兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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大戦勃発。管理会社に電話したら即日対応の素早さにびっくり。
カーラジオから流れてきた古内東子の「誰より好きなのに」(1996年)にしんみり。
徳永英明の「VOCALIST 4」でカバーされているらしい(男の人の声で聴きたいとは思わないけど)
「戦国人物紹介」
016 小笠原長時 【おがさわらながとき】 1514-83
小笠原氏と言えば、信玄と争った小笠原長時が有名だが、幕府の有職故実(弓馬などの武芸や儀礼)を伝えた一族としても知られる。いわゆる「小笠原流」の礼法の祖である。
小笠原氏は甲斐源氏の一流で、源義光の曾孫である加賀美遠光の二男長清に始まる。信濃守護を務め、のち深志小笠原(深志城はのちの松本城)と松尾小笠原の二派に分かれる。
長時は深志小笠原氏の子孫である。信玄の信濃侵攻に遭い、反武田派の軍勢を率いるが、1548年の塩尻峠の戦いで敗れて没落。越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼るが、のちに同族である三好氏を頼って上洛、一時摂津芥川城に住んだ。しかし、信長の上洛で三好氏の勢力が後退すると、再び謙信を頼って越後に赴く。謙信の死後は会津の蘆名氏に寄食し厚遇された。1582年、武田家滅亡により三男の小笠原貞慶が旧領を回復する。長時も帰国の準備をしていたが、恨みを抱いていた家臣に殺されたという。享年七十歳。
貞慶(1546-95)は本能寺の変後に家康に仕えるが、1585年、家康の重臣石川数正が秀吉のもとに出奔した際、数正に従って秀吉に仕えた。1590年の小田原攻めでは前田利家の軍に属して戦功を立て、讃岐半国を与えられるが、秀吉に追放されていた尾藤知宣をかくまったために所領を没収された。のち子の秀政とともに再び家康に仕えた。
秀政(1569-1615)は家康に仕えると下総古河三万石を与えられ、家康の長男である松平信康の娘を正室とした。1600年の関ヶ原の戦いでは下野宇都宮で上杉・佐竹氏に備える。翌年、二万石を加増されて信濃飯田五万石に移る。1612年、旧領である信濃松本八万石に復帰した。
1615年の大坂夏の陣では、秀政は若江の戦いで軍令どおりに隊を進めていた(家康は抜け駆けなど、軍令に背くことを厳禁している)が、豊臣方の木村重成の奮戦で徳川方が一時危うくなると、家康はそれを秀政が遅れたためだとして罵倒した。秀政は家康を見返すべく翌日の天王寺口の戦いで奮戦し、嫡子忠脩とともに討ち死にした。
このため小笠原家は二男の忠真が継いだ。のち豊前小倉で定着。幕末の1866年、第二次長州戦で長州方の逆襲に遭って小倉城は陥落し、香春(かわら)、ついで豊津に移って同地で廃藩を迎える。
カーラジオから流れてきた古内東子の「誰より好きなのに」(1996年)にしんみり。
徳永英明の「VOCALIST 4」でカバーされているらしい(男の人の声で聴きたいとは思わないけど)
「戦国人物紹介」
016 小笠原長時 【おがさわらながとき】 1514-83
小笠原氏と言えば、信玄と争った小笠原長時が有名だが、幕府の有職故実(弓馬などの武芸や儀礼)を伝えた一族としても知られる。いわゆる「小笠原流」の礼法の祖である。
小笠原氏は甲斐源氏の一流で、源義光の曾孫である加賀美遠光の二男長清に始まる。信濃守護を務め、のち深志小笠原(深志城はのちの松本城)と松尾小笠原の二派に分かれる。
長時は深志小笠原氏の子孫である。信玄の信濃侵攻に遭い、反武田派の軍勢を率いるが、1548年の塩尻峠の戦いで敗れて没落。越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼るが、のちに同族である三好氏を頼って上洛、一時摂津芥川城に住んだ。しかし、信長の上洛で三好氏の勢力が後退すると、再び謙信を頼って越後に赴く。謙信の死後は会津の蘆名氏に寄食し厚遇された。1582年、武田家滅亡により三男の小笠原貞慶が旧領を回復する。長時も帰国の準備をしていたが、恨みを抱いていた家臣に殺されたという。享年七十歳。
貞慶(1546-95)は本能寺の変後に家康に仕えるが、1585年、家康の重臣石川数正が秀吉のもとに出奔した際、数正に従って秀吉に仕えた。1590年の小田原攻めでは前田利家の軍に属して戦功を立て、讃岐半国を与えられるが、秀吉に追放されていた尾藤知宣をかくまったために所領を没収された。のち子の秀政とともに再び家康に仕えた。
秀政(1569-1615)は家康に仕えると下総古河三万石を与えられ、家康の長男である松平信康の娘を正室とした。1600年の関ヶ原の戦いでは下野宇都宮で上杉・佐竹氏に備える。翌年、二万石を加増されて信濃飯田五万石に移る。1612年、旧領である信濃松本八万石に復帰した。
1615年の大坂夏の陣では、秀政は若江の戦いで軍令どおりに隊を進めていた(家康は抜け駆けなど、軍令に背くことを厳禁している)が、豊臣方の木村重成の奮戦で徳川方が一時危うくなると、家康はそれを秀政が遅れたためだとして罵倒した。秀政は家康を見返すべく翌日の天王寺口の戦いで奮戦し、嫡子忠脩とともに討ち死にした。
このため小笠原家は二男の忠真が継いだ。のち豊前小倉で定着。幕末の1866年、第二次長州戦で長州方の逆襲に遭って小倉城は陥落し、香春(かわら)、ついで豊津に移って同地で廃藩を迎える。
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