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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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増補「関ヶ原の戦い・大名一覧」

東 津軽為信 【つがるためのぶ】 天文十九年(1550)-慶長十二年(1607※) 右京大夫
※正確には、西暦1608年1月

■1.本拠、石高
陸奥国堀越城、4.5万石(津軽三郡)

■2.略歴
扇、右京(亮)。慶長五年(1600)一月二十七日、右京大夫に任官。従四位下か。

もと大浦氏。藤原五摂家の筆頭である近衛前久に接近して、為信の祖父政信が近衛尚通(ひさみち、後法成寺、娘の慶寿院は足利義晴室で義輝、義昭の母)の落胤(あるいは猶子)であるとして藤原氏を称したが、もとよりこれは信じるに足らない。南部氏側の資料では、南部氏の支流である久慈氏のさらに支流とされる。

為信は伯父為則の娘をめとって大浦氏を継いだが、相続の経緯には不審な点が多い。父守信(武田甚三郎、紀伊守とも書かれる)は政信の二男(為則の弟)とされているが、没年も確定していない。為則には男子が二人いたが、のちにそろって溺死したという。これらは、為信の家督相続を正当化するために何らかの作為が行われたことが考えられる。

為信は南部氏の被官であったが、元亀二年(1571)、南部晴政の弟(叔父とも)である大仏ヶ鼻城(石川城)の石川高信を打ち破るなど、独立の姿勢を示す。なお、石川高信はのちに南部宗家を継いだ南部信直の実父だが、石川城が落城した年代や、この戦いで高信が戦死したかについては南部側の資料と相違がある。

天正十七年(1589)、家臣の八木橋備中を上洛させ、秀吉に鷹と馬を献上し、津軽三郡(鼻和郡、平賀郡、田舎郡)と合浦一円の所領を安堵された。翌年には為信自身が小田原攻め途上の秀吉に謁見している。南部氏に先んじて豊臣政権へ恭順する姿勢を示したことから、本領の安堵に成功したが、所領四万五千石のうち一万五千石は蔵入地(豊臣政権の直轄地)とされた。

この頃から近衛氏に接近して本姓を藤原氏にするとともに、津軽氏を称す。天正十九年(1591)、九戸政実の乱の鎮圧に従軍。文禄元年(1592)、朝鮮出兵では秀吉の本陣があった肥前名護屋まで赴いたとされる。同三年(1594)の伏見城工事に参加したというが、同年には居城を大浦城から堀越城に移しており、伏見から戻ると堀岡城に移ったようである。

■3.関ヶ原の戦いでの動向
長男信建は大坂城に在番させる一方、自らは三男信枚(のぶひら、「信牧」は誤記ではないか)と東軍に味方し、美濃大垣城攻めに従軍したとされるがはっきりしない。本戦を含めて、前後に名が見えない。大垣城攻めとは本戦と同日の戦いだろうから、本戦には参加せず、大垣城を囲んでいたのだろうか。

為信が津軽を留守にしている間に、尾崎喜蔵、板垣兵部将兼、多田(三目内)玄蕃の三将が謀反を起こし堀越城を占拠したが、金勘解由左衛門の子小三郎信則に討伐されている。

戦後は上野勢多郡大館二千石を加増され、四万七千石を領した。

■4.その後
慶長八年(1603)、弘前城の築城を開始(一応の完成を見たのは同十六年、二代信枚のとき、当時は「鷹岡城」「高岡城」と呼ばれ、「弘前城」と改名されたのは寛永五年)。

慶長十二年、大坂の豊臣秀頼警護の任にあった長男信建は病のため京で治療しており、為信は信建を見舞うために上洛するが、到着前に信建は死去し、為信自身も病により京で客死した。

長男信建と為信が相次いで死去したため、後継をめぐって家中騒動(津軽騒動)が起こった。信建の子熊千代(為信の嫡孫)と為信の三男信枚を擁立した家臣たちが分かれて争ったが、幕府の裁定により信枚が二代藩主とされた。

維新時は最終的に新政府軍に参加、廃藩置県を迎えた。

 

『信長の野望・天翔記』では、絶対に軍団長に任じてはならない三人のうちの一人とされた(ほかの二人は斎藤道三と松永久秀)。シリーズによっては暗殺の才能が光る。実力で津軽領を支配、独立したのだから、謀叛というのは酷な気もする。南部氏にとっては不倶戴天の敵だが、津軽地方にとっては郷土の英雄である。

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九戸政実 【くのへまさざね】 天文五年(1536)-天正十九年(1591)
左近将監。南部氏の家臣。天正十年に南部晴政、次いで子の晴継が死去する。政実は後継者に晴政の娘が嫁いでいた弟実親を推すが、同じく晴政の娘を妻とする石川信直と争って敗れる。同十四年にはみずからが南部氏の惣領であると自称。同十八年、秀吉の奥州仕置きが終わって、葛西・大崎らの旧臣が一揆を起こすと、東北地方の混乱に乗じて挙兵した。南部氏の家督を継いでいた南部信直はこれを独力で鎮圧できず、秀吉に援軍を求めた。蒲生氏郷らが率いる大軍に居城を包囲され、処刑された。

 

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最後の独立戦争。結果的には津軽為信の独立をアシストする形になった。上杉家に属した新発田重家にやや似たものを感じる。この人を描いた小説は少なくない。
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