兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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正式サービス開始してからじゃないと、課金サービス開始しちゃダメなの?
「戦国IXA」のレビューのいくつかを見ながら思いましたが。
もちろん、サービスが整わないうちに、早くも課金ですか、
そこまでお金欲しいですか、というのはわかりますが。
ベータテスト中で、データが引き継がれるかどうかわからなくても、
課金する人は自己責任で課金するわけで。
そこを、「いつから正式サービスになったかわからない」って、
別に、ゲームの内容からすれば些細なことではないでしょうか。
ユーザーが本筋を見ていないから、
ゲームもよくわからないところを彷徨うのではないでしょうか。
「戦国IXA」のレビューのいくつかを見ながら思いましたが。
もちろん、サービスが整わないうちに、早くも課金ですか、
そこまでお金欲しいですか、というのはわかりますが。
ベータテスト中で、データが引き継がれるかどうかわからなくても、
課金する人は自己責任で課金するわけで。
そこを、「いつから正式サービスになったかわからない」って、
別に、ゲームの内容からすれば些細なことではないでしょうか。
ユーザーが本筋を見ていないから、
ゲームもよくわからないところを彷徨うのではないでしょうか。
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レビューを見ていると、「戦国IXA」に対する評価が辛め。
どんなゲームでも、とは言いませんし、言えませんが、
与えられた場でどう遊ぼうとするかってのが大事じゃないかなあ。
無課金の私でも最古参の1+2鯖で楽しんでるんですもん。
的外れな批判が多いように感じました。
その点、「君○」はいろいろ遊ばせてくれたと思います。
政治っぽいものもありましたし、経済っぽいものもありました。
製造経験値上げのために作った斬鉄を売って、
売ったお金で材料買って、また斬鉄を作ってましたね。
実はほとんど狩りしてませんでした。
製造は博打要素の強いものよりも、こつこつ積み上げていく方が、
プレイヤーは長く続けられると思います。
その先にどんなに強い装備があったとしても、
思い入れのある装備が壊れてしまうのでは心が折れます。
(「君○」も祝福を入れないと壊れる可能性があったけどね)
どんなゲームでも、とは言いませんし、言えませんが、
与えられた場でどう遊ぼうとするかってのが大事じゃないかなあ。
無課金の私でも最古参の1+2鯖で楽しんでるんですもん。
的外れな批判が多いように感じました。
その点、「君○」はいろいろ遊ばせてくれたと思います。
政治っぽいものもありましたし、経済っぽいものもありました。
製造経験値上げのために作った斬鉄を売って、
売ったお金で材料買って、また斬鉄を作ってましたね。
実はほとんど狩りしてませんでした。
製造は博打要素の強いものよりも、こつこつ積み上げていく方が、
プレイヤーは長く続けられると思います。
その先にどんなに強い装備があったとしても、
思い入れのある装備が壊れてしまうのでは心が折れます。
(「君○」も祝福を入れないと壊れる可能性があったけどね)
いまは「戦国IXA」しかやっていません。
「くろネコONLINE」は混み混みで重くて断念。
ずーっと上っていくのに疲れました。
「君○online」じゃない「君○online」みたいなオンラインRPGやりたいなあ。
今週OBT開始のRPGをやってみようかなと思っています。
来月試験ですけども・・・まあ、息抜き程度にw
もしかしたらマシンのパフォーマンスが厳しいかなあ。
課金しなくても遊ばせてくれて、課金したいと思わせるようなバランスでぜひ。
オンラインゲームのレビューをまとめているサイトを見ていると、
世の中にはひどいゲームしかないんじゃないかと思えてきますw
「くろネコONLINE」は混み混みで重くて断念。
ずーっと上っていくのに疲れました。
「君○online」じゃない「君○online」みたいなオンラインRPGやりたいなあ。
今週OBT開始のRPGをやってみようかなと思っています。
来月試験ですけども・・・まあ、息抜き程度にw
もしかしたらマシンのパフォーマンスが厳しいかなあ。
課金しなくても遊ばせてくれて、課金したいと思わせるようなバランスでぜひ。
オンラインゲームのレビューをまとめているサイトを見ていると、
世の中にはひどいゲームしかないんじゃないかと思えてきますw
長門裕之について私が語るのはおこがましいのですが、印象に残っている話だけ。
思い出深いのは、NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」の徳川光圀役(1995年)
弟の津川雅彦(綱吉役)と共演した時ですね。
「兄弟で出てるやん」と感動したものです。
最近の話かと思ったら、もう15年も前の話ですね。
ぱらぱらっとネットを見ていると、今村昌平監督の「にあんちゃん」(1959年)で
ブルーリボン賞(主演男優賞)を取っていることを知りましたが、
これの脚本が池田一朗なんだよねえ。
「花の慶次」の原作『一夢庵風流記』を書いた、隆慶一郎と書いた方がわかりやすいでしょうか。
(池田一朗が本名)
ご冥福をお祈りいたします。
思い出深いのは、NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」の徳川光圀役(1995年)
弟の津川雅彦(綱吉役)と共演した時ですね。
「兄弟で出てるやん」と感動したものです。
最近の話かと思ったら、もう15年も前の話ですね。
ぱらぱらっとネットを見ていると、今村昌平監督の「にあんちゃん」(1959年)で
ブルーリボン賞(主演男優賞)を取っていることを知りましたが、
これの脚本が池田一朗なんだよねえ。
「花の慶次」の原作『一夢庵風流記』を書いた、隆慶一郎と書いた方がわかりやすいでしょうか。
(池田一朗が本名)
ご冥福をお祈りいたします。
「戦国人物紹介」外伝
「羽柴」の名乗りについての考察・5
秀吉が名乗った「羽柴」については丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ取った、という話を(みなさんが知っていることを)前提にしていますが、この話を疑ってみようと長い前振りをしているわけです。先に下の名前をもらう例を見てきましたが、上の名前をもらう例は極めてまれです。
主君の名字を称することを許される(賜る)例はあります。姫路城の築城(改修)で知られる池田輝政(初名は照政)は秀吉から厚遇され羽柴姓や豊臣姓を許されましたし、家康からも松平姓を許されました。具体的には三河吉田を領していたときには、「羽柴吉田侍従」などと通称されましたが、羽柴姓を賜った(許された)だけで、池田姓から改姓したわけではありません。秀吉や家康も、自分の姓を与えて家臣化、差別化を図っただけのことです。
※本来、「姓」と「名字(苗字)」は別のものだが、話が難しくなるので、ここではあえて区別していない。
それでは他人の名字をもらって、そのまま自分の名字にした例はないのかと言えば、ないことはありません。以下に二つ掲げます。
後北条氏(小田原北条氏)
鎌倉幕府の執権を務めた北条氏も、室町幕府の執事を務めた伊勢氏も平氏を称したので、遠い親戚ではありますが、先祖、子孫の関係にはなく、その点では無関係であるのに、他人の名字を称した(冒した)例がこの後北条氏(ごほうじょうし)です。後北条氏というのは鎌倉時代の北条氏と区別して呼んでいるだけで、当時、「後北条氏康」などと名乗ったわけではありません。
近年、伊勢宗瑞(いわゆる「北条早雲」)の下剋上については、一介の素浪人説は否定され、今川家や中央の幕府との連動も指摘されています。また、北条氏を称したのは宗瑞の子氏綱(氏康の父)からとされています。関東で勢力を扶植させるには「伊勢氏」よりも「北条氏」の方が都合がよかったのでしょう。なお、そもそもの「北条」の名は伊豆田方郡北条郷の地名に由来します。
※中先代の乱を起こした北条時行(高時の子)の子孫と早雲が縁組して北条氏を称したという説もあるが、後世の創作と思われ、疑わしい。
松前氏
蝦夷地にいるマゾプレイヤー御用達の戦国大名。もとは武田氏の子孫を称する蠣崎(かきざき)という名字でしたが、1599年、慶広のときに松前氏を称しました。このときの逸話が豊臣政権の二大巨頭であった松平の「松」と前田の「前」を取って「松前」としたというものです。しかし、慶広が松前氏を称する以前から蝦夷地の「松前」という地を本拠としており、地名に由来すると考えた方が自然です。徳川家康と前田利家から一字ずつ取ったというのは後付けの話と思われます(本人や子孫がこじつけた可能性も否定できませんが)。なぜ「徳前」でないのでしょうか。
他に、秀吉により改姓させられた話が残るのが、伊達家に仕えた鬼庭綱元。もともと先祖は茂庭姓でしたが、大蛇を退治して鬼庭に改めたと伝えられています。秀吉からは「鬼が庭にいるのは縁起がよくない」として元の茂庭に戻されたと言います。ただ、これなどは、いずれ地名の改名の話をしますが、「浮田」が「宇喜多」になったように、縁起の悪い字を縁起のいい字(佳字)に改める例に近いかもしれません。
現在では、裁判所でも改姓はなかなか認められませんが、縁起のいい字への改名はスポーツ選手などでもたまにありますよね。
「羽柴」の名乗りについての考察・5
秀吉が名乗った「羽柴」については丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ取った、という話を(みなさんが知っていることを)前提にしていますが、この話を疑ってみようと長い前振りをしているわけです。先に下の名前をもらう例を見てきましたが、上の名前をもらう例は極めてまれです。
主君の名字を称することを許される(賜る)例はあります。姫路城の築城(改修)で知られる池田輝政(初名は照政)は秀吉から厚遇され羽柴姓や豊臣姓を許されましたし、家康からも松平姓を許されました。具体的には三河吉田を領していたときには、「羽柴吉田侍従」などと通称されましたが、羽柴姓を賜った(許された)だけで、池田姓から改姓したわけではありません。秀吉や家康も、自分の姓を与えて家臣化、差別化を図っただけのことです。
※本来、「姓」と「名字(苗字)」は別のものだが、話が難しくなるので、ここではあえて区別していない。
それでは他人の名字をもらって、そのまま自分の名字にした例はないのかと言えば、ないことはありません。以下に二つ掲げます。
後北条氏(小田原北条氏)
鎌倉幕府の執権を務めた北条氏も、室町幕府の執事を務めた伊勢氏も平氏を称したので、遠い親戚ではありますが、先祖、子孫の関係にはなく、その点では無関係であるのに、他人の名字を称した(冒した)例がこの後北条氏(ごほうじょうし)です。後北条氏というのは鎌倉時代の北条氏と区別して呼んでいるだけで、当時、「後北条氏康」などと名乗ったわけではありません。
近年、伊勢宗瑞(いわゆる「北条早雲」)の下剋上については、一介の素浪人説は否定され、今川家や中央の幕府との連動も指摘されています。また、北条氏を称したのは宗瑞の子氏綱(氏康の父)からとされています。関東で勢力を扶植させるには「伊勢氏」よりも「北条氏」の方が都合がよかったのでしょう。なお、そもそもの「北条」の名は伊豆田方郡北条郷の地名に由来します。
※中先代の乱を起こした北条時行(高時の子)の子孫と早雲が縁組して北条氏を称したという説もあるが、後世の創作と思われ、疑わしい。
松前氏
蝦夷地にいるマゾプレイヤー御用達の戦国大名。もとは武田氏の子孫を称する蠣崎(かきざき)という名字でしたが、1599年、慶広のときに松前氏を称しました。このときの逸話が豊臣政権の二大巨頭であった松平の「松」と前田の「前」を取って「松前」としたというものです。しかし、慶広が松前氏を称する以前から蝦夷地の「松前」という地を本拠としており、地名に由来すると考えた方が自然です。徳川家康と前田利家から一字ずつ取ったというのは後付けの話と思われます(本人や子孫がこじつけた可能性も否定できませんが)。なぜ「徳前」でないのでしょうか。
他に、秀吉により改姓させられた話が残るのが、伊達家に仕えた鬼庭綱元。もともと先祖は茂庭姓でしたが、大蛇を退治して鬼庭に改めたと伝えられています。秀吉からは「鬼が庭にいるのは縁起がよくない」として元の茂庭に戻されたと言います。ただ、これなどは、いずれ地名の改名の話をしますが、「浮田」が「宇喜多」になったように、縁起の悪い字を縁起のいい字(佳字)に改める例に近いかもしれません。
現在では、裁判所でも改姓はなかなか認められませんが、縁起のいい字への改名はスポーツ選手などでもたまにありますよね。