兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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前回で土地がキーワードと言っていますが・・・。
『花の慶次』の原作である『一夢庵風流記』を書いた隆慶一郎は、
『一夢庵風流記』も含めて、網野善彦の史観の影響を受けています。
中世の民衆というと、どうしても農民(武士と完全に分離したわけではない)、
そして土地中心の見方になりがちですが、網野善彦は非農業民にも光を当てたんですね。
「農民-定住」と対照的な非農業民、職人や芸能民(芸能人ではない)といった非定住の人々。
中世には我々が想像するよりももっと幅広い、豊かな世界が広がっていました。
新書でも文庫でもいいので、一冊、手に取って読んでみてほしいと思います。
「戦国人物紹介」は関東三国志から始まりました。
北条氏は氏康が死んだところ、武田氏は滅亡まで、上杉氏は御館の乱まで書きました。
上杉氏の次は上杉景勝と直江兼続じゃね?
というところですが、前のところで一度書いたので、リンクだけ貼っておきます。
立候補の話とか懐かしいwww
上杉景勝
http://rakuna.blog.shinobi.jp/Entry/286/
直江兼続
http://rakuna.blog.shinobi.jp/Entry/277/ (前編)
http://rakuna.blog.shinobi.jp/Entry/278/ (後編)
関ヶ原の戦いを書くときに、再度取り上げる予定です。
『花の慶次』の原作である『一夢庵風流記』を書いた隆慶一郎は、
『一夢庵風流記』も含めて、網野善彦の史観の影響を受けています。
中世の民衆というと、どうしても農民(武士と完全に分離したわけではない)、
そして土地中心の見方になりがちですが、網野善彦は非農業民にも光を当てたんですね。
「農民-定住」と対照的な非農業民、職人や芸能民(芸能人ではない)といった非定住の人々。
中世には我々が想像するよりももっと幅広い、豊かな世界が広がっていました。
新書でも文庫でもいいので、一冊、手に取って読んでみてほしいと思います。
「戦国人物紹介」は関東三国志から始まりました。
北条氏は氏康が死んだところ、武田氏は滅亡まで、上杉氏は御館の乱まで書きました。
上杉氏の次は上杉景勝と直江兼続じゃね?
というところですが、前のところで一度書いたので、リンクだけ貼っておきます。
立候補の話とか懐かしいwww
上杉景勝
http://rakuna.blog.shinobi.jp/Entry/286/
直江兼続
http://rakuna.blog.shinobi.jp/Entry/277/ (前編)
http://rakuna.blog.shinobi.jp/Entry/278/ (後編)
関ヶ原の戦いを書くときに、再度取り上げる予定です。
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「戦国人物紹介」
■秀吉の改易・4
並べるだけなら誰でもできるので総括です。結論から言えば、諸大名を改易できる存在は秀吉しかいなかったんだけど、政策として改易を進める組織ができる前に、秀吉の寿命が尽きてしまった、ということですね。政宗に一揆煽動の嫌疑をかけたり、毛利家に養子を送りこもうとしたり、いろいろやってはいるんですけどね。
豊臣政権が政策的、組織的に大名の改易を進めたということはおそらくなかったでしょう。秀吉の晩年になって豊臣政権の機構が整備されましたが、それも各大名の連合的性格を有しており、その組織が大名の改易を進めるというのは不可能に近かったと思います。仲間内の大名を潰すには敵を作って戦争を引き起こすしかありませんでしたが、関ヶ原でそれをやったのが、秀吉の死後、豊臣政権の最高実力者となった家康でした。
徳川幕府との比較で見ると、豊臣政権の場合は、晩年を除けば、秀吉の独裁政権としての性格を有しており、一揆発生や軍務怠慢といった理由になっていても、結局は秀吉の勘気に触れて(怒りを買って)改易になった例がほとんどです。一方、徳川三代で改易その他の処分を受けた大名は五十年間で百家を超えますが、その理由は無嗣や嗣子幼少といったものが半分以上を占めています。 将軍の一族は例外で、松平忠吉(家康の四男、秀忠の同母弟)や武田信吉(家康の五男、武田家の家名を継いだ)のように無嗣で断絶した家もありますが、松平忠輝(家康の六男)にしろ、松平忠直(家康の二男秀康の子、菊池寛の小説『忠直卿行状記』で知られるが、乱行は事実ではない)にしろ、徳川忠長(家光の同母弟、母はお江)にしろ、表向きは不行跡などといった理由を付けられていますが、実際は幕府、将軍ににらまれたというところでしょう。
さて、秀吉から徳川幕府の話に移りますが、幕府はあまりに改易、要はお取り潰しをやったもんですから、巷には浪人があふれて、社会不安を引き起こすに至ります。ここで起こったのが由井正雪の乱(慶安の変、1651年)です。幕府に対する反乱計画は未遂に終わりますが、これ以降、幕府は末期養子の禁(嗣子のいない大名が死に臨んで急に養子を決めること、幕政初期ではほとんど認められなかった)を大幅に緩和し、浪人の増加防止に努めることになります。
福島正則は幕法違反(広島城の無断修築)で減封となり、死後除封(改易)となります。加藤忠広(清正の子)も御家騒動や幕法違反によりいったん除封され、配流先において一万石を与えられますが、無嗣により改易となりました。これら豊臣系大名の改易や減封に実際にかかわったのは将軍ではなく、幕府の官僚でした。具体的に一人挙げるとすれば、土井利勝ということになるでしょうか。御家騒動などには幕府の人間として必ずと言っていいほど登場する人物ですが、彼は戦場での武功はほとんどなく、譜代大名の一人として老中の職にありましたが十万石にも満たない所領しか持ちませんでした(最終的には下総古河十六万石となる)。陰険な策謀家としての見方もありますが、幕政初期に辣腕を振るった政治家と評した方が正しいでしょう。
なお、利勝は最終的に大老となりましたが、子の利隆は父に似ぬ暗愚とされ、老中にはなれず若年寄止まりでした。子孫は無嗣絶家の危機もあって減封となり、老中になった者は三人だけです。利勝の七光りがあって子孫が栄達したということはありませんでした。時代によって差はありますが、徳川幕府は将軍を頂点としていながら、将軍が専制的な君主として存在していたわけではありません。合議制と一定の能力主義が採用されていたのが、組織としての徳川幕府の不思議なところです。

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桶屋の息子という。秀吉の縁故で出世。子孫は幕府の旗本となった。

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忠広には孫がおり、子孫は出羽の大庄屋となったという。
清正が「清正公」として神格化までされたのは、加藤氏の後に肥後に入った細川氏の影響が大きい。
■秀吉の改易・4
並べるだけなら誰でもできるので総括です。結論から言えば、諸大名を改易できる存在は秀吉しかいなかったんだけど、政策として改易を進める組織ができる前に、秀吉の寿命が尽きてしまった、ということですね。政宗に一揆煽動の嫌疑をかけたり、毛利家に養子を送りこもうとしたり、いろいろやってはいるんですけどね。
豊臣政権が政策的、組織的に大名の改易を進めたということはおそらくなかったでしょう。秀吉の晩年になって豊臣政権の機構が整備されましたが、それも各大名の連合的性格を有しており、その組織が大名の改易を進めるというのは不可能に近かったと思います。仲間内の大名を潰すには敵を作って戦争を引き起こすしかありませんでしたが、関ヶ原でそれをやったのが、秀吉の死後、豊臣政権の最高実力者となった家康でした。
徳川幕府との比較で見ると、豊臣政権の場合は、晩年を除けば、秀吉の独裁政権としての性格を有しており、一揆発生や軍務怠慢といった理由になっていても、結局は秀吉の勘気に触れて(怒りを買って)改易になった例がほとんどです。一方、徳川三代で改易その他の処分を受けた大名は五十年間で百家を超えますが、その理由は無嗣や嗣子幼少といったものが半分以上を占めています。 将軍の一族は例外で、松平忠吉(家康の四男、秀忠の同母弟)や武田信吉(家康の五男、武田家の家名を継いだ)のように無嗣で断絶した家もありますが、松平忠輝(家康の六男)にしろ、松平忠直(家康の二男秀康の子、菊池寛の小説『忠直卿行状記』で知られるが、乱行は事実ではない)にしろ、徳川忠長(家光の同母弟、母はお江)にしろ、表向きは不行跡などといった理由を付けられていますが、実際は幕府、将軍ににらまれたというところでしょう。
さて、秀吉から徳川幕府の話に移りますが、幕府はあまりに改易、要はお取り潰しをやったもんですから、巷には浪人があふれて、社会不安を引き起こすに至ります。ここで起こったのが由井正雪の乱(慶安の変、1651年)です。幕府に対する反乱計画は未遂に終わりますが、これ以降、幕府は末期養子の禁(嗣子のいない大名が死に臨んで急に養子を決めること、幕政初期ではほとんど認められなかった)を大幅に緩和し、浪人の増加防止に努めることになります。
福島正則は幕法違反(広島城の無断修築)で減封となり、死後除封(改易)となります。加藤忠広(清正の子)も御家騒動や幕法違反によりいったん除封され、配流先において一万石を与えられますが、無嗣により改易となりました。これら豊臣系大名の改易や減封に実際にかかわったのは将軍ではなく、幕府の官僚でした。具体的に一人挙げるとすれば、土井利勝ということになるでしょうか。御家騒動などには幕府の人間として必ずと言っていいほど登場する人物ですが、彼は戦場での武功はほとんどなく、譜代大名の一人として老中の職にありましたが十万石にも満たない所領しか持ちませんでした(最終的には下総古河十六万石となる)。陰険な策謀家としての見方もありますが、幕政初期に辣腕を振るった政治家と評した方が正しいでしょう。
なお、利勝は最終的に大老となりましたが、子の利隆は父に似ぬ暗愚とされ、老中にはなれず若年寄止まりでした。子孫は無嗣絶家の危機もあって減封となり、老中になった者は三人だけです。利勝の七光りがあって子孫が栄達したということはありませんでした。時代によって差はありますが、徳川幕府は将軍を頂点としていながら、将軍が専制的な君主として存在していたわけではありません。合議制と一定の能力主義が採用されていたのが、組織としての徳川幕府の不思議なところです。
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桶屋の息子という。秀吉の縁故で出世。子孫は幕府の旗本となった。
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忠広には孫がおり、子孫は出羽の大庄屋となったという。
清正が「清正公」として神格化までされたのは、加藤氏の後に肥後に入った細川氏の影響が大きい。
「戦国人物紹介」
■秀吉の改易・3
木村吉清 【きむらよしきよ】 ?-1598
1591年、一揆発生、陸奥三十万石→改易
伊勢守。もと明智光秀に仕えるが、山崎の戦いの後に秀吉に仕えた。小田原攻め後に奥州の葛西・大崎氏の遺領三十万石を与えられるが、葛西大崎遺臣の一揆が起きたことから、責任を問われて所領を没収された。秀吉は一揆が起きることを見越して、あえて吉清に大領を与えたとも言われ、その手法は肥後に封じられてのち改易された佐々成政の場合に似る。改易後は蒲生氏郷に仕えるが、氏郷の子秀行が宇都宮に移された際に豊後国内で一万四千石を与えられて大名に復帰した。子の秀望(清久)が関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易となった。秀望は大坂の陣で大坂に入城し、夏の陣で討ち死にした。
大友吉統 【おおともよしむね】 1558-1610
1593年、軍務怠慢、豊後三十万石余か→改易
初め義統。大友義鎮(宗麟)の子。大友氏は宗麟の代に九州六カ国を領する大大名となったが、1578年の耳川の戦いで島津氏に大敗、家中統制もうまくいかなくなり、領国は崩壊。秀吉の九州攻めにより豊後一国のみを安堵される。1593年、朝鮮出兵で小西行長の救援要請を受けるが撤退したため、秀吉の怒りを買い、改易される。関ヶ原の戦いでは毛利氏の支援を受け、西軍に属して豊後に攻め入るが、石垣原で黒田如水に敗北。子の義乗が幕府の高家として続いた。

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九州の名門復興を願うもかなわず。家臣だった立花氏が大名として生き残ります。
毛利秀頼 【もうりひでより】 1541-93
1593年、不明、信濃飯田十万石→一万石
初名は長秀。河内守。尾張守護であった斯波氏の支流である津川義近(斯波義銀)の弟。信長に仕え、武田攻めの後、信濃伊奈郡を与えられた。本能寺の変で所領を放棄し尾張に逃れ、のち秀吉に属した。小田原攻めの後に信濃伊奈郡に復帰、飯田城に入った。子は成人していたと思われるが、遺領の大半は娘婿の京極高知(高次の弟)が継いだ。
織田信包 【おだのぶかね】 1543-1614
1594年、不明、伊勢安濃津→近江二万石
信長の弟。兄に仕えて伊勢上野城主。本能寺の変後は秀吉に属し、伊勢安濃津城主。1594年、上意に背いたとして改易となり、老犬歳と号した。一説に小田原攻めで北条氏政の助命を嘆願したことが秀吉の不興を買ったという。のち丹波柏原城主。孫信勝の代に無嗣絶家となるが、しばらくして一族の織田信休(信雄の五男高長の子孫)が同地に入り、子孫相継いで廃藩を迎えた。
宇都宮国綱 【うつのみやくにつな】 1568-1607
1597年、不明、下野宇都宮十八万石→改易
広綱の子。宇都宮氏は源頼朝や足利氏にも仕えた下野の名門。北条氏に圧迫されるが、秀吉の小田原攻めに参加して所領を安堵された。しかし、1597年、突如秀吉の命により所領を没収される。浅野長政に検地をさせたときに所領を偽ったためとも、浅野長政の子を養子にすることを断ったためともされるが、詳細は不明。朝鮮出兵に参加し、戦功を立てるも、秀吉の死により旧領回復は果たせなかった。その後、江戸浅草で死去。子孫は水戸藩に仕えた。

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国綱の父。上杉氏や佐竹氏と結んで北条氏と対抗したが早死に。
小早川秀秋 【こばやかわひであき】 1582-1602
1598年、軍務怠慢、筑前名島三十万石→越前北ノ庄十五万石
初名は秀俊。秀吉の正室である北政所(高台院)の兄木下家定の子。秀吉の養子を経て、1594年に小早川隆景の養子となる。朝鮮出兵で軽率な行為があったとして秀吉の譴責を受けている。この結果、越前北ノ庄に減転封されるという処罰を受けるが、家康のとりなしや秀吉の死もあって、1599年に五大老の命によって筑前の旧領に復帰する。関ヶ原の戦い後は備前岡山五十万石余を与えられるが、二年後に子のないまま死去、関ヶ原の戦い以降では初の無嗣改易となった。
蒲生秀行 【がもうひでゆき】 1583-1612
1598年、御家騒動、陸奥会津九十二万石→下野宇都宮十二万石
蒲生氏郷の子。母冬姫は信長の娘。正室は家康の娘振姫。父氏郷が四十歳で死去したため、秀行が家督を継いだがわずか十三歳の若さであった。父に比べて凡庸とされ、家中統制がうまくいかず、重臣間の対立を招くという(蒲生騒動)。秀吉とすれば、東北や関東の抑えとして氏郷に代わる大名を入れようと考えたと思われる。結果的には、秀行の後の会津には越後から上杉景勝が入った。関ヶ原の戦後、東軍に属した秀行は会津に復帰し、六十万石を領した。秀行も三十歳で死去、忠郷、忠知と続いたが、いずれも早世、無嗣絶家となった。
■秀吉の改易・3
木村吉清 【きむらよしきよ】 ?-1598
1591年、一揆発生、陸奥三十万石→改易
伊勢守。もと明智光秀に仕えるが、山崎の戦いの後に秀吉に仕えた。小田原攻め後に奥州の葛西・大崎氏の遺領三十万石を与えられるが、葛西大崎遺臣の一揆が起きたことから、責任を問われて所領を没収された。秀吉は一揆が起きることを見越して、あえて吉清に大領を与えたとも言われ、その手法は肥後に封じられてのち改易された佐々成政の場合に似る。改易後は蒲生氏郷に仕えるが、氏郷の子秀行が宇都宮に移された際に豊後国内で一万四千石を与えられて大名に復帰した。子の秀望(清久)が関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易となった。秀望は大坂の陣で大坂に入城し、夏の陣で討ち死にした。
大友吉統 【おおともよしむね】 1558-1610
1593年、軍務怠慢、豊後三十万石余か→改易
初め義統。大友義鎮(宗麟)の子。大友氏は宗麟の代に九州六カ国を領する大大名となったが、1578年の耳川の戦いで島津氏に大敗、家中統制もうまくいかなくなり、領国は崩壊。秀吉の九州攻めにより豊後一国のみを安堵される。1593年、朝鮮出兵で小西行長の救援要請を受けるが撤退したため、秀吉の怒りを買い、改易される。関ヶ原の戦いでは毛利氏の支援を受け、西軍に属して豊後に攻め入るが、石垣原で黒田如水に敗北。子の義乗が幕府の高家として続いた。
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九州の名門復興を願うもかなわず。家臣だった立花氏が大名として生き残ります。
毛利秀頼 【もうりひでより】 1541-93
1593年、不明、信濃飯田十万石→一万石
初名は長秀。河内守。尾張守護であった斯波氏の支流である津川義近(斯波義銀)の弟。信長に仕え、武田攻めの後、信濃伊奈郡を与えられた。本能寺の変で所領を放棄し尾張に逃れ、のち秀吉に属した。小田原攻めの後に信濃伊奈郡に復帰、飯田城に入った。子は成人していたと思われるが、遺領の大半は娘婿の京極高知(高次の弟)が継いだ。
織田信包 【おだのぶかね】 1543-1614
1594年、不明、伊勢安濃津→近江二万石
信長の弟。兄に仕えて伊勢上野城主。本能寺の変後は秀吉に属し、伊勢安濃津城主。1594年、上意に背いたとして改易となり、老犬歳と号した。一説に小田原攻めで北条氏政の助命を嘆願したことが秀吉の不興を買ったという。のち丹波柏原城主。孫信勝の代に無嗣絶家となるが、しばらくして一族の織田信休(信雄の五男高長の子孫)が同地に入り、子孫相継いで廃藩を迎えた。
宇都宮国綱 【うつのみやくにつな】 1568-1607
1597年、不明、下野宇都宮十八万石→改易
広綱の子。宇都宮氏は源頼朝や足利氏にも仕えた下野の名門。北条氏に圧迫されるが、秀吉の小田原攻めに参加して所領を安堵された。しかし、1597年、突如秀吉の命により所領を没収される。浅野長政に検地をさせたときに所領を偽ったためとも、浅野長政の子を養子にすることを断ったためともされるが、詳細は不明。朝鮮出兵に参加し、戦功を立てるも、秀吉の死により旧領回復は果たせなかった。その後、江戸浅草で死去。子孫は水戸藩に仕えた。
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国綱の父。上杉氏や佐竹氏と結んで北条氏と対抗したが早死に。
小早川秀秋 【こばやかわひであき】 1582-1602
1598年、軍務怠慢、筑前名島三十万石→越前北ノ庄十五万石
初名は秀俊。秀吉の正室である北政所(高台院)の兄木下家定の子。秀吉の養子を経て、1594年に小早川隆景の養子となる。朝鮮出兵で軽率な行為があったとして秀吉の譴責を受けている。この結果、越前北ノ庄に減転封されるという処罰を受けるが、家康のとりなしや秀吉の死もあって、1599年に五大老の命によって筑前の旧領に復帰する。関ヶ原の戦い後は備前岡山五十万石余を与えられるが、二年後に子のないまま死去、関ヶ原の戦い以降では初の無嗣改易となった。
蒲生秀行 【がもうひでゆき】 1583-1612
1598年、御家騒動、陸奥会津九十二万石→下野宇都宮十二万石
蒲生氏郷の子。母冬姫は信長の娘。正室は家康の娘振姫。父氏郷が四十歳で死去したため、秀行が家督を継いだがわずか十三歳の若さであった。父に比べて凡庸とされ、家中統制がうまくいかず、重臣間の対立を招くという(蒲生騒動)。秀吉とすれば、東北や関東の抑えとして氏郷に代わる大名を入れようと考えたと思われる。結果的には、秀行の後の会津には越後から上杉景勝が入った。関ヶ原の戦後、東軍に属した秀行は会津に復帰し、六十万石を領した。秀行も三十歳で死去、忠郷、忠知と続いたが、いずれも早世、無嗣絶家となった。
「戦国人物紹介」
■秀吉の改易・2
以下は極力年代順に配した。
丹羽長重 【にわながしげ】 1571-1637
1585年、1587年、軍規違反、越前ほか百二十三万石→加賀松任四万石
本能寺の変後、秀吉を支持した長秀の子。1585年に長秀が死ぬと、越前・若狭・加賀二郡百二十三万石余を継いだが、莫大な所領は秀吉によって徐々に削減された。まず同年の佐々成政攻めで家臣が軍規を犯したとして越前、加賀を召し上げられ、長束正家、溝口秀勝、村上義明らの家臣を失った。これにより若狭十五万石を領する身となったが、1587年の九州攻めで再び家臣が軍規を犯したとして若狭も没収され、加賀松任四万石に移された。のち加増され加賀小松十二万石を領すが、関ヶ原の戦いで前田利長との対立から西軍に属したため改易された。1603年に常陸古渡一万石に復帰し、陸奥棚倉を経て陸奥白河十万石となった。子孫は陸奥二本松で定着、廃藩を迎えた。
仙石秀久 【せんごくひでひさ】 1552-1614
1587年、敗戦、讃岐高松十万石→改易
九州攻めの先鋒として長宗我部信親(元親の嫡子)らとともに豊後に出兵するが、戸次川の戦いで島津氏に大敗を喫して讃岐に逃げ帰る。翌年、所領を没収されて高野山に追放された。その後、家康を頼って小田原攻めに参加し、戦後、信濃小諸五万石を与えられて大名に復帰した。子孫は但馬出石で定着、廃藩を迎えた。

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『センゴク』で一躍有名なったが、事績的に大したことはない。
尾藤知宣 【びとうとものぶ】 ?-1590
1587年、軍務怠慢、讃岐丸亀五万石→改易
知定などとも。秀吉の早くからの家臣。長浜時代から仕え、黄母衣衆、大母衣衆を務める。九州攻めの日向根白坂の戦いで宮部継潤を救援しなかった責任を問われて所領を没収された。その後、伊勢の朝熊山に潜伏し、小田原攻め後に下総古河で秀吉の前に剃髪して現れ許しを請うたが容れられず、下野那須で殺されたという。
高山重友 【たかやましげとも】 1552-1615
1587年、改宗拒否、播磨明石(船上)六万石→改易
通称は右近。もっとも有名なキリシタン大名の一人。茶人としても知られ、利休七哲の一人でもある。もと荒木村重に仕えて摂津高槻城主。本能寺の変後は秀吉に味方し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに従軍。秀吉が伴天連(バテレン)追放令を出すと、所領を捨てて(あるいは所領を没収されて)、小西行長、ついで前田利家を頼って加賀に赴いた。1614年の禁教令によりマニラに追放されて同地で病死。

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前田家に赴いてからは、高岡城の縄張りなどを行ったとされており、文化的にはマルチな人。
佐々成政 【さっさなりまさ】 1539-88
1587年、一揆発生、肥後三十万石余→改易
内蔵助。いずれ「戦国人物紹介」で取り上げるので詳述しないが、鉄砲を率いた成政の部隊は当時世界最強と評してよい。またアルピニストとしても知られる。北陸方面の軍団長となった柴田勝家に従って越中富山を領した。小牧長久手の戦いでは家康方に味方して前田利家の末森城を攻めたため、翌年秀吉の攻撃を受けて降伏。九州攻め後は肥後一国を与えられるが、国人の一揆が発生。独力では鎮圧できず、失政を譴責されて、翌年、摂津尼崎の法園寺で切腹させられた。

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『花の慶次』で登場した哀愁のあるオヤジ成政が好きです。
■秀吉の改易・2
以下は極力年代順に配した。
丹羽長重 【にわながしげ】 1571-1637
1585年、1587年、軍規違反、越前ほか百二十三万石→加賀松任四万石
本能寺の変後、秀吉を支持した長秀の子。1585年に長秀が死ぬと、越前・若狭・加賀二郡百二十三万石余を継いだが、莫大な所領は秀吉によって徐々に削減された。まず同年の佐々成政攻めで家臣が軍規を犯したとして越前、加賀を召し上げられ、長束正家、溝口秀勝、村上義明らの家臣を失った。これにより若狭十五万石を領する身となったが、1587年の九州攻めで再び家臣が軍規を犯したとして若狭も没収され、加賀松任四万石に移された。のち加増され加賀小松十二万石を領すが、関ヶ原の戦いで前田利長との対立から西軍に属したため改易された。1603年に常陸古渡一万石に復帰し、陸奥棚倉を経て陸奥白河十万石となった。子孫は陸奥二本松で定着、廃藩を迎えた。
仙石秀久 【せんごくひでひさ】 1552-1614
1587年、敗戦、讃岐高松十万石→改易
九州攻めの先鋒として長宗我部信親(元親の嫡子)らとともに豊後に出兵するが、戸次川の戦いで島津氏に大敗を喫して讃岐に逃げ帰る。翌年、所領を没収されて高野山に追放された。その後、家康を頼って小田原攻めに参加し、戦後、信濃小諸五万石を与えられて大名に復帰した。子孫は但馬出石で定着、廃藩を迎えた。
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『センゴク』で一躍有名なったが、事績的に大したことはない。
尾藤知宣 【びとうとものぶ】 ?-1590
1587年、軍務怠慢、讃岐丸亀五万石→改易
知定などとも。秀吉の早くからの家臣。長浜時代から仕え、黄母衣衆、大母衣衆を務める。九州攻めの日向根白坂の戦いで宮部継潤を救援しなかった責任を問われて所領を没収された。その後、伊勢の朝熊山に潜伏し、小田原攻め後に下総古河で秀吉の前に剃髪して現れ許しを請うたが容れられず、下野那須で殺されたという。
高山重友 【たかやましげとも】 1552-1615
1587年、改宗拒否、播磨明石(船上)六万石→改易
通称は右近。もっとも有名なキリシタン大名の一人。茶人としても知られ、利休七哲の一人でもある。もと荒木村重に仕えて摂津高槻城主。本能寺の変後は秀吉に味方し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに従軍。秀吉が伴天連(バテレン)追放令を出すと、所領を捨てて(あるいは所領を没収されて)、小西行長、ついで前田利家を頼って加賀に赴いた。1614年の禁教令によりマニラに追放されて同地で病死。
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前田家に赴いてからは、高岡城の縄張りなどを行ったとされており、文化的にはマルチな人。
佐々成政 【さっさなりまさ】 1539-88
1587年、一揆発生、肥後三十万石余→改易
内蔵助。いずれ「戦国人物紹介」で取り上げるので詳述しないが、鉄砲を率いた成政の部隊は当時世界最強と評してよい。またアルピニストとしても知られる。北陸方面の軍団長となった柴田勝家に従って越中富山を領した。小牧長久手の戦いでは家康方に味方して前田利家の末森城を攻めたため、翌年秀吉の攻撃を受けて降伏。九州攻め後は肥後一国を与えられるが、国人の一揆が発生。独力では鎮圧できず、失政を譴責されて、翌年、摂津尼崎の法園寺で切腹させられた。
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『花の慶次』で登場した哀愁のあるオヤジ成政が好きです。
「戦国人物紹介」
199 豊臣秀吉 【とよとみひでよし】
■秀吉の改易・1(全4回)
秀吉が朝鮮出兵をせず内政に専念して、徳川幕府のように改易政策を取ったらどうなっていたか、豊臣政権の強化が図れたか、という見方(「たられば」の話だが)がある。もちろん、当時の国内状況からすれば、天下統一のために働いた兵士に明日から農民に戻れと言うのは困難であるから、対外出兵しないという仮定自体が難しいだろう。
政策として存在していたか、組織として行っていたか、というところには疑問符がつくが、秀吉も徳川幕府ほどではないが、いくつかの大名に対して改易や転封(移封)、減封などを行っている。味方した大名をすべてそのままにしておいたわけではない。九州攻めにおける島津氏や小田原攻めにおける北条氏など、戦後処理で改易、減封された大名、および豊臣秀次や秀次に連座した大名、大和大納言家(秀長の系統)など身内に対するものを除けば以下の通りである。代表的なものを取り上げた。
※名前の下は順に、処分があった年、処分内容、所領の変動
徳川家康 【とくがわいえやす】 1542-1616
1590年、加転封、三河ほか百五十万石→武蔵ほか二百五十万石
純粋に加増と見なす見方もあり、処罰的なものではない。しかし、家康の家臣の大半が代々所有してきた土地からの移封に反対だったこと、北条氏の遺風が残る関東は治めるのに難しいと思われたこと(北条氏の年貢は四公六民と低く、徳川幕府になっても吉宗の代まで改めることができなかったという)、また、秀吉が家康を中央から遠ざけようとしたのではないかという説もあることなどから、単純な加増とは見ない向きも少なくない。ただ、家康自身は転封で家臣の在地性を断ち切ることができ、直轄地も増やすことができたことから、内心は乗り気だったという説もある。同様の見方は上杉景勝(越後から会津への加増転封)についてもできる。
織田信雄 【おだのぶかつ】 1558-1630
1590年、転封拒否、尾張ほか百万石→改易
信長の二男だが、父に似ぬ暗愚な人物と言われる。本能寺の変の時は伊勢にいたが、近江までしか軍を進められず、父の弔い合戦には参加できなかった。その後は清洲会議で弟信孝と織田家の後継を巡って対立するが、信長の嫡孫三法師を擁する秀吉の台頭を招く。尾張、伊賀、伊勢で約百万石を領し、信孝は葬ったが、秀吉と対立するに至り、家康と結んで小牧長久手の戦いとなる。自分から家康を誘っておきながら、秀吉との対陣が長引くと自分だけ単独で講和してしまい、家康を憤慨させた。小田原攻めの後、家康の旧領である三河、遠江、駿河、信濃、甲斐五国、約百五十万石への転封を拒否したため、秀吉の怒りを買って下野烏山に配流された。家康の例でもわかるが、加増されたとしても、先祖伝来の土地を離れるのには抵抗があったようである。また、秀吉から領地を賜れば、完全に秀吉に家臣化されてしまうことも国替えを拒否した理由の一つであろう。
199 豊臣秀吉 【とよとみひでよし】
■秀吉の改易・1(全4回)
秀吉が朝鮮出兵をせず内政に専念して、徳川幕府のように改易政策を取ったらどうなっていたか、豊臣政権の強化が図れたか、という見方(「たられば」の話だが)がある。もちろん、当時の国内状況からすれば、天下統一のために働いた兵士に明日から農民に戻れと言うのは困難であるから、対外出兵しないという仮定自体が難しいだろう。
政策として存在していたか、組織として行っていたか、というところには疑問符がつくが、秀吉も徳川幕府ほどではないが、いくつかの大名に対して改易や転封(移封)、減封などを行っている。味方した大名をすべてそのままにしておいたわけではない。九州攻めにおける島津氏や小田原攻めにおける北条氏など、戦後処理で改易、減封された大名、および豊臣秀次や秀次に連座した大名、大和大納言家(秀長の系統)など身内に対するものを除けば以下の通りである。代表的なものを取り上げた。
※名前の下は順に、処分があった年、処分内容、所領の変動
徳川家康 【とくがわいえやす】 1542-1616
1590年、加転封、三河ほか百五十万石→武蔵ほか二百五十万石
純粋に加増と見なす見方もあり、処罰的なものではない。しかし、家康の家臣の大半が代々所有してきた土地からの移封に反対だったこと、北条氏の遺風が残る関東は治めるのに難しいと思われたこと(北条氏の年貢は四公六民と低く、徳川幕府になっても吉宗の代まで改めることができなかったという)、また、秀吉が家康を中央から遠ざけようとしたのではないかという説もあることなどから、単純な加増とは見ない向きも少なくない。ただ、家康自身は転封で家臣の在地性を断ち切ることができ、直轄地も増やすことができたことから、内心は乗り気だったという説もある。同様の見方は上杉景勝(越後から会津への加増転封)についてもできる。
織田信雄 【おだのぶかつ】 1558-1630
1590年、転封拒否、尾張ほか百万石→改易
信長の二男だが、父に似ぬ暗愚な人物と言われる。本能寺の変の時は伊勢にいたが、近江までしか軍を進められず、父の弔い合戦には参加できなかった。その後は清洲会議で弟信孝と織田家の後継を巡って対立するが、信長の嫡孫三法師を擁する秀吉の台頭を招く。尾張、伊賀、伊勢で約百万石を領し、信孝は葬ったが、秀吉と対立するに至り、家康と結んで小牧長久手の戦いとなる。自分から家康を誘っておきながら、秀吉との対陣が長引くと自分だけ単独で講和してしまい、家康を憤慨させた。小田原攻めの後、家康の旧領である三河、遠江、駿河、信濃、甲斐五国、約百五十万石への転封を拒否したため、秀吉の怒りを買って下野烏山に配流された。家康の例でもわかるが、加増されたとしても、先祖伝来の土地を離れるのには抵抗があったようである。また、秀吉から領地を賜れば、完全に秀吉に家臣化されてしまうことも国替えを拒否した理由の一つであろう。