兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
199 豊臣秀吉 【とよとみひでよし】
■秀吉の改易・1(全4回)
秀吉が朝鮮出兵をせず内政に専念して、徳川幕府のように改易政策を取ったらどうなっていたか、豊臣政権の強化が図れたか、という見方(「たられば」の話だが)がある。もちろん、当時の国内状況からすれば、天下統一のために働いた兵士に明日から農民に戻れと言うのは困難であるから、対外出兵しないという仮定自体が難しいだろう。
政策として存在していたか、組織として行っていたか、というところには疑問符がつくが、秀吉も徳川幕府ほどではないが、いくつかの大名に対して改易や転封(移封)、減封などを行っている。味方した大名をすべてそのままにしておいたわけではない。九州攻めにおける島津氏や小田原攻めにおける北条氏など、戦後処理で改易、減封された大名、および豊臣秀次や秀次に連座した大名、大和大納言家(秀長の系統)など身内に対するものを除けば以下の通りである。代表的なものを取り上げた。
※名前の下は順に、処分があった年、処分内容、所領の変動
徳川家康 【とくがわいえやす】 1542-1616
1590年、加転封、三河ほか百五十万石→武蔵ほか二百五十万石
純粋に加増と見なす見方もあり、処罰的なものではない。しかし、家康の家臣の大半が代々所有してきた土地からの移封に反対だったこと、北条氏の遺風が残る関東は治めるのに難しいと思われたこと(北条氏の年貢は四公六民と低く、徳川幕府になっても吉宗の代まで改めることができなかったという)、また、秀吉が家康を中央から遠ざけようとしたのではないかという説もあることなどから、単純な加増とは見ない向きも少なくない。ただ、家康自身は転封で家臣の在地性を断ち切ることができ、直轄地も増やすことができたことから、内心は乗り気だったという説もある。同様の見方は上杉景勝(越後から会津への加増転封)についてもできる。
織田信雄 【おだのぶかつ】 1558-1630
1590年、転封拒否、尾張ほか百万石→改易
信長の二男だが、父に似ぬ暗愚な人物と言われる。本能寺の変の時は伊勢にいたが、近江までしか軍を進められず、父の弔い合戦には参加できなかった。その後は清洲会議で弟信孝と織田家の後継を巡って対立するが、信長の嫡孫三法師を擁する秀吉の台頭を招く。尾張、伊賀、伊勢で約百万石を領し、信孝は葬ったが、秀吉と対立するに至り、家康と結んで小牧長久手の戦いとなる。自分から家康を誘っておきながら、秀吉との対陣が長引くと自分だけ単独で講和してしまい、家康を憤慨させた。小田原攻めの後、家康の旧領である三河、遠江、駿河、信濃、甲斐五国、約百五十万石への転封を拒否したため、秀吉の怒りを買って下野烏山に配流された。家康の例でもわかるが、加増されたとしても、先祖伝来の土地を離れるのには抵抗があったようである。また、秀吉から領地を賜れば、完全に秀吉に家臣化されてしまうことも国替えを拒否した理由の一つであろう。
199 豊臣秀吉 【とよとみひでよし】
■秀吉の改易・1(全4回)
秀吉が朝鮮出兵をせず内政に専念して、徳川幕府のように改易政策を取ったらどうなっていたか、豊臣政権の強化が図れたか、という見方(「たられば」の話だが)がある。もちろん、当時の国内状況からすれば、天下統一のために働いた兵士に明日から農民に戻れと言うのは困難であるから、対外出兵しないという仮定自体が難しいだろう。
政策として存在していたか、組織として行っていたか、というところには疑問符がつくが、秀吉も徳川幕府ほどではないが、いくつかの大名に対して改易や転封(移封)、減封などを行っている。味方した大名をすべてそのままにしておいたわけではない。九州攻めにおける島津氏や小田原攻めにおける北条氏など、戦後処理で改易、減封された大名、および豊臣秀次や秀次に連座した大名、大和大納言家(秀長の系統)など身内に対するものを除けば以下の通りである。代表的なものを取り上げた。
※名前の下は順に、処分があった年、処分内容、所領の変動
徳川家康 【とくがわいえやす】 1542-1616
1590年、加転封、三河ほか百五十万石→武蔵ほか二百五十万石
純粋に加増と見なす見方もあり、処罰的なものではない。しかし、家康の家臣の大半が代々所有してきた土地からの移封に反対だったこと、北条氏の遺風が残る関東は治めるのに難しいと思われたこと(北条氏の年貢は四公六民と低く、徳川幕府になっても吉宗の代まで改めることができなかったという)、また、秀吉が家康を中央から遠ざけようとしたのではないかという説もあることなどから、単純な加増とは見ない向きも少なくない。ただ、家康自身は転封で家臣の在地性を断ち切ることができ、直轄地も増やすことができたことから、内心は乗り気だったという説もある。同様の見方は上杉景勝(越後から会津への加増転封)についてもできる。
織田信雄 【おだのぶかつ】 1558-1630
1590年、転封拒否、尾張ほか百万石→改易
信長の二男だが、父に似ぬ暗愚な人物と言われる。本能寺の変の時は伊勢にいたが、近江までしか軍を進められず、父の弔い合戦には参加できなかった。その後は清洲会議で弟信孝と織田家の後継を巡って対立するが、信長の嫡孫三法師を擁する秀吉の台頭を招く。尾張、伊賀、伊勢で約百万石を領し、信孝は葬ったが、秀吉と対立するに至り、家康と結んで小牧長久手の戦いとなる。自分から家康を誘っておきながら、秀吉との対陣が長引くと自分だけ単独で講和してしまい、家康を憤慨させた。小田原攻めの後、家康の旧領である三河、遠江、駿河、信濃、甲斐五国、約百五十万石への転封を拒否したため、秀吉の怒りを買って下野烏山に配流された。家康の例でもわかるが、加増されたとしても、先祖伝来の土地を離れるのには抵抗があったようである。また、秀吉から領地を賜れば、完全に秀吉に家臣化されてしまうことも国替えを拒否した理由の一つであろう。
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