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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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昨日のNHK「歴史秘話ヒストリア」ですが、

小和田哲男(昔と今とで言うことがコロッと変わる)がしつこく出てくるのと、

築山殿事件の扱いにこらえかねて途中で寝ましたw


信長は信康に嫁いでいた娘五徳から、姑の築山殿と仲が悪く、信康とも不仲になった、という手紙をもらったため、家康の重臣である酒井忠次を呼んで、真偽を質しましたが、忠次は弁明をしませんでした。ただ、信康に切腹を命じたわけではありませんし(処分は家康にまかせている)、築山殿の処分も求めていません。

武田信玄と義信のように派閥抗争だと思うんですよね。浜松の家康派と岡崎の信康派の。

それほどまでに惜しい人物で、信長の命によって無念の死を遂げたとすれば、信長が死んだあと、それがはばかられるなら天下を取ったあとにでも、信康の墓を厚く改葬すればいいものを、家康はそんなことはしていません。酒井忠次も少なくとも表向きは処分されることなく重臣として活躍を続けます(忠次が息子の所領が少ないと家康にぐちったときに、「お前も子がかわいいか」と家康が言ったという逸話がある)。

信長が自分の嫡男信忠よりも信康の器量の方が優れていると考えて、信康を殺すように促したというのもとんだとばっちりです。信忠は最後の判断を誤りましたが、信長の後継者としては十分な能力を有した人物でした。

信康は乱行だったという話もありますが、家康とその子らにはたまに狂気の血が出るんですよね。長男信康、次男秀康、秀康の子忠直、六男忠輝、家光の弟忠長などがその例です。

詳しくは、徳川信康(このように表記されるようになったのは最近。かつては「松平信康」と表記されたが、徳川家康の嫡男が徳川を名乗らないのはおかしい)を取り上げる機会があったときに。



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酒井氏は松平氏と親戚関係にあり、忠次自身も家康の縁戚に当たる。徳川四天王の筆頭である。
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