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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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離れていても、地元北海道の選挙というのは気になるもので…特にこの人(鳩ポッポ)の場合…。

2012衆院選:民主9区、山岡氏内定 鳩山氏後継 /北海道

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121126-00000008-mailo-hok

知らなかったけど、民主9区に擁立された山岡達丸の父・山岡賢次って、

山岡荘八の養女と結婚して山岡家(本名は藤野姓)の婿になってるんだね(「自称」らしい)

山岡荘八と言ったら、『徳川家康』ですかね。あのボリュームは読んだことがありませんが。

山岡荘八が山岡賢次みたいなのが自分の養子と知ったらどう思うかね。

国会議員としては言葉が軽いよね。頭も軽いんだろうけど。


にしても、山岡荘八と山岡賢次が何か関係あるなんて、ほとんど誰も知らないよね。

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2012年ベスト、最後の調整で、

「ヒカルものたち」(渡辺麻友)、「ケツノポリス8」(ケツメイシ)を買いました。

さらに、『昭和天皇』と同様、すっかり忘れていた『三国志 第十一巻』(宮城谷昌光)を注文。

日用品、雑貨まで通販で買っているので(その代わり、街に出なくなった)、

この2か月で40品くらい買っていますね。

これでしばらく終了。


渡辺麻友は実験的に買ってみます。

初音ミクっぽい、と言われていますが、

私にはPerfumeっぽく聞こえます(似ているからどうこうということではない)

PVだと最後はエラーで止まっちゃうんだけど、曲はどうなんだろうか。


『昭和天皇 第六部』(福田和也、文芸春秋)と『戦後史の正体』(孫崎享、創元社)を買いました。
 
『昭和天皇』は文芸春秋での連載は終了(以後はウェブで独立回復までを書くらしい)、第六部で完結ということでしょうか。終戦までを描きます。
 
『戦後史の正体』は「アメリカからの圧力」を軸に戦後史を読み解くというものです。著者自身「変わった本かもしれません」と書いていますが、私にはあまり違和感がありません。日本の戦後は常にアメリカの有形、無形の圧力にさらされてきました。現在は民主党政権がアメリカとの同盟を軽視し、中韓にこびへつらう外交を展開しているため、中韓に付け込まれる隙を与えてしまいました。
 
先帝陛下(昭和天皇)という方はたいへん偉大な方で、私は日本史における最後の偉人(最後の歴史上の人物、と言い換えてもよい)だと思っています。テレビに映るのは飄々とした人物像ですが、二度の大きな決断を成しています。一つは二・二六事件、決起して大臣らを暗殺した将校たちを「反乱軍」と断定し、鎮圧させています。この決断がなければ軍部によるクーデターが成功していました。しかし、軍部の発言力はこのあとも増大し、アメリカとの開戦に至ります。アメリカとの戦争により日本の国土は焦土と化しますが、軍部は戦争を継続するつもりでした。二つ目の決断はポツダム宣言受諾の決断です。これがなければ日本国内が敗戦を受け入れず、いつまで戦争が続いたかわかりません。戦争は、始めるよりも終わらせる方が難しいのです(全員、全構成員を殺すのならともかく、戦争の最終目的は「講和」である、そしてこれは「政治」である)
 
 
『戦後史の正体』に話を戻します。私はいわゆる「陰謀史観」には与しませんが、陰謀の存在までは否定しません。特に外交においては、表に知られないような陰謀がつきものです。それは過去も現在も変わりません。戦後史においても、アメリカ(だけではない)の陰謀は存在しています。
 
第一章について少し触れます。まずは「終戦」の話から。私は極力この言葉を使わないようにしていますが(使う時はあえて使っている)、第二次世界大戦が終わったのは、1945年8月15日ではありません。9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した時が、日本が「敗戦」した時です。「終戦」というあいまいな言葉を使って、「無条件降伏」をしたことから目をそらしてはなりません。
 
阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣の自刃については私も同じ意見です。この人にはいろいろな評価があって、最近は見直されている感があります(軍部の暴走をとどめた、と見ることができなくもない)。とはいえ、遺書には「一死をもって大罪を謝し奉る」とありますが、「一死」では「大罪」をつぐなうことはできません。この人が生きて戦争責任を取れば、救われた命があったかもしれません。責任放棄という見方もできます。繰り返しますが、腹を切って済む話ではありません(A級戦犯はよく知られているが、B・C級戦犯が1万人以上いたという話はあまり知られていない)。
 
しかし、この先を読んでいくと、占領政策についてもっと衝撃的なことがいろいろと書かれています。

ただなあ、内容はともかく、本の書き方として、自説に都合のいい文章ばかりを引用しているという印象は拭えないんだよなあ。


http://naraku.or-hell.com/Entry/816/

でも同じことを書いていますが。


先週に続いて、今週もお隣の町まで、雨の中を片道1時間ずつ高速をブッ飛ばす。

ギリギリのところで命のやり取りをしている、この緊張感がたまりませんね。

別に、死にたいわけじゃないんだが。
048 鍋島直茂 【なべしまなおしげ】 1538-1618 (後編)
 
1587年、秀吉の九州攻めに従い、龍造寺政家は肥前本領三十二万石を安堵され、直茂も肥前神埼郡に四万五千石の所領を賜り、翌年、長崎の代官となった。1590年、政家は病気のため、隠居して家督を子高房に譲ったが、国政は直茂に委ねられた。朝鮮出兵では豊臣政権から龍造寺家臣を率いて渡海するよう求められ、子勝茂とともに加藤清正に属し戦っている。直茂は龍造寺氏の血を引くが、最後まで龍造寺氏を称することはなかった(龍造寺氏の家老になったこともないとされる)。
 
秀吉の死後は家康に接近、関ヶ原の戦いでは直茂は肥前に在国した。勝茂が伏見城攻め、伊勢安濃津城攻めに加わっているが、本戦には不参加。直茂は帰国した勝茂とともに毛利(小早川)秀包の久留米城を攻め、さらに立花宗茂の柳川城を攻めるなど東軍としての行動を取る。戦後は黒田長政を通じて謝罪し、龍造寺氏の所領も合わせた佐賀三十五万七千石の安堵に成功している。この間、龍造寺高房は堪忍料として八千石を与えられていたが、1607年に自殺。ただちに勝茂が所領を安堵され、鍋島氏の支配を確立した。勝茂は大坂の陣でも直茂の名代として参加。島原の乱にも従軍している。
 
勝茂以降の藩主は鍋島氏一族から三支藩(蓮池、小城、鹿島。御三家ともいう)を創り、龍造寺氏の嫡流(村田氏を名乗った)を含む四家を親類、庶流を親類同格(龍造寺四家)として服属させた。
 
鍋島氏は外様大名の多くが改易される中でも所領を維持したが、これら一族などの所領が多く(本家は六万石に過ぎなかったという)、手伝普請や長崎防備などで藩財政は窮乏した。また、文治主義でも知られ、「武士道とは死ぬことと見つけたり」(誤解されているが、何かあったらすぐ腹を切るということではない)の一節で知られる『葉隠(はがくれ)』は有名である。
 
幕末に鍋島直正(閑叟、かんそう)が出て、藩財政を立て直し、アームストロング砲の製造や大型船の建造など、佐賀藩を幕末維新の雄藩とした。しかし、藩論が倒幕に統一されたのは1867年と遅く、倒幕勢力としての活躍はほとんど見られない(「日和見」と言われた)が、彰義隊の戦い以降、最新式の兵器を使用して旧幕府軍を圧倒した。新政府では直正自身、議定に就き、江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任らを送り込んで存在感を示した。薩長土肥の「肥」は肥前佐賀のことである。ただ、1871年に直正は死去、1873年、征韓論(明治六年の政変)に敗れた江藤新平や副島種臣が下野、続く佐賀の乱で江藤新平が刑死したことから、旧佐賀藩の影響力は弱まった。



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ゲームにおいても、九州では手に入れたい人材の一人。

次回は直茂の妻の話と、「乗っ取り」についてもう少し考えてみます。
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