兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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頼母様の奥様と言えば…。
三条実美(さんじょうさねとみ)って、八月十八の政変の時に名前が出るけど、
その後は大して名前が出ないんだよね。新政府での扱いは微妙。
次の禁門の変(蛤御門の変)もそうだが、この頃は会津と薩摩は行動をともにしていた。
長州は敵であった。長州は「薩賊会奸」と呼んで深く恨んでいた。
その薩摩と長州が討幕で一致するという薩長同盟は革命的なことであった。
土佐藩の脱藩浪士の手柄じゃないけどね(あの人は交渉の代理人に過ぎない)
来週は新選組、最大の見せ場と言っていい、池田屋事件です。
ここから禁門の変(蛤御門の変)、第一次長州征伐へとつながっていきます。
三条実美(さんじょうさねとみ)って、八月十八の政変の時に名前が出るけど、
その後は大して名前が出ないんだよね。新政府での扱いは微妙。
次の禁門の変(蛤御門の変)もそうだが、この頃は会津と薩摩は行動をともにしていた。
長州は敵であった。長州は「薩賊会奸」と呼んで深く恨んでいた。
その薩摩と長州が討幕で一致するという薩長同盟は革命的なことであった。
土佐藩の脱藩浪士の手柄じゃないけどね(あの人は交渉の代理人に過ぎない)
来週は新選組、最大の見せ場と言っていい、池田屋事件です。
ここから禁門の変(蛤御門の変)、第一次長州征伐へとつながっていきます。
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昼間から250mlのワインをラッパ飲みして、この時間でも意識が朦朧。
あ、ビールも二缶飲んでたわ。
この方面は自信がある分野ではないので、
わかっているという人は聞き流してください。
逆に、書いてあることに従って、何か問題が起きても責任は取れません。
ダメだったら、それを経験にして次に行きましょう。
結婚したいのだったら、折れている暇はありません。
(婚活は精神的にタフでないと続けられません)
前回に続いて、最初に会う時の話です。
別に二人の話が合ったら、最初からご飯(晩御飯を指す)でもいいんですよ。
ちょっとお酒が入ったくらいの方が話が進むかもしれませんしね。
お酒NG(自分が飲めない、だけではなく、男性が飲むのも好まない)の
女性もいるので、無理をしてはいけません。
最初は3時くらいにホテルのラウンジか喫茶店でお茶が無難かなと思っています。
最初からランチ(お昼のお食事)を一緒にというのは考えにくいですし
(経験がないわけではないし、場合によってはあり得る)、
上で書いたように「夜」、「お酒」、というのも避けた方が無難です。
行こうと思っていた喫茶店がなくなっていた、
ご飯を食べようと思っていたお店がなくなっていた(休みだった)、
という経験はあるので、最低二つ、できれば三つ以上は場所を押さえておきましょう。
ネット時代だから簡単でしょ?(休業日も頭に入れておきましょう)
不器用な男性がリードすると、お店がない(たどり着けない可能性もある)、
ということもありますが、女性もそこで引かないで、
ここに別のお店もありますよ、あそこに行ってみましょう、
とフォローできるとポイントが高いでしょう。
女性のやさしさのアピールにもなります。
ということは、女性も会う場所のお店は知っておいた方がいいということです。
(同じ場所に住んでいない限りは、ホーム、アウェイという問題がついてきます)
最初なんだから、お互い協力できないとね、と思います。
最初から全部男性にまかせっきりでは先が思いやられます。
(女性も積極的、とは言わないまでもフォローできるのが好ましい)
と、おそらく当たり前のことを書いていますが、
頭が痛いので寝ます。おやすみなさい。
あ、ビールも二缶飲んでたわ。
この方面は自信がある分野ではないので、
わかっているという人は聞き流してください。
逆に、書いてあることに従って、何か問題が起きても責任は取れません。
ダメだったら、それを経験にして次に行きましょう。
結婚したいのだったら、折れている暇はありません。
(婚活は精神的にタフでないと続けられません)
前回に続いて、最初に会う時の話です。
別に二人の話が合ったら、最初からご飯(晩御飯を指す)でもいいんですよ。
ちょっとお酒が入ったくらいの方が話が進むかもしれませんしね。
お酒NG(自分が飲めない、だけではなく、男性が飲むのも好まない)の
女性もいるので、無理をしてはいけません。
最初は3時くらいにホテルのラウンジか喫茶店でお茶が無難かなと思っています。
最初からランチ(お昼のお食事)を一緒にというのは考えにくいですし
(経験がないわけではないし、場合によってはあり得る)、
上で書いたように「夜」、「お酒」、というのも避けた方が無難です。
行こうと思っていた喫茶店がなくなっていた、
ご飯を食べようと思っていたお店がなくなっていた(休みだった)、
という経験はあるので、最低二つ、できれば三つ以上は場所を押さえておきましょう。
ネット時代だから簡単でしょ?(休業日も頭に入れておきましょう)
不器用な男性がリードすると、お店がない(たどり着けない可能性もある)、
ということもありますが、女性もそこで引かないで、
ここに別のお店もありますよ、あそこに行ってみましょう、
とフォローできるとポイントが高いでしょう。
女性のやさしさのアピールにもなります。
ということは、女性も会う場所のお店は知っておいた方がいいということです。
(同じ場所に住んでいない限りは、ホーム、アウェイという問題がついてきます)
最初なんだから、お互い協力できないとね、と思います。
最初から全部男性にまかせっきりでは先が思いやられます。
(女性も積極的、とは言わないまでもフォローできるのが好ましい)
と、おそらく当たり前のことを書いていますが、
頭が痛いので寝ます。おやすみなさい。
WBC 日本5-3ブラジル
稲葉に代えて井端の代打起用は疑問に思いましたが、結果オーライ。
すいませんでした。
さすが井端さんですね。
二連覇していると言っても、メンバーはほぼ入れ替わっているので、
初戦の硬さは目につきましたね。
格下のブラジル相手にここまで苦戦するとは。
田中の不調は織り込み済みとはいえ、
杉内に攝津まで打たれるとは驚きです。
次の中国戦での打線の奮起を期待しましょうかね。
1次ラウンドでは負けられません。
稲葉に代えて井端の代打起用は疑問に思いましたが、結果オーライ。
すいませんでした。
さすが井端さんですね。
二連覇していると言っても、メンバーはほぼ入れ替わっているので、
初戦の硬さは目につきましたね。
格下のブラジル相手にここまで苦戦するとは。
田中の不調は織り込み済みとはいえ、
杉内に攝津まで打たれるとは驚きです。
次の中国戦での打線の奮起を期待しましょうかね。
1次ラウンドでは負けられません。
アドバイス編。
あくまで相互の「ノリ」、話の盛り上がり具合によりますが。
掲示板での会話は30件くらい(お互い15件ずつくらい)が目処ですね。
(掲示板での会話の回数は制限がないので、1日1件に限ることはない)
このくらい会話したら、合うか合わないかはわかってくると思うので、
合いそうだったら、直接会ってお話ししないか誘いましょう。
ここで「ちょっと…」と躊躇されるようなら、脈がないかもしれません。
もう少し続けて、打開するか、あきらめて次に行きましょう。
誘われた方も、これが好機と思って、受けないと先には進めません。
ちょっと迷うくらいだったら会ってみた方がいいです。
会ってみてダメだったら切ればいいだけです。
向こうから、「何日と何日は空いています」と言わせればベター。
誘われた方も、「この日」と限定すると、誘った方が動きにくいので、
複数の選択肢を提示するのがよいでしょう。
会う前に、どこで何をするか(最初はお茶をしながら2時間くらい話をするのがベター)、
どんな話題をするかプランは考えておきましょう。
合う人だと、考えていなくても話が続くものですけどね。
あくまで相互の「ノリ」、話の盛り上がり具合によりますが。
掲示板での会話は30件くらい(お互い15件ずつくらい)が目処ですね。
(掲示板での会話の回数は制限がないので、1日1件に限ることはない)
このくらい会話したら、合うか合わないかはわかってくると思うので、
合いそうだったら、直接会ってお話ししないか誘いましょう。
ここで「ちょっと…」と躊躇されるようなら、脈がないかもしれません。
もう少し続けて、打開するか、あきらめて次に行きましょう。
誘われた方も、これが好機と思って、受けないと先には進めません。
ちょっと迷うくらいだったら会ってみた方がいいです。
会ってみてダメだったら切ればいいだけです。
向こうから、「何日と何日は空いています」と言わせればベター。
誘われた方も、「この日」と限定すると、誘った方が動きにくいので、
複数の選択肢を提示するのがよいでしょう。
会う前に、どこで何をするか(最初はお茶をしながら2時間くらい話をするのがベター)、
どんな話題をするかプランは考えておきましょう。
合う人だと、考えていなくても話が続くものですけどね。
「戦国人物紹介」
島津氏
鎌倉時代から幕末維新まで続く名門
後世、初代忠久は源頼朝の庶子と称しているが伝説に過ぎない。秦の始皇帝の後裔で秦氏の子孫である惟宗姓で、歌人の惟宗広言の子孫とされてきたが、現在では惟宗忠康の子孫とされている。
ちなみに、忠久を頼朝の庶子とする話はこうである。
頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流されていたが、比企能員の妹丹後局と関係を持った。しかし、(北条)政子の怒りを買って、丹後局は遠ざけられた。局は西に向かったが、摂津住吉社で産気づいた。地元の人からは宿を貸してもらえず、おりしもの大雨で社殿の石の上で休んでいたところ、狐火の中で男子を出産した。これが島津氏の初代忠久であるというものである。
出産したときの石は忠久誕生石といい、住吉社内の稲荷神社にある。これを島津稲荷と称し、以後、島津氏は稲荷神社を尊崇するようになった。
局は頼朝の配慮により、惟宗広言に嫁いだ。これにより、忠久は惟宗姓と十文字紋を得ることになった。また、忠久は畠山重忠を烏帽子親として元服し、重忠から忠の字を賜った。頼朝は忠久を憐れんで、薩摩・大隅・日向の三国にまたがる日本最大の荘園である摂関家領の島津荘の地頭職を与えた。これが1185年のことである。1197年には薩摩・大隅両国の守護となり、島津氏を称した。さらには日向の守護にも任じられる。
ただ、この頼朝落胤説は早くても室町時代になって見られるものであり、広く認められるようになるのは戦国時代以後である。
島津氏は惟宗氏の一族で、その中に摂関家の筆頭である近衛家の下司となったものがあった。忠久はこの子孫と考えられ、近衛家から島津荘の荘官職に任じられており、頼朝に地頭職を賜ったのもこれがもととなったと考えられる。なお、島津氏は近衛家の本姓である藤原姓を称したこともあり、戦国時代には藤原姓と源姓を混用することになった。
なお、島津氏も大友氏や武田氏と同様、一族、庶流が多い。山田氏、伊集院氏、新納氏、樺山氏、北郷氏、川上氏、喜入氏などは庶流である。
島津氏の内訌
鎌倉時代の末期には五代貞久が反幕府方として九州の幕府勢力を滅ぼすのに功があった。貞久の長男氏久は大隅守護、次男師久は薩摩守護になる。この並立関係は師久系が滅びるまで続く。
九代の貞国は弟の用久や子の立久と対立し、十一代忠昌は一族や庶流の反乱を討伐できないまま、1508年に自害に追い込まれた。憤死した父の跡を継いだ子の忠治も大隅の吉田城を攻略中に病死。弟の忠隆が継ぐがわずか四年にして死去。さらに弟の勝久が継いだが、この頃には島津氏の領国はほぼ崩壊していた。本国である薩摩では分家である薩州家の実久、伊作家の忠良、相州家の運久が分立しており、入来院氏ら他の国衆も自領の支配を強めていた。
この中で忠良が子の貴久を島津宗家の家督とすることに成功する。貴久の子義久は九州統一寸前まで至るが、秀吉の侵攻により屈服。関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、義久の弟義弘の子家久(忠恒)が本領を安堵される。江戸時代も外様の雄藩として知られ、佐幕派として中央でも影響力を持った。幕末は長州藩と結んで倒幕勢力の中心となり、新政府にも多数の人材を輩出した。
家門は丸に十の字、あるいは轡十字が有名だが、初期の頃は丸がなく、十字であった。
島津氏
鎌倉時代から幕末維新まで続く名門
後世、初代忠久は源頼朝の庶子と称しているが伝説に過ぎない。秦の始皇帝の後裔で秦氏の子孫である惟宗姓で、歌人の惟宗広言の子孫とされてきたが、現在では惟宗忠康の子孫とされている。
ちなみに、忠久を頼朝の庶子とする話はこうである。
頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流されていたが、比企能員の妹丹後局と関係を持った。しかし、(北条)政子の怒りを買って、丹後局は遠ざけられた。局は西に向かったが、摂津住吉社で産気づいた。地元の人からは宿を貸してもらえず、おりしもの大雨で社殿の石の上で休んでいたところ、狐火の中で男子を出産した。これが島津氏の初代忠久であるというものである。
出産したときの石は忠久誕生石といい、住吉社内の稲荷神社にある。これを島津稲荷と称し、以後、島津氏は稲荷神社を尊崇するようになった。
局は頼朝の配慮により、惟宗広言に嫁いだ。これにより、忠久は惟宗姓と十文字紋を得ることになった。また、忠久は畠山重忠を烏帽子親として元服し、重忠から忠の字を賜った。頼朝は忠久を憐れんで、薩摩・大隅・日向の三国にまたがる日本最大の荘園である摂関家領の島津荘の地頭職を与えた。これが1185年のことである。1197年には薩摩・大隅両国の守護となり、島津氏を称した。さらには日向の守護にも任じられる。
ただ、この頼朝落胤説は早くても室町時代になって見られるものであり、広く認められるようになるのは戦国時代以後である。
島津氏は惟宗氏の一族で、その中に摂関家の筆頭である近衛家の下司となったものがあった。忠久はこの子孫と考えられ、近衛家から島津荘の荘官職に任じられており、頼朝に地頭職を賜ったのもこれがもととなったと考えられる。なお、島津氏は近衛家の本姓である藤原姓を称したこともあり、戦国時代には藤原姓と源姓を混用することになった。
なお、島津氏も大友氏や武田氏と同様、一族、庶流が多い。山田氏、伊集院氏、新納氏、樺山氏、北郷氏、川上氏、喜入氏などは庶流である。
島津氏の内訌
鎌倉時代の末期には五代貞久が反幕府方として九州の幕府勢力を滅ぼすのに功があった。貞久の長男氏久は大隅守護、次男師久は薩摩守護になる。この並立関係は師久系が滅びるまで続く。
九代の貞国は弟の用久や子の立久と対立し、十一代忠昌は一族や庶流の反乱を討伐できないまま、1508年に自害に追い込まれた。憤死した父の跡を継いだ子の忠治も大隅の吉田城を攻略中に病死。弟の忠隆が継ぐがわずか四年にして死去。さらに弟の勝久が継いだが、この頃には島津氏の領国はほぼ崩壊していた。本国である薩摩では分家である薩州家の実久、伊作家の忠良、相州家の運久が分立しており、入来院氏ら他の国衆も自領の支配を強めていた。
この中で忠良が子の貴久を島津宗家の家督とすることに成功する。貴久の子義久は九州統一寸前まで至るが、秀吉の侵攻により屈服。関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、義久の弟義弘の子家久(忠恒)が本領を安堵される。江戸時代も外様の雄藩として知られ、佐幕派として中央でも影響力を持った。幕末は長州藩と結んで倒幕勢力の中心となり、新政府にも多数の人材を輩出した。
家門は丸に十の字、あるいは轡十字が有名だが、初期の頃は丸がなく、十字であった。