兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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父親の職業のせいもあるのですが(こういうところでもこの人の影響が少なからずあることは認めざるを得ない)、部屋にいると、どちらが南か北か、方角が定まらないと違和感があります。厳密なものではないので、実際と違っていてもいいみたいなのですが、なんとなく落ち着きません。北枕とか気にしませんし、南を向いて仕事をしなければならないとも思いませんが。あ、いまの職場は北向きですね。南の窓から日差しが入ってくるので、ブラインドは必須です。この時期でも常に小型の扇風機があちこちで首を振っていますしね。どんな会社だ。自分用の卓上扇風機を買いました。
もう一つ、部屋の構造というのがあって、八畳間でも六畳間でもいいのですが、仮に南側を窓とすると、そこにテレビを置いて、西側にベッド、東側に机、というのがこの十年間のスタイルだったわけです(入口が東側に寄っているというのがある)。その前の五年くらいは西側に机、東側にベッドだったのですが、いまはその状態になっていて、感覚的に戸惑います。こんな人いないんだろうなあ。家具の配置上、部屋の状態に合わせて変えますが、感覚がついていきません。要は余計な神経をしばらくは使うということなのですが。
もう一つ、部屋の構造というのがあって、八畳間でも六畳間でもいいのですが、仮に南側を窓とすると、そこにテレビを置いて、西側にベッド、東側に机、というのがこの十年間のスタイルだったわけです(入口が東側に寄っているというのがある)。その前の五年くらいは西側に机、東側にベッドだったのですが、いまはその状態になっていて、感覚的に戸惑います。こんな人いないんだろうなあ。家具の配置上、部屋の状態に合わせて変えますが、感覚がついていきません。要は余計な神経をしばらくは使うということなのですが。
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「戦国人物紹介」
「酒色にふけって」肥満していたという話を聞くが、酒はともかく、色(女性)の話は聞かない。家臣の妻を奪って謀叛を起こされた大友宗麟の方がひどい。母慶誾尼の存在もあったか。今山の戦いを見ても、この母親には頭が上がらなかったようである。慶誾尼は御家の安泰のためには重臣のところへ押し掛けて再婚したくらいだから、なかなかの女性だったのだろう。隆信の死後は直茂に国政を委任し、関ヶ原の戦いの直前に死去。龍造寺家の「断絶」を見ることはなかった。九十二歳。
047 龍造寺隆信 【りゅうぞうじたかのぶ】 1529-84 (後編)
今山の戦いから肥前統一、三者鼎立へ
翌1570年、宗麟の再征を受けて、六万と称する大軍に佐賀城を囲まれる。鍋島直茂や慶誾尼は夜襲を主張し、この意見に押された隆信は今山の大友親貞(宗麟の甥という)の陣に夜襲を敢行、親貞を討ち取って包囲軍を潰走させ、大友氏と有利な和議を結んだ。その後、形式的には大友氏の傘下にありながら独自に勢力を拡大し、大村純忠、有馬晴信を降して、1578年に肥前の統一を完成させた。今山の戦いでの逆転勝利が九州三強への出発点となったのである。同年、大友氏は耳川の戦いで島津氏に大敗、これを見た龍造寺氏は筑後から肥後北部、筑前南部、さらには豊前西部にまで進出した。ここに九州は東を大友氏、南を島津氏、そして西を龍造寺氏が並ぶ三者鼎立(ていりつ)の時代へと入っていくことになる。
急速に領国を拡大した隆信は「五州二島(壱岐、対馬)の太守」と呼ばれることになるが、支配下の領主たちは隆信に心服していたわけではなかった。領主たちの離反や抵抗に悩まされた隆信は彼らに対して厳しい態度で臨まざるを得なかった。残忍で酷薄、仁愛に欠けると評されるのもやむを得ないことであろう。家兼、隆信二人の再起に協力した蒲池鑑盛の子鎮並も島津方に従う姿勢を見せると、隆信に謀殺された。肥後の国人である赤星統家も隆信に実子を人質に送って服属していたが、去就を疑われると、十四歳の嫡男と八歳の娘を殺された。また、大友氏や大村氏、有馬氏などのキリシタン大名とは敵対したことから、宣教師のルイス・フロイスからは「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」との評価も受けている。
あっけない最期
1584年、有馬晴信は島津氏の支援を得て、龍造寺氏から離反した。隆信は六万近い大軍で島原半島に攻め込んだ。このときの隆信の様子をフロイスの『日本史』ではカエサルに比して書いている。「その細心の注意と配慮と決断はユリウス・カエサルとて、それ以上の迅速さと知恵をもって企て得ないかに思われた」、カエサルといえば、「賽(さい)は投げられた」など、積極果断な印象で語られる人物である。
龍造寺軍と有馬・島津連合軍は沖田畷で戦うが、隘路に誘い込まれた龍造寺軍は苦戦、隆信は自ら攻め入るが、島津軍の反撃に遭う。馬に乗れないほど肥満していた隆信は輿に乗って指揮していたが、島津軍の勢いに押された担ぎ手は隆信を捨てて逃げてしまう。取り残された隆信は島津軍の川上左京亮忠堅に討たれた。享年五十六歳。同じく輿に乗って指揮したという立花道雪ならばこんなことはなかったであろう。なお、龍造寺側は隆信の首の受け取りを拒否したため、肥前国境の願行寺に葬られた(首の行方については諸説ある)
最初にクマの話をしたが、単に強い、というだけではなく、残忍や狡猾といったイメージが付きまとう。鍋島氏が自身の支配を正当化するために、隆信のことをあえて悪く書いたということは少なからずあると思われるが、最期は身から出たさび、という感は否めない。
「酒色にふけって」肥満していたという話を聞くが、酒はともかく、色(女性)の話は聞かない。家臣の妻を奪って謀叛を起こされた大友宗麟の方がひどい。母慶誾尼の存在もあったか。今山の戦いを見ても、この母親には頭が上がらなかったようである。慶誾尼は御家の安泰のためには重臣のところへ押し掛けて再婚したくらいだから、なかなかの女性だったのだろう。隆信の死後は直茂に国政を委任し、関ヶ原の戦いの直前に死去。龍造寺家の「断絶」を見ることはなかった。九十二歳。
047 龍造寺隆信 【りゅうぞうじたかのぶ】 1529-84 (後編)
今山の戦いから肥前統一、三者鼎立へ
翌1570年、宗麟の再征を受けて、六万と称する大軍に佐賀城を囲まれる。鍋島直茂や慶誾尼は夜襲を主張し、この意見に押された隆信は今山の大友親貞(宗麟の甥という)の陣に夜襲を敢行、親貞を討ち取って包囲軍を潰走させ、大友氏と有利な和議を結んだ。その後、形式的には大友氏の傘下にありながら独自に勢力を拡大し、大村純忠、有馬晴信を降して、1578年に肥前の統一を完成させた。今山の戦いでの逆転勝利が九州三強への出発点となったのである。同年、大友氏は耳川の戦いで島津氏に大敗、これを見た龍造寺氏は筑後から肥後北部、筑前南部、さらには豊前西部にまで進出した。ここに九州は東を大友氏、南を島津氏、そして西を龍造寺氏が並ぶ三者鼎立(ていりつ)の時代へと入っていくことになる。
急速に領国を拡大した隆信は「五州二島(壱岐、対馬)の太守」と呼ばれることになるが、支配下の領主たちは隆信に心服していたわけではなかった。領主たちの離反や抵抗に悩まされた隆信は彼らに対して厳しい態度で臨まざるを得なかった。残忍で酷薄、仁愛に欠けると評されるのもやむを得ないことであろう。家兼、隆信二人の再起に協力した蒲池鑑盛の子鎮並も島津方に従う姿勢を見せると、隆信に謀殺された。肥後の国人である赤星統家も隆信に実子を人質に送って服属していたが、去就を疑われると、十四歳の嫡男と八歳の娘を殺された。また、大友氏や大村氏、有馬氏などのキリシタン大名とは敵対したことから、宣教師のルイス・フロイスからは「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」との評価も受けている。
あっけない最期
1584年、有馬晴信は島津氏の支援を得て、龍造寺氏から離反した。隆信は六万近い大軍で島原半島に攻め込んだ。このときの隆信の様子をフロイスの『日本史』ではカエサルに比して書いている。「その細心の注意と配慮と決断はユリウス・カエサルとて、それ以上の迅速さと知恵をもって企て得ないかに思われた」、カエサルといえば、「賽(さい)は投げられた」など、積極果断な印象で語られる人物である。
龍造寺軍と有馬・島津連合軍は沖田畷で戦うが、隘路に誘い込まれた龍造寺軍は苦戦、隆信は自ら攻め入るが、島津軍の反撃に遭う。馬に乗れないほど肥満していた隆信は輿に乗って指揮していたが、島津軍の勢いに押された担ぎ手は隆信を捨てて逃げてしまう。取り残された隆信は島津軍の川上左京亮忠堅に討たれた。享年五十六歳。同じく輿に乗って指揮したという立花道雪ならばこんなことはなかったであろう。なお、龍造寺側は隆信の首の受け取りを拒否したため、肥前国境の願行寺に葬られた(首の行方については諸説ある)
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「戦国IXA」では2012年11月6日をもって排出停止(くじを引いても出てこない)となった。手に入れたければ、取引で出品されているカードから手に入れるしかない。また、「龍造寺」の名のつく武将は隆信しか登場しておらず、一時的に龍造寺の名は消えることになった。最初にクマの話をしたが、単に強い、というだけではなく、残忍や狡猾といったイメージが付きまとう。鍋島氏が自身の支配を正当化するために、隆信のことをあえて悪く書いたということは少なからずあると思われるが、最期は身から出たさび、という感は否めない。
NewPCが届きましたが、試験が終わるまでは我慢我慢。どうせまた設定に2時間くらいかかるでしょうからね。でも、このワードすら重い(調子が悪いと、頻繁にフリーズすることもある、復帰はするが)状態は改善したい。
しばらくは「仕事のぼやき」が続きますが、昼間は仕事、夜は試験勉強しかしていないので、ご了承ください。「戦国人物紹介」は龍造寺隆信の後編はとっくに書き終えていて、龍造寺四天王(五人?)のあとは、鍋島直茂で3回、さらに島津氏のさわりまで書き始めていますが、週一くらいで出していこうと思っています(すぐ出すとすぐなくなる)
婚活も再開しているので、婚活ネタもあるのですが。まあ、いろいろあります。
さて、「本店」の立場で「現場」の人と交渉することがあるのですが、いろんな人がいますね。最初から目の敵(かたき)と思って喧嘩腰で来る人もいますし、逆に平伏してるんじゃないかって人もいますし。私より確実に目上の人なんですから、そこまでしなくても、とは思いますが。まあ、下だと思って舐められるのは嫌ですけどね。徹底的に戦います(とはいえ、打ち負かすのが目的ではない)。
現場の課長さんと話すことが多いのですが、中には優しく丁寧に受け答えされる方もいて、自分が課長になったらこうなりたいと思わせてくれます。受け答えって大事です。そういう場合は、資料が不足していても、こちらで作ることもあります。
お客さんと交渉するのは現場のみなさんですからね。そこの苦労を忘れてはいけません(ちょっと前まで現場にいただけに)
しばらくは「仕事のぼやき」が続きますが、昼間は仕事、夜は試験勉強しかしていないので、ご了承ください。「戦国人物紹介」は龍造寺隆信の後編はとっくに書き終えていて、龍造寺四天王(五人?)のあとは、鍋島直茂で3回、さらに島津氏のさわりまで書き始めていますが、週一くらいで出していこうと思っています(すぐ出すとすぐなくなる)
婚活も再開しているので、婚活ネタもあるのですが。まあ、いろいろあります。
さて、「本店」の立場で「現場」の人と交渉することがあるのですが、いろんな人がいますね。最初から目の敵(かたき)と思って喧嘩腰で来る人もいますし、逆に平伏してるんじゃないかって人もいますし。私より確実に目上の人なんですから、そこまでしなくても、とは思いますが。まあ、下だと思って舐められるのは嫌ですけどね。徹底的に戦います(とはいえ、打ち負かすのが目的ではない)。
現場の課長さんと話すことが多いのですが、中には優しく丁寧に受け答えされる方もいて、自分が課長になったらこうなりたいと思わせてくれます。受け答えって大事です。そういう場合は、資料が不足していても、こちらで作ることもあります。
お客さんと交渉するのは現場のみなさんですからね。そこの苦労を忘れてはいけません(ちょっと前まで現場にいただけに)
各店舗からの案件を審査する仕事ですが、当然、すべての案件にOKを出すわけではありません。NGの場合もありますし、何らかの条件を付けることもあります。意見が対立して、調整、折衝を迫られるというのが苦しいです。各店舗の方が情報を持っているわけですから(通常、本部の人間はお取引先に会うこともない)、限られた資料から戦えるだけの理論武装をしなければなりません。
それでも折り合いがつかないこともあるのですが、実は私には最終的な決定権がありません。上席者の人が決裁をするのですが、各店舗と条件交渉をしたあとに、上席者の人と判断が食い違うことがあると思うと怖いです。そこまで判断力を一般化させられるか(これは相当に困難なことである)というと、まだその自信はありません。
上司は、決裁者として振る舞え、そしてそこがこの仕事の面白いところであり、やりがいだ、と言ってくれるのですが、そこまでは割り切れません。上司も「自分だって、部長や役員に決裁を求めることもある」と言うのですが、それは未熟な私の立場にはまだ置き換えられません。
と言っても、数学が好きですから、決算書などの財務諸表や資料を見ながら、案件を審査する(自分で一度組成してみる)のは楽しいですね。店舗にいたときに、審査だけできればいいのに、と思ったことがありますが(交渉の末に申込を受け付けて、審査をして、約定をして、オペレーションをして、書類を整理して、というのは時間も手間もかかる)、いま、それが実現しています。
それでも折り合いがつかないこともあるのですが、実は私には最終的な決定権がありません。上席者の人が決裁をするのですが、各店舗と条件交渉をしたあとに、上席者の人と判断が食い違うことがあると思うと怖いです。そこまで判断力を一般化させられるか(これは相当に困難なことである)というと、まだその自信はありません。
上司は、決裁者として振る舞え、そしてそこがこの仕事の面白いところであり、やりがいだ、と言ってくれるのですが、そこまでは割り切れません。上司も「自分だって、部長や役員に決裁を求めることもある」と言うのですが、それは未熟な私の立場にはまだ置き換えられません。
と言っても、数学が好きですから、決算書などの財務諸表や資料を見ながら、案件を審査する(自分で一度組成してみる)のは楽しいですね。店舗にいたときに、審査だけできればいいのに、と思ったことがありますが(交渉の末に申込を受け付けて、審査をして、約定をして、オペレーションをして、書類を整理して、というのは時間も手間もかかる)、いま、それが実現しています。
電話セールスってありますけど、電話に限らず、やる気のない人っていますよね。
契約取る気あるのか!
って感じですけど、実際、契約取れていないんでしょう。必死さが足りません。
そういう人を管理者の立場から追及すると、できない理由を述べ出すんですよね。
できない理由はいいから、できるようにしてって(前にも書いた)
どうやればできるようになるのかを考えましょう。
今日もNTTの関連会社から携帯に電話がかかってきましたが(個人情報じゃないのか?
関連会社も使っていいという同意をした覚えはないのだが)、
見てもいない郵便(帰ったら届いていた)のことを、さもあるかのように言うので、
機嫌が悪くなって、適当に断ってしまいました。
回線料金とプロバイダ料金をまとめて請求するというサービスのようですが、
何のメリットがあるのでしょうか(ポイントとかいらないし)
ということで、今日は、ネットの引越に至るまでのNTTの対応の悪さを書いたブログを。
同じサービス業としては、対応の悪さにうんざりです。担当によるんでしょうけどね。
2012年10月21日の記 未分類
途中経過
(注:NTTの回線調査があった)回線工事はまだあるらしく、
それが終われば回線が使えるようになるとの話ですが、プロバイダと契約してないでしょ。
そもそも、部屋に入って工事するのに、管理人さんには連絡があって、
本人に連絡がないってのはどういうこと?
まだ紆余曲折が予想されそうです。
もうネットなくてもいいんじゃないかって気がしてきました。
こんなに待たされたら、ネットがなくてもいいように生活の方を変えちゃうし。
2012年10月23日の記 未分類
NTTからの連絡で回線工事が11月にずれ込み。これで1ヶ月待ちです。
工事が終了したら、「NTTからプロバイダに連絡が行くので、そうしたら回線が使えるようになる」と、
NTTにもプロバイダにも確認しました。大丈夫かな?
こういう契約関係は念を入れて確認するようになりましたね。
お客さんなんだから、わからないところはわかるようになるまで確認した方がいいです。
お金払ってるんだから(今回は時間も大きい)。遠慮することはないです。
モバイル(といまも言うのだろうか?)の方が楽そうだなあ。
いまなら速度も上がっているでしょうし。
転勤族で、引っ越すたびに、変更の手続きが必要というのは本当に面倒。
昔はAir-H”とか使ってましたね(ウィルコムじゃないか)。
端末(サービス)自体がなくなっちゃったけど。
ヤフーの最初のページを開くだけで2、3分かかってましたね(おもっ)
2012年10月26日の記 未分類
携帯が鳴らず、いきなり留守電に入ったとのアラームが。またNTTからである。聞けば、今度は父親の生年月日が必要なのだという(なぜかまでは聞かなかったが、本人確認のためだろう、しかし生年月日などは調べようと思えば、他人でもいくらでも調べられるのではないか)。
たしかに、電話回線の契約は父親名義だが、必要なら、なぜ前回の時に確認しておかないのか。折り返しで電話してみると(しかもNTTに電話すると相当待たされる)、さらに、プロバイダの移転手続きに(そのプロバイダの)メールアドレスが必要だという。この前伝えたお客様番号ではダメなのか…。このプロバイダのメールは使っていないので、すぐにはわからないと言うと、11月××日の工事終了後、すぐネットが使えるようにするためには至急必要なので、と言われて、自宅までメールアドレスを確認しに行く羽目に(歩いて5分だけれども)
桜玉吉のマンガで住宅ローンを組む時の話が描かれていたが、書類を出したと思ったら、今度はこの書類が必要ですと言われ、それを出すと、さらにあの書類が必要です、保証人が要ります、保証人の通帳のコピーが要ります…こういうのはサービス業としては失格である。事務に慣れていない社員に当たると、往々にしてこういうことになるが、必要なことは一回で済ませてほしいのである。
契約取る気あるのか!
って感じですけど、実際、契約取れていないんでしょう。必死さが足りません。
そういう人を管理者の立場から追及すると、できない理由を述べ出すんですよね。
できない理由はいいから、できるようにしてって(前にも書いた)
どうやればできるようになるのかを考えましょう。
今日もNTTの関連会社から携帯に電話がかかってきましたが(個人情報じゃないのか?
関連会社も使っていいという同意をした覚えはないのだが)、
見てもいない郵便(帰ったら届いていた)のことを、さもあるかのように言うので、
機嫌が悪くなって、適当に断ってしまいました。
回線料金とプロバイダ料金をまとめて請求するというサービスのようですが、
何のメリットがあるのでしょうか(ポイントとかいらないし)
ということで、今日は、ネットの引越に至るまでのNTTの対応の悪さを書いたブログを。
同じサービス業としては、対応の悪さにうんざりです。担当によるんでしょうけどね。
2012年10月21日の記 未分類
途中経過
(注:NTTの回線調査があった)回線工事はまだあるらしく、
それが終われば回線が使えるようになるとの話ですが、プロバイダと契約してないでしょ。
そもそも、部屋に入って工事するのに、管理人さんには連絡があって、
本人に連絡がないってのはどういうこと?
まだ紆余曲折が予想されそうです。
もうネットなくてもいいんじゃないかって気がしてきました。
こんなに待たされたら、ネットがなくてもいいように生活の方を変えちゃうし。
2012年10月23日の記 未分類
NTTからの連絡で回線工事が11月にずれ込み。これで1ヶ月待ちです。
工事が終了したら、「NTTからプロバイダに連絡が行くので、そうしたら回線が使えるようになる」と、
NTTにもプロバイダにも確認しました。大丈夫かな?
こういう契約関係は念を入れて確認するようになりましたね。
お客さんなんだから、わからないところはわかるようになるまで確認した方がいいです。
お金払ってるんだから(今回は時間も大きい)。遠慮することはないです。
モバイル(といまも言うのだろうか?)の方が楽そうだなあ。
いまなら速度も上がっているでしょうし。
転勤族で、引っ越すたびに、変更の手続きが必要というのは本当に面倒。
昔はAir-H”とか使ってましたね(ウィルコムじゃないか)。
端末(サービス)自体がなくなっちゃったけど。
ヤフーの最初のページを開くだけで2、3分かかってましたね(おもっ)
2012年10月26日の記 未分類
携帯が鳴らず、いきなり留守電に入ったとのアラームが。またNTTからである。聞けば、今度は父親の生年月日が必要なのだという(なぜかまでは聞かなかったが、本人確認のためだろう、しかし生年月日などは調べようと思えば、他人でもいくらでも調べられるのではないか)。
たしかに、電話回線の契約は父親名義だが、必要なら、なぜ前回の時に確認しておかないのか。折り返しで電話してみると(しかもNTTに電話すると相当待たされる)、さらに、プロバイダの移転手続きに(そのプロバイダの)メールアドレスが必要だという。この前伝えたお客様番号ではダメなのか…。このプロバイダのメールは使っていないので、すぐにはわからないと言うと、11月××日の工事終了後、すぐネットが使えるようにするためには至急必要なので、と言われて、自宅までメールアドレスを確認しに行く羽目に(歩いて5分だけれども)
桜玉吉のマンガで住宅ローンを組む時の話が描かれていたが、書類を出したと思ったら、今度はこの書類が必要ですと言われ、それを出すと、さらにあの書類が必要です、保証人が要ります、保証人の通帳のコピーが要ります…こういうのはサービス業としては失格である。事務に慣れていない社員に当たると、往々にしてこういうことになるが、必要なことは一回で済ませてほしいのである。