兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
地名の話(改題)
たまに世界史の話から入りますが、地名の移り変わりの話をするときによく出てくるのが、トルコのイスタンブールです。かつてはコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)、そのまた昔はビザンティオンと呼ばれていました。
紀元前にビュザンタスという王の名からビザンティオンと名付けられたという説が一般的ですが、その後、ローマ帝国に征服されると、コンスタンティヌス帝にちなんでコンスタンティノポリスと呼ばれるようになりました。ちなみに、ビザンティオンの名も、東ローマ帝国の別名である「ビザンツ帝国」にその名を残すことになります。1453年、オスマン帝国によって、ビザンツ帝国の首都であったコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国が滅亡すると、オスマン語で「コンスタンティーニーイェ」と呼ばれ、のちにイスタンブールと呼ばれるようになります(一説にギリシャ語の「都市に」「都市の中の都市」に由来するとされています)。支配者が替われば、地名も替わるという一つの例です。
地名と人名の話をするときに出てくるのが、マケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス大王)。征服地に自分の名前を付けた都市を建設したことで知られ、中でもエジプトのアレクサンドリアは有名です。ほかにも複数の「アレクサンドリア」があったことが知られていますが、同名のため「アレクサンドリア・アラコシオルム(アラコシアのアレクサンドリア)」などと呼び分けていたようです。
もう一つ。ロシアの都市にサンクトペテルブルクがありますが、これはピョートル大帝にちなみます(正確には大帝と同名であった聖ペテロにちなむ)。この読みはドイツ語風ですが、第一次世界大戦でロシアとドイツが交戦すると、ロシア語風にペトログラードと改名し、ソ連時代にはレーニンにちなんでレニングラードと改めました。レニングラードの方がなじみがあるという人も少なくないかもしれせん。ソ連崩壊後は、住民投票によって帝政ロシア時代の旧名に戻りました。ちなみに英語圏では「セントピーターズバーグ」と呼ばれます。
征服者、開拓者としての性格が強いと、人名から地名を付ける例が多くなりますが、日本の場合は、圧倒的に地名から人名(苗字)を付ける例が多くなります。それは領主として自分の支配地から名前を取ったことに由来するのですが、少なくとも近世以前で逆の例、地名に人名を付ける例はきわめてまれです。信長の場合は「今浜」から「長浜」の改名が例外ですが(秀吉の事績と言った方がいいかもしれない)、各地の大名を倒して、そこに信長の名を取った都市を建設するなどといったことはありませんでした。
本拠地を通称とする(通称として呼ばれる)例も多いですね。平清盛は六波羅殿、源頼朝は鎌倉殿とも呼ばれました。これは改名したわけではなく、敬称、尊称として、場所を呼び名にしたものですが、人名や役職を地名や建物の名称で呼ぶことは日本に限らず、世界にも例を見ることができます。「プリンス・オブ・ウェールズ」と言えば、もとは「ウェールズ公」くらいの意味ですが、現在ではイギリスの(第一)王位継承者のことを指します。また、「ホワイトハウス」と言えば、アメリカの政権を指す場合があることは誰でも知っていることだと思います。
フランス大統領シャルル・ド・ゴールの名を取った「シャルル・ド・ゴール空港」は有名ですし、この人の名前は空母にも使われています。欧米では人名を艦船名に使うことはよくあることで、数え上げるときりがないのですが、日本の場合は「大和」や「武蔵」など旧国名や山、川の名前をつけることがほとんどで、現在でも船舶名に人名を付けることはまれです。そういえば、「プリンス・オブ・ウェールズ」という戦艦もありました。第二次世界大戦で日本の航空機の攻撃を受けて沈没し、イギリス首相チャーチルに大きな衝撃を与えています。
いまでこそ、市町村合併でまったく新しい地名が創造されることも少なくないのですが、こうやって見ていくと、どうも日本の場合は人名から地名を付けることはタブー視されていたというか、そもそも地名を変えること自体タブー視されていたように思えます(「大坂」→「大阪」、「得川」→「徳川」のように字を変えることは地名でも人名でもある)。怨霊信仰や言霊(ことだま)といった考え方の影響なのか、よくわかりませんが、日本人の名前に対する意識を表している事例の一つと思います。
「岐阜」って信長の命名じゃなかったっけ、ということで、次回は信長とその後継者たちの事例を中心に見ていきましょう。
たまに世界史の話から入りますが、地名の移り変わりの話をするときによく出てくるのが、トルコのイスタンブールです。かつてはコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)、そのまた昔はビザンティオンと呼ばれていました。
紀元前にビュザンタスという王の名からビザンティオンと名付けられたという説が一般的ですが、その後、ローマ帝国に征服されると、コンスタンティヌス帝にちなんでコンスタンティノポリスと呼ばれるようになりました。ちなみに、ビザンティオンの名も、東ローマ帝国の別名である「ビザンツ帝国」にその名を残すことになります。1453年、オスマン帝国によって、ビザンツ帝国の首都であったコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国が滅亡すると、オスマン語で「コンスタンティーニーイェ」と呼ばれ、のちにイスタンブールと呼ばれるようになります(一説にギリシャ語の「都市に」「都市の中の都市」に由来するとされています)。支配者が替われば、地名も替わるという一つの例です。
地名と人名の話をするときに出てくるのが、マケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス大王)。征服地に自分の名前を付けた都市を建設したことで知られ、中でもエジプトのアレクサンドリアは有名です。ほかにも複数の「アレクサンドリア」があったことが知られていますが、同名のため「アレクサンドリア・アラコシオルム(アラコシアのアレクサンドリア)」などと呼び分けていたようです。
もう一つ。ロシアの都市にサンクトペテルブルクがありますが、これはピョートル大帝にちなみます(正確には大帝と同名であった聖ペテロにちなむ)。この読みはドイツ語風ですが、第一次世界大戦でロシアとドイツが交戦すると、ロシア語風にペトログラードと改名し、ソ連時代にはレーニンにちなんでレニングラードと改めました。レニングラードの方がなじみがあるという人も少なくないかもしれせん。ソ連崩壊後は、住民投票によって帝政ロシア時代の旧名に戻りました。ちなみに英語圏では「セントピーターズバーグ」と呼ばれます。
征服者、開拓者としての性格が強いと、人名から地名を付ける例が多くなりますが、日本の場合は、圧倒的に地名から人名(苗字)を付ける例が多くなります。それは領主として自分の支配地から名前を取ったことに由来するのですが、少なくとも近世以前で逆の例、地名に人名を付ける例はきわめてまれです。信長の場合は「今浜」から「長浜」の改名が例外ですが(秀吉の事績と言った方がいいかもしれない)、各地の大名を倒して、そこに信長の名を取った都市を建設するなどといったことはありませんでした。
本拠地を通称とする(通称として呼ばれる)例も多いですね。平清盛は六波羅殿、源頼朝は鎌倉殿とも呼ばれました。これは改名したわけではなく、敬称、尊称として、場所を呼び名にしたものですが、人名や役職を地名や建物の名称で呼ぶことは日本に限らず、世界にも例を見ることができます。「プリンス・オブ・ウェールズ」と言えば、もとは「ウェールズ公」くらいの意味ですが、現在ではイギリスの(第一)王位継承者のことを指します。また、「ホワイトハウス」と言えば、アメリカの政権を指す場合があることは誰でも知っていることだと思います。
フランス大統領シャルル・ド・ゴールの名を取った「シャルル・ド・ゴール空港」は有名ですし、この人の名前は空母にも使われています。欧米では人名を艦船名に使うことはよくあることで、数え上げるときりがないのですが、日本の場合は「大和」や「武蔵」など旧国名や山、川の名前をつけることがほとんどで、現在でも船舶名に人名を付けることはまれです。そういえば、「プリンス・オブ・ウェールズ」という戦艦もありました。第二次世界大戦で日本の航空機の攻撃を受けて沈没し、イギリス首相チャーチルに大きな衝撃を与えています。
いまでこそ、市町村合併でまったく新しい地名が創造されることも少なくないのですが、こうやって見ていくと、どうも日本の場合は人名から地名を付けることはタブー視されていたというか、そもそも地名を変えること自体タブー視されていたように思えます(「大坂」→「大阪」、「得川」→「徳川」のように字を変えることは地名でも人名でもある)。怨霊信仰や言霊(ことだま)といった考え方の影響なのか、よくわかりませんが、日本人の名前に対する意識を表している事例の一つと思います。
「岐阜」って信長の命名じゃなかったっけ、ということで、次回は信長とその後継者たちの事例を中心に見ていきましょう。
PR
通販の例のアレは水曜に注文して、金曜に確定して即日発送。
いつも使っているお店では在庫切れだったので
(そしてこの手の商品に限って再入荷されることはまずない)、
ネットであちこち探してたどり着きましたが、このお店には在庫があったのが不思議。
ネットではよくわかりませんが、大手なのかなあ。
試験勉強の話。
過去問題集を解いているのですが、毎年受けては受からないので、
過去に問題を見た記憶があるんですね(当たり前)
一定の範囲からしか、要するに同様の問題しか、出題されないのですが、
それがいつまでたっても受からないというのは問題ですよね。
とはいえ、年々脳みそは衰えていくので、そろそろ限界が・・・。
出る問題がわかっているのに、受からないのはどうなのか、ということです。
いつも使っているお店では在庫切れだったので
(そしてこの手の商品に限って再入荷されることはまずない)、
ネットであちこち探してたどり着きましたが、このお店には在庫があったのが不思議。
ネットではよくわかりませんが、大手なのかなあ。
試験勉強の話。
過去問題集を解いているのですが、毎年受けては受からないので、
過去に問題を見た記憶があるんですね(当たり前)
一定の範囲からしか、要するに同様の問題しか、出題されないのですが、
それがいつまでたっても受からないというのは問題ですよね。
とはいえ、年々脳みそは衰えていくので、そろそろ限界が・・・。
出る問題がわかっているのに、受からないのはどうなのか、ということです。
土壇場で出てきた「退陣表明」。
目処が立つのはいつになるんでしょうか。
そしてこの延命のつけは誰が払うことになるのでしょうか。
やるやると言って一向にやらないやるやる詐欺から、
辞める辞めると言って一向にやらない辞める辞める詐欺になるのかね。
能力のないトップは早くその座から降りていただきたい。
目処が立つのはいつになるんでしょうか。
そしてこの延命のつけは誰が払うことになるのでしょうか。
やるやると言って一向にやらないやるやる詐欺から、
辞める辞めると言って一向にやらない辞める辞める詐欺になるのかね。
能力のないトップは早くその座から降りていただきたい。
「戦国人物紹介」外伝
「羽柴」の名乗りについての考察・6(最終回)
ここでようやく秀吉の話になりますが、主君でもなく、かつ二人から一字ずつ名字をもらって自分の名字にしたというのは秀吉以外に聞いたことがありません(「松前」の例はあやしい)
丹羽長秀は織田家の重臣か
秀吉が「羽柴」と改めたのは1573年のことで、当時織田家の重臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつを取ったと言われています。柴田は信長の上洛(1568年)以降重く用いられ、いわゆる軍団長(方面司令官)とされたのも佐久間信盛(のちに本願寺攻めで成果を上げられず、信長から延々十九ヶ条にも渡る折檻状をもらって追放される)と並んで早い部類に入ります。
一方の丹羽は美濃攻めに功績があり、上洛後も京の行政に携わりますが、以後、少なくとも軍事的には目立った武功を挙げることはなく、軍団長になることもありませんでした(ただし、丹羽は安土城普請などの奉行職をそつなくこなし、信長からの信頼を受けていました)。本能寺の変の直前に準備された四国攻めでも織田信孝(信長の三男)の副将の一人に過ぎません。本能寺の変の際は堺にいましたが、四国攻めの軍が四散してしまい、東上してきた秀吉の軍に加わり、山崎の戦いに参加しました。その後、清洲会議に参加したことから織田家重臣と見なされることが多いのですが、それまでの経歴を考えると過大評価というものです。
「丹羽」の下と「柴田」の上を組み合わせた不思議
もちろん、丹羽が重臣である必要はなく、秀吉と仲が良かったので、一字をもらったという見方も成り立ちます。しかし、それでは重臣筆頭とも言える柴田の立場がありません。二人から一字ずつもらった話は、丹羽とともに柴田を立てた(柴田に媚びた)という内容になっていますが、この話、柴田にしてみれば、「丹羽」の下の字を上に、「柴田」の上の字を下にされたのですから、自分より格下である丹羽の下に置かれたわけです。いままで名前をもらう例を見てきましたが、それからしても納得がいかないでしょう。そして秀吉にしてみれば、あえて柴田の不興を買ってまで元の名字から変える意味がありません。ですが、秀吉が「羽柴」を称したのは歴史的な事実です。どう考えたらいいのでしょうか。
字を替えた可能性
もしかしたら地名に由来するのかとも考えてみましたが、少なくとも「羽柴秀吉」以前に「羽柴」という地名はなかったようです。現在、京都府伏見区に「羽柴」の名がついた地名がありますが、これは武家屋敷の名前に由来するもので、秀吉の「羽柴」が先にあったものです。読みは同じままで文字だけを変えるというのは地名でもよくあることです。「大坂」が「土に返る」を避けて「大阪」に改めたのは有名ですし、「熊本」も元は「隈本」で、「隈」の字が狭い(山に囲まれる)に通じることから、加藤清正が改めたものです。名字でも「得川」を「徳川」、「浮田」を「宇喜多」などに改めた例があります。
羽柴秀吉の前の名前は「木下藤吉郎」ですが、「木下」の姓は母方の姓とも言われ、父は名字があったかもはっきりしません。もしかすると、「羽柴」はもともと別の「ハシバ」で(おそらく「橋場」であって、橋場という地名も名字もある)、丹羽と柴田からこじつけたのではないでしょうか。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
いまも「羽柴」さんはいますが、秀吉の遠戚とは限りません。
ただ、「羽柴」という名字を秀吉が創作したことは事実のようです。
次回から通常版に戻ります。「戦国人物紹介」畿内編。
「羽柴」の名乗りについての考察・6(最終回)
ここでようやく秀吉の話になりますが、主君でもなく、かつ二人から一字ずつ名字をもらって自分の名字にしたというのは秀吉以外に聞いたことがありません(「松前」の例はあやしい)
丹羽長秀は織田家の重臣か
秀吉が「羽柴」と改めたのは1573年のことで、当時織田家の重臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつを取ったと言われています。柴田は信長の上洛(1568年)以降重く用いられ、いわゆる軍団長(方面司令官)とされたのも佐久間信盛(のちに本願寺攻めで成果を上げられず、信長から延々十九ヶ条にも渡る折檻状をもらって追放される)と並んで早い部類に入ります。
一方の丹羽は美濃攻めに功績があり、上洛後も京の行政に携わりますが、以後、少なくとも軍事的には目立った武功を挙げることはなく、軍団長になることもありませんでした(ただし、丹羽は安土城普請などの奉行職をそつなくこなし、信長からの信頼を受けていました)。本能寺の変の直前に準備された四国攻めでも織田信孝(信長の三男)の副将の一人に過ぎません。本能寺の変の際は堺にいましたが、四国攻めの軍が四散してしまい、東上してきた秀吉の軍に加わり、山崎の戦いに参加しました。その後、清洲会議に参加したことから織田家重臣と見なされることが多いのですが、それまでの経歴を考えると過大評価というものです。
「丹羽」の下と「柴田」の上を組み合わせた不思議
もちろん、丹羽が重臣である必要はなく、秀吉と仲が良かったので、一字をもらったという見方も成り立ちます。しかし、それでは重臣筆頭とも言える柴田の立場がありません。二人から一字ずつもらった話は、丹羽とともに柴田を立てた(柴田に媚びた)という内容になっていますが、この話、柴田にしてみれば、「丹羽」の下の字を上に、「柴田」の上の字を下にされたのですから、自分より格下である丹羽の下に置かれたわけです。いままで名前をもらう例を見てきましたが、それからしても納得がいかないでしょう。そして秀吉にしてみれば、あえて柴田の不興を買ってまで元の名字から変える意味がありません。ですが、秀吉が「羽柴」を称したのは歴史的な事実です。どう考えたらいいのでしょうか。
字を替えた可能性
もしかしたら地名に由来するのかとも考えてみましたが、少なくとも「羽柴秀吉」以前に「羽柴」という地名はなかったようです。現在、京都府伏見区に「羽柴」の名がついた地名がありますが、これは武家屋敷の名前に由来するもので、秀吉の「羽柴」が先にあったものです。読みは同じままで文字だけを変えるというのは地名でもよくあることです。「大坂」が「土に返る」を避けて「大阪」に改めたのは有名ですし、「熊本」も元は「隈本」で、「隈」の字が狭い(山に囲まれる)に通じることから、加藤清正が改めたものです。名字でも「得川」を「徳川」、「浮田」を「宇喜多」などに改めた例があります。
羽柴秀吉の前の名前は「木下藤吉郎」ですが、「木下」の姓は母方の姓とも言われ、父は名字があったかもはっきりしません。もしかすると、「羽柴」はもともと別の「ハシバ」で(おそらく「橋場」であって、橋場という地名も名字もある)、丹羽と柴田からこじつけたのではないでしょうか。
Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
いまも「羽柴」さんはいますが、秀吉の遠戚とは限りません。
ただ、「羽柴」という名字を秀吉が創作したことは事実のようです。
次回から通常版に戻ります。「戦国人物紹介」畿内編。
「ブレイブソングオンライン」
http://www.bravesongonline.jp/
スタートダッシュキャンペーンの報酬がLv.25なんだけど、Lv.22で足踏みしてます。
(注:実質3時間×3日間くらいしかやれてません)
自動戦闘(ねじ巻き)にしてたら、メデューサで死にそうになってました。おかしいなあ。
自動戦闘で一晩置いたらレベルアップしまくりか、というとそんなことはなく、
クエストの経験値に比べるとゴミのような経験値しかないので、
討伐系やドロップ系のクエで目的まで自動で移動して、
あとは自動戦闘というのが一つのスタイルになります。
誰でも肉入りBOTになれますが、タゲかぶりまくり;;
あと、Lv.20くらいまではクエストがたくさんあるのですが、
ここを超えてくると、レベルアップに応じて増えるクエが急激に減るんですよね。
インスタントダンジョンとか、別の方法を探して経験値を集めないと、
このへんで詰まり気味になってきます。
「くろネコONLINE」もクエストをこなすと、装備がもらえたのですが、
装備の一つに至るまでプレイヤーがつくっていた「君○online」ってすげえなあ、
といまさらながらに思ったりしてw
http://www.bravesongonline.jp/
スタートダッシュキャンペーンの報酬がLv.25なんだけど、Lv.22で足踏みしてます。
(注:実質3時間×3日間くらいしかやれてません)
自動戦闘(ねじ巻き)にしてたら、メデューサで死にそうになってました。おかしいなあ。
自動戦闘で一晩置いたらレベルアップしまくりか、というとそんなことはなく、
クエストの経験値に比べるとゴミのような経験値しかないので、
討伐系やドロップ系のクエで目的まで自動で移動して、
あとは自動戦闘というのが一つのスタイルになります。
誰でも肉入りBOTになれますが、タゲかぶりまくり;;
あと、Lv.20くらいまではクエストがたくさんあるのですが、
ここを超えてくると、レベルアップに応じて増えるクエが急激に減るんですよね。
インスタントダンジョンとか、別の方法を探して経験値を集めないと、
このへんで詰まり気味になってきます。
「くろネコONLINE」もクエストをこなすと、装備がもらえたのですが、
装備の一つに至るまでプレイヤーがつくっていた「君○online」ってすげえなあ、
といまさらながらに思ったりしてw