいますしねー

最後の一行が気になったので調べようかなと
amasiz 2011/04/17(Sun)01:23 編集
斜陽産業の中堅企業の経営者w
秀吉は「唐入り(朝鮮出兵)」のための統率力維持のため、改易を実施した面が強いかもね。国力維持しなきゃならないから、毛利、長宗我部、島津、上杉のような強大大名をレベルダウンさせるわけにはアカンかった(北条も残そうとしてたし)。その代わり、国力ダウンに結びつくような要因は親族(殺生関白)であっても徹底的に許さなかった。
家康っポイ改易もしたかったんだろうけど、後を任せられる人材がいなかったんだろうねぇ。。。、
ぼっこ 2011/04/17(Sun)08:52 編集
無題
>amasiz氏
家光と忠長、お江とお福(春日局)の確執は今年の大河ドラマでぜひ!w(すでに見てないし)

創られた話も多いのですが、浅間神社の神獣とされる猿を田畑を荒らしているとして殺したり、小姓を手討ちにしたり、やることはやっているので、あとは土井利勝ににらまれるとアウトですね。

清正の神格化の件は細川氏の肥後入りのあたりか調べてみるとよろしいかと。
Rakuna 2011/04/17(Sun)15:12 編集
労働問題
>ぼっこ氏
秀吉はあまり改易しなかったとはいえ、国内での戦争がなくなると雇用対策として外征せざるをえなかった。

徳川三代の話はしましたが、そのうち家光の代になってからの改易大名は五十を超えていて、そのうち七割近くが無嗣か嗣子幼少。ばっさばっさやりまくったんだけど、出てきたのが浪人、要は失業問題。

慶安の変で方向転換するんだけど、このへんの問題解決まで五十年以上かかってるってことだねえ。
Rakuna 2011/04/17(Sun)15:26 編集
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