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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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うわ、岩倉(小堺一機)
 
会津を苦しめたのは家康の措置だった、と書くとさかのぼりすぎるのだが…。
 
幕府を恨み続けた毛利家
討幕となると薩長を思い浮かべるが、薩摩はもともと佐幕派(幕府を助ける)で、討幕に転じたのは薩長同盟以後である。討幕に立ち上がったのは、最初は長州一藩だけだったのである。
 
長州が幕府を深く恨んだのは、関ヶ原の戦後処理のためである。人のいい毛利輝元は、西軍の総大将に担ぎ出されたが、西軍は本戦で敗北。輝元は戦闘には直接かかわらなかったが、所領安堵の約束を反故にされ、中国地方百二十万石から、防長二国、三十六万石へと大減封されてしまう。毛利家では正月になると藩主と家老の間で次のようなやり取りが交わされていたという。
 
家老「徳川討伐の支度が整いましてございます、いかがいたしましょうか」
藩主「いや、時期尚早である」
 
事実かどうかはともかく、まさに臥薪嘗胆である。毛利家を改易にしていたら、幕末の歴史も変わっていたのだろうが、仮定が過ぎるか。
 
御三家、水戸の尊王思想
宗家が絶えた時に備えて家康が作っておいたのが御三家であるが、獅子身中の虫、と言えるのがその御三家のひとつ、水戸家である。水戸黄門、こと徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂が尊王思想を喚起して、これが討幕と結びついてしまうのが歴史の皮肉なところである。
 
御三家といっても、水戸は少し格が落ちる。八代将軍を巡っては紀州と尾張で凄絶な争いが繰り広げられるが、紀州(吉宗)が勝利し、吉宗は御三卿を作って、紀州の血統が将軍家を継ぐことを目指した。ところが、御三卿も後継者がいなくなり、養子に迎えられたのが水戸家出身の慶喜である。将軍に就くことがありえなかった、水戸家の出身者が将軍になる道が開かれたのである。
 
慶喜が将軍であったから、江戸城の無血開城など、幕末の戦乱はあの程度で済んだ、という見方もできるのだが、新政府軍の振り上げた拳は会津に落ちることになる。
 
佐竹家の去就
関ヶ原で勝利した家康は、関東の支配を確固たるものにしようと、常陸の佐竹家を出羽に追いやってしまう。維新時の東北では、会津藩の赦免を嘆願すべく、奥羽越列藩同盟が結成されたが、その中で勤皇(新政府)側の態度を取ったのが佐竹家(秋田藩)である。東北諸藩が一致した態度を取っていれば、歴史も少しは変わっていたのかもしれないが、とまた「たら、れば」の話。
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