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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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神保雪(雪子)ね…。当然出るよね。


綾野剛の松平容保は相変わらずいいですね。

孝明天皇は随分と容保のことを信任しておられて、

のちの八月十八日の政変で長州藩の勢力を排除した働きを認めて、

宸翰(しんかん、天皇自筆の文書)と御製(ぎょせい、和歌)を与えられました。

容保はこれを竹筒に入れ、死ぬまで誰にも見せることはありませんでした。

孝明天皇の死後、朝敵とされて討伐を受けるとは、さぞ無念であったでしょう。


宸翰と御製を誰にも見せず、会津戦争のことも語ることはなかった

容保の秘めた思いというか、覚悟といいますかね、

そういうものに心を揺さぶられますね。


孝明天皇は公武合体的な姿勢を持ち続けますが、

「尊王討幕」の中心である天皇自身が幕府との協調を志向しているのですから、

討幕派には次第に天皇自身の存在が邪魔なものとなります。

1866年に三十代の若さで亡くなりますが、いまもなお毒殺説があります。
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1862年、薩摩藩主島津忠義の父久光は兵を率いて上洛し、朝廷の威光を背景に幕府に幕政の改革を迫った。これがいわゆる文久の改革である。
 
これにより人事では一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政治総裁職になった。また京都所司代とは別に京都守護職を新たに置き、松平容保をこの任に当てた。江戸時代には「守護」はなくなったため、守護職という名称は違和感がないではない(ただし、読みは室町時代の「しゅごしき」ではなく「しゅごしょく」である)
 
春嶽が会津の家訓を持ち出して守護職就任を迫ったのが事実かどうかは知らないが、会津藩には反対するものが多く、容保が家訓を持ち出したため、家臣たちも折れたという。
 
西田敏行(西郷頼母)が最後まで反対していたけど、これは後々の伏線かな。

ついに会津藩が中央の政争に巻き込まれていきます。そしてこれが幕末の悲劇へとつながっていくのです。

「たら、れば」の話になれば、ここで京都守護職就任を断っていれば、という話になるんだろうけど、御三家は除いて、御家門(徳川家の一族)で京都守護職を任せるだけの家柄と石高、そして兵力を持っている家というのは、それこそ越前(福井藩)と会津くらいしかいないんだよね。越前は春嶽が政治総裁職になっちゃうから、あと残るは容保しかいない。

すでに北方警備にお台場の警備など、ある意味都合のいいように使われていた会津では、主従が「これで会津藩は滅ぶ」と泣いたというが、京都守護職就任は会津が本当に滅びる寸前まで行ってしまうきっかけとなる。
仕事が忙しすぎると、仕事中に歴史の話なんか書けませんし、

仕事がヒマ過ぎても、仕事中に歴史の話を書く気は起きません。

適度に忙しいと、合間を縫って、現実逃避でもするかのように、

試験中に部屋の掃除でもするかのように、

歴史の話を書くのがはかどります。


書き方はいろいろあると書きましたが、

調べながら書くんじゃなくて、

先に記憶に基づいて、わーっと書いて、

後から裏を取るような書き方の方が、

書いていて楽しいんですよね。

前半は覚馬の奥さんに関する悲しい話。みんなのやさしさが嬉しい。
 
小栗旬が石田三成役で私の義を唱えたと思ったら、吉田松陰役で公の義を説くのは皮肉かな。
 
至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり(吉田松陰)
 
享年三十。

来週は容保の見せ場が。
第二次世界大戦後のフランスで、

大戦中にドイツに協力した女性たちの頭を丸刈りにしてさらした話があるけど、

それを連想させて不快。
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