兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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3月も終わってみれば、あっという間ですね。今年も3か月、4分の1が終了です。
本州では春到来ですが、花粉やら黄砂やら、目や鼻がつらい時期です。暖かくなったり、寒くなったり、温度差が激しいひと月でもありました。身体に負担がかかりますし、何より、着ていくものに苦労しますね。
「戦国人物紹介」は島津氏月間でした。有名でかつ優秀な人物ばかりですが、調べ直すと意外な一面も見えてきますね。次は天下統一編ですが、4月からすぐ書くのはしんどそうです。調べる時間もほしいですし、構成の時間もかかりますし。
さて、実際の生活はひさびさに「不安定」な状態なまま新年度を迎えることになりそうです。周りの環境はほとんど変わっていないので、私が不安定なのです。聴覚過敏がひどく、耳栓は気休めにもなりません(さえぎれない音の種類はある)。会社でも寮の部屋でも落ち着きません。
いまの部署に異動して半年、仕事はすっかり慣れましたが、慣れたら慣れたで、いろいろと問題は出てきますね。改善を要請しているのに、進歩がなければ腹が立ちます。強くなっても、2周目に入るといろいろあります。
仕事が終わって、部屋に帰ってからの時間を余しています。だいたい4時間くらいありますが、無駄に過ごしているような気がします。去年はずっと勉強しっぱなしだったので、反動が来ているともいえます。4月からは通信講座もあるので、また勉強を始めようかと思っています。身体も動かしたいんですけどね。これは先月も書きました。来月も書いているかもしれません。体育館に行って走ることから始めようかと。
「クリスタル・コンクエスト」はぼちぼちです。毎日INしているときもありましたが、いまはほどほどです。リーフ2倍や合成確率2倍がないとモチベーションが上がりません。
心身ともに疲れていますね。睡眠の質がよくないのかもしれません。絶えず緊張を強いられています。
では、また来月お会いしましょう。
本州では春到来ですが、花粉やら黄砂やら、目や鼻がつらい時期です。暖かくなったり、寒くなったり、温度差が激しいひと月でもありました。身体に負担がかかりますし、何より、着ていくものに苦労しますね。
「戦国人物紹介」は島津氏月間でした。有名でかつ優秀な人物ばかりですが、調べ直すと意外な一面も見えてきますね。次は天下統一編ですが、4月からすぐ書くのはしんどそうです。調べる時間もほしいですし、構成の時間もかかりますし。
さて、実際の生活はひさびさに「不安定」な状態なまま新年度を迎えることになりそうです。周りの環境はほとんど変わっていないので、私が不安定なのです。聴覚過敏がひどく、耳栓は気休めにもなりません(さえぎれない音の種類はある)。会社でも寮の部屋でも落ち着きません。
いまの部署に異動して半年、仕事はすっかり慣れましたが、慣れたら慣れたで、いろいろと問題は出てきますね。改善を要請しているのに、進歩がなければ腹が立ちます。強くなっても、2周目に入るといろいろあります。
仕事が終わって、部屋に帰ってからの時間を余しています。だいたい4時間くらいありますが、無駄に過ごしているような気がします。去年はずっと勉強しっぱなしだったので、反動が来ているともいえます。4月からは通信講座もあるので、また勉強を始めようかと思っています。身体も動かしたいんですけどね。これは先月も書きました。来月も書いているかもしれません。体育館に行って走ることから始めようかと。
「クリスタル・コンクエスト」はぼちぼちです。毎日INしているときもありましたが、いまはほどほどです。リーフ2倍や合成確率2倍がないとモチベーションが上がりません。
心身ともに疲れていますね。睡眠の質がよくないのかもしれません。絶えず緊張を強いられています。
では、また来月お会いしましょう。
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「戦国人物紹介」
053 島津歳久 【しまづとしひさ】 1537-92
又六郎、左衛門督、金吾(左衛門督の唐名が「金吾」である。小早川秀秋と同じ。水戸黄門の「黄門」も中納言の唐名である)。日置島津家の祖。貴久の三男。
兄義久に従って各地で功があったと思われるが、耳川や沖田畷、戸次川の戦いなどでも名前が見えない。武略に優れた家久と比べて知略に優れていたという評価もあり、兄弟の傍らで参謀的役割を果たしていたと思われる。
秀吉が九州に攻め込んでくると、義久は秀吉に降伏したが、歳久は最後まで抵抗し、秀吉の駕籠に矢を射かけ、その後も病気を理由に出仕しなかった。1592年、朝鮮出兵にも従軍しなかった。同年、島津家の梅北国兼が秀吉に対して反乱を起こすと(梅北一揆)、歳久の家臣が多く参加したため、秀吉の怒りを買い、義久に歳久を処罰することを厳命した。これにより歳久は竜ヶ水で自害した。

© 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
秀吉に非協力的なところは毛利家の吉川元春にも通じるが、最後まで反抗し続けたため、粛清された。
054 島津家久 【しまづいえひさ】 1547-87
幼名は又七郎。中務大輔。永吉島津家の祖。貴久の四男。島津家中には武勇に秀でた武将が多いが、その中でも最強は家久ではなかったか。大友氏との耳川の戦い、龍造寺氏との沖田畷の戦い、秀吉軍との戸次川の戦い、この三つの戦捷(勝利)は評価するに値する。
耳川の戦い(高城川の戦い)
日向の伊東義祐は島津氏に敗れて、大友宗麟を頼る。1578年、大友宗麟は六万と称する大軍(実際はその半分程度とされる)を率いて日向に侵攻。大友軍は高城の山田有信を囲むが、これに援軍としてかけつけたのが家久である。
大友軍は、さらに救援に訪れた島津氏の本隊を、高城川を渡河して攻撃、一時は島津軍を後退させたが、逆に東から島津義弘らに、西からは城兵に攻撃される。三方から攻撃された大友軍は潰走し敗北、川で溺死する者も多かった。
沖田畷の戦い(1584年)
大友氏の没落後に勢力を伸ばしたのが龍造寺隆信である。有馬晴信は隆信に従っていたが離反、隆信は五万七千(これも諸説ある)の大軍を率いて晴信を攻める。晴信は島津氏に援軍を求めたが、これに総大将として派遣されたのが家久である。島津家中には慎重論も根強く、家久につけられた兵は三千のみであった。晴信の兵五千と合わせて八千の寡兵である。
数的優位から龍造寺軍は一気に攻勢に出るが、有馬・島津連合軍は地形を生かし、隘路に誘い込んで包囲(釣り野伏せ、後退を装って敵を誘い出すと左右から伏兵が襲い掛かる戦法)、そんな中、あろうことか総大将の隆信が川上忠堅(左京亮)に討ち取られてしまう。隆信の戦死を聞いた龍造寺軍は撤退、連合軍は勝利を収める。
戸次川の戦い(1586年)
島津軍の北上により滅亡寸前に追い込まれた大友宗麟は大坂に赴き、秀吉に救援を求めた。当時、家康と対峙していた秀吉は援軍として、長宗我部氏や十河氏といった四国勢を豊後に遣わした。これを迎え撃ったのが家久である。得意の釣り野伏せを仕掛けた家久の攻撃により、長宗我部信親(元親の嫡子)、十河存保は戦死、軍監としてつけられていた仙石秀久は逃亡し、のち責任を問われて改易される。
しかし、こののち、家康と和睦した秀吉が二十万を超える大軍で九州に攻め込む。秀長が日向に入ると家久は降伏したが、秀長との会見直後に急死。秀長による毒殺の噂が立った。

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関ヶ原で島津軍の殿を務めて討死した豊久は子に当たる。
053 島津歳久 【しまづとしひさ】 1537-92
又六郎、左衛門督、金吾(左衛門督の唐名が「金吾」である。小早川秀秋と同じ。水戸黄門の「黄門」も中納言の唐名である)。日置島津家の祖。貴久の三男。
兄義久に従って各地で功があったと思われるが、耳川や沖田畷、戸次川の戦いなどでも名前が見えない。武略に優れた家久と比べて知略に優れていたという評価もあり、兄弟の傍らで参謀的役割を果たしていたと思われる。
秀吉が九州に攻め込んでくると、義久は秀吉に降伏したが、歳久は最後まで抵抗し、秀吉の駕籠に矢を射かけ、その後も病気を理由に出仕しなかった。1592年、朝鮮出兵にも従軍しなかった。同年、島津家の梅北国兼が秀吉に対して反乱を起こすと(梅北一揆)、歳久の家臣が多く参加したため、秀吉の怒りを買い、義久に歳久を処罰することを厳命した。これにより歳久は竜ヶ水で自害した。
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秀吉に非協力的なところは毛利家の吉川元春にも通じるが、最後まで反抗し続けたため、粛清された。
054 島津家久 【しまづいえひさ】 1547-87
幼名は又七郎。中務大輔。永吉島津家の祖。貴久の四男。島津家中には武勇に秀でた武将が多いが、その中でも最強は家久ではなかったか。大友氏との耳川の戦い、龍造寺氏との沖田畷の戦い、秀吉軍との戸次川の戦い、この三つの戦捷(勝利)は評価するに値する。
耳川の戦い(高城川の戦い)
日向の伊東義祐は島津氏に敗れて、大友宗麟を頼る。1578年、大友宗麟は六万と称する大軍(実際はその半分程度とされる)を率いて日向に侵攻。大友軍は高城の山田有信を囲むが、これに援軍としてかけつけたのが家久である。
大友軍は、さらに救援に訪れた島津氏の本隊を、高城川を渡河して攻撃、一時は島津軍を後退させたが、逆に東から島津義弘らに、西からは城兵に攻撃される。三方から攻撃された大友軍は潰走し敗北、川で溺死する者も多かった。
沖田畷の戦い(1584年)
大友氏の没落後に勢力を伸ばしたのが龍造寺隆信である。有馬晴信は隆信に従っていたが離反、隆信は五万七千(これも諸説ある)の大軍を率いて晴信を攻める。晴信は島津氏に援軍を求めたが、これに総大将として派遣されたのが家久である。島津家中には慎重論も根強く、家久につけられた兵は三千のみであった。晴信の兵五千と合わせて八千の寡兵である。
数的優位から龍造寺軍は一気に攻勢に出るが、有馬・島津連合軍は地形を生かし、隘路に誘い込んで包囲(釣り野伏せ、後退を装って敵を誘い出すと左右から伏兵が襲い掛かる戦法)、そんな中、あろうことか総大将の隆信が川上忠堅(左京亮)に討ち取られてしまう。隆信の戦死を聞いた龍造寺軍は撤退、連合軍は勝利を収める。
戸次川の戦い(1586年)
島津軍の北上により滅亡寸前に追い込まれた大友宗麟は大坂に赴き、秀吉に救援を求めた。当時、家康と対峙していた秀吉は援軍として、長宗我部氏や十河氏といった四国勢を豊後に遣わした。これを迎え撃ったのが家久である。得意の釣り野伏せを仕掛けた家久の攻撃により、長宗我部信親(元親の嫡子)、十河存保は戦死、軍監としてつけられていた仙石秀久は逃亡し、のち責任を問われて改易される。
しかし、こののち、家康と和睦した秀吉が二十万を超える大軍で九州に攻め込む。秀長が日向に入ると家久は降伏したが、秀長との会見直後に急死。秀長による毒殺の噂が立った。
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関ヶ原で島津軍の殿を務めて討死した豊久は子に当たる。
うわ、岩倉(小堺一機)
会津を苦しめたのは家康の措置だった、と書くとさかのぼりすぎるのだが…。
幕府を恨み続けた毛利家
討幕となると薩長を思い浮かべるが、薩摩はもともと佐幕派(幕府を助ける)で、討幕に転じたのは薩長同盟以後である。討幕に立ち上がったのは、最初は長州一藩だけだったのである。
長州が幕府を深く恨んだのは、関ヶ原の戦後処理のためである。人のいい毛利輝元は、西軍の総大将に担ぎ出されたが、西軍は本戦で敗北。輝元は戦闘には直接かかわらなかったが、所領安堵の約束を反故にされ、中国地方百二十万石から、防長二国、三十六万石へと大減封されてしまう。毛利家では正月になると藩主と家老の間で次のようなやり取りが交わされていたという。
家老「徳川討伐の支度が整いましてございます、いかがいたしましょうか」
藩主「いや、時期尚早である」
事実かどうかはともかく、まさに臥薪嘗胆である。毛利家を改易にしていたら、幕末の歴史も変わっていたのだろうが、仮定が過ぎるか。
御三家、水戸の尊王思想
宗家が絶えた時に備えて家康が作っておいたのが御三家であるが、獅子身中の虫、と言えるのがその御三家のひとつ、水戸家である。水戸黄門、こと徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂が尊王思想を喚起して、これが討幕と結びついてしまうのが歴史の皮肉なところである。
御三家といっても、水戸は少し格が落ちる。八代将軍を巡っては紀州と尾張で凄絶な争いが繰り広げられるが、紀州(吉宗)が勝利し、吉宗は御三卿を作って、紀州の血統が将軍家を継ぐことを目指した。ところが、御三卿も後継者がいなくなり、養子に迎えられたのが水戸家出身の慶喜である。将軍に就くことがありえなかった、水戸家の出身者が将軍になる道が開かれたのである。
慶喜が将軍であったから、江戸城の無血開城など、幕末の戦乱はあの程度で済んだ、という見方もできるのだが、新政府軍の振り上げた拳は会津に落ちることになる。
佐竹家の去就
関ヶ原で勝利した家康は、関東の支配を確固たるものにしようと、常陸の佐竹家を出羽に追いやってしまう。維新時の東北では、会津藩の赦免を嘆願すべく、奥羽越列藩同盟が結成されたが、その中で勤皇(新政府)側の態度を取ったのが佐竹家(秋田藩)である。東北諸藩が一致した態度を取っていれば、歴史も少しは変わっていたのかもしれないが、とまた「たら、れば」の話。
会津を苦しめたのは家康の措置だった、と書くとさかのぼりすぎるのだが…。
幕府を恨み続けた毛利家
討幕となると薩長を思い浮かべるが、薩摩はもともと佐幕派(幕府を助ける)で、討幕に転じたのは薩長同盟以後である。討幕に立ち上がったのは、最初は長州一藩だけだったのである。
長州が幕府を深く恨んだのは、関ヶ原の戦後処理のためである。人のいい毛利輝元は、西軍の総大将に担ぎ出されたが、西軍は本戦で敗北。輝元は戦闘には直接かかわらなかったが、所領安堵の約束を反故にされ、中国地方百二十万石から、防長二国、三十六万石へと大減封されてしまう。毛利家では正月になると藩主と家老の間で次のようなやり取りが交わされていたという。
家老「徳川討伐の支度が整いましてございます、いかがいたしましょうか」
藩主「いや、時期尚早である」
事実かどうかはともかく、まさに臥薪嘗胆である。毛利家を改易にしていたら、幕末の歴史も変わっていたのだろうが、仮定が過ぎるか。
御三家、水戸の尊王思想
宗家が絶えた時に備えて家康が作っておいたのが御三家であるが、獅子身中の虫、と言えるのがその御三家のひとつ、水戸家である。水戸黄門、こと徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂が尊王思想を喚起して、これが討幕と結びついてしまうのが歴史の皮肉なところである。
御三家といっても、水戸は少し格が落ちる。八代将軍を巡っては紀州と尾張で凄絶な争いが繰り広げられるが、紀州(吉宗)が勝利し、吉宗は御三卿を作って、紀州の血統が将軍家を継ぐことを目指した。ところが、御三卿も後継者がいなくなり、養子に迎えられたのが水戸家出身の慶喜である。将軍に就くことがありえなかった、水戸家の出身者が将軍になる道が開かれたのである。
慶喜が将軍であったから、江戸城の無血開城など、幕末の戦乱はあの程度で済んだ、という見方もできるのだが、新政府軍の振り上げた拳は会津に落ちることになる。
佐竹家の去就
関ヶ原で勝利した家康は、関東の支配を確固たるものにしようと、常陸の佐竹家を出羽に追いやってしまう。維新時の東北では、会津藩の赦免を嘆願すべく、奥羽越列藩同盟が結成されたが、その中で勤皇(新政府)側の態度を取ったのが佐竹家(秋田藩)である。東北諸藩が一致した態度を取っていれば、歴史も少しは変わっていたのかもしれないが、とまた「たら、れば」の話。
婚活のことを相談している女性に、
告白するには場所と雰囲気が必要ですよね、と言われていましたが、
今日はこちらが場所を選べたのに、
雰囲気を持って行けなくて、告白できずじまいでした。
意気地なし。
二人きりになれて雰囲気(ムード)のある場所。
夕食をしながらでもいいと思うのですが、
レストランならともかく、居酒屋ではなあ…。
見晴らしのいい展望台とか、
ドライブデート(車の中)とかね。
もやもや。
告白するには場所と雰囲気が必要ですよね、と言われていましたが、
今日はこちらが場所を選べたのに、
雰囲気を持って行けなくて、告白できずじまいでした。
意気地なし。
二人きりになれて雰囲気(ムード)のある場所。
夕食をしながらでもいいと思うのですが、
レストランならともかく、居酒屋ではなあ…。
見晴らしのいい展望台とか、
ドライブデート(車の中)とかね。
もやもや。
「サントリー・サタデー・ウェイティング・バー AVANTI」、終わった…。
録音を聴いています。
ツイッターのTLがそれほど流れてこないなあ。
あんまり普通すぎて(最終回なのにいつも通りの番組で)泣けないや。
そのことに泣ける。
また今度の週末に。
録音を聴いています。
ツイッターのTLがそれほど流れてこないなあ。
あんまり普通すぎて(最終回なのにいつも通りの番組で)泣けないや。
そのことに泣ける。
また今度の週末に。