兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
■上杉謙信5 謙信と信玄(前編)
「敵に塩を送る」の美談
あまりに有名で手垢のついた逸話と言えるが、紹介するとこんなところである。
信玄が今川氏真との盟約を破り駿河攻めを始めると、氏真は義父(妻の父)である相模の北条氏康と示し合わせて、海のない甲斐や信濃への塩の輸送を止めさせた。「塩留(しおどめ)」を行ったのである。塩は生活の必需品であり、信玄はひどく難渋したと言うが、これを聞いた謙信、信玄とは長年争っていたにもかかわらず、さっそく商人に命じて大量の塩を甲斐や信濃へ送らせた。
謙信は「我は兵をもって戦いを決せん、塩をもって敵を屈せしむることをせじ」、信玄とは合戦によって勝敗を争いたい、と言ったという。
実のところ、甲斐や信濃には東海方面以外にも塩の輸送路はあり、信玄は塩止めにそれほど困っていなかったという話もある。また、謙信も塩を送らせたというより、あえて塩の輸送を止めさせなかっただけという話もある。塩を止めれば困るのは商人である。
もう一つ。両雄の戦いとして有名なのが、川中島の戦いである。実際に干戈を交えたのは二回、にらみ合いも含めて五回戦ったという説が一般的で、広く知られているのが第四回の戦いである。
ところが、この第四回の戦い、八幡原の戦いとも言うが、記録からはっきりしていることは少ない。1561年の九月十日に両軍が戦って損害が出たこと、信玄の弟典厩信繁が戦死したこと、謙信(当時は上杉政虎)みずからが太刀を振るったこと(信玄と一騎打ちしたのではない)、くらいである。信頼できる記録がほとんどないため、『甲陽軍鑑』のような評価の定まらない書物や後世に書かれた軍記物に頼って戦況が書かれているのが実状である。
妻女山に布陣できない謙信
「城」と言っても、石垣に天守閣のあるような姫路城のような城を連想すると、この時代の城の理解を誤る。政庁としての城ならば平地に単独で築いてもいいだろうが、戦国時代の城となれば、山や川などの天然の地形を利用した軍事的な施設がもっぱらである。また、複数の城や砦が連携している場合も多く、武田氏は躑躅ヶ崎館の詰めの城として後方に要害山城を備えていたし、北条氏は関東に支城網を築いていた。川中島にある武田方の海津城も城砦群の中の一つの城で、後背の山には多くの城砦が築かれていた。
そんな中を上杉軍が「すり抜けて」妻女山に布陣するのは不可能である。妻女山自体も大きい山ではない。万を超える軍勢が布陣するには適していない。布陣したとしても、周囲を囲んでいる、より高いところにある武田方の城砦からの攻撃を受けることは間違いない。武田軍のきつつき戦法も、狭い山道を一万以上の別働隊が上って行って、相手に気付かれないように攻撃できるか疑問である。上杉軍が山上で待ち構えていたら、次々と各個撃破されるだけではないか。あの信玄にしては兵力分散の愚を犯しているし、万の軍勢に物見(偵察)の兵もなく、上杉軍の転進に気付かないのは奇妙すぎる。
きつつき戦法が存在しないのだから、炊事の煙で出陣を見抜いたという謙信の神懸かり的な用兵も実話ではない。
妻女山に布陣したのは景勝?
本能寺の変後、旧武田領である甲斐や信濃、上野では織田家の支配が崩壊し、北条や徳川、上杉の軍勢が攻め入ったが、このとき景勝が布陣したのが妻女山であり、この話が混同されたという説もある。
(後編に続く)
■上杉謙信5 謙信と信玄(前編)
「敵に塩を送る」の美談
あまりに有名で手垢のついた逸話と言えるが、紹介するとこんなところである。
信玄が今川氏真との盟約を破り駿河攻めを始めると、氏真は義父(妻の父)である相模の北条氏康と示し合わせて、海のない甲斐や信濃への塩の輸送を止めさせた。「塩留(しおどめ)」を行ったのである。塩は生活の必需品であり、信玄はひどく難渋したと言うが、これを聞いた謙信、信玄とは長年争っていたにもかかわらず、さっそく商人に命じて大量の塩を甲斐や信濃へ送らせた。
謙信は「我は兵をもって戦いを決せん、塩をもって敵を屈せしむることをせじ」、信玄とは合戦によって勝敗を争いたい、と言ったという。
実のところ、甲斐や信濃には東海方面以外にも塩の輸送路はあり、信玄は塩止めにそれほど困っていなかったという話もある。また、謙信も塩を送らせたというより、あえて塩の輸送を止めさせなかっただけという話もある。塩を止めれば困るのは商人である。
もう一つ。両雄の戦いとして有名なのが、川中島の戦いである。実際に干戈を交えたのは二回、にらみ合いも含めて五回戦ったという説が一般的で、広く知られているのが第四回の戦いである。
ところが、この第四回の戦い、八幡原の戦いとも言うが、記録からはっきりしていることは少ない。1561年の九月十日に両軍が戦って損害が出たこと、信玄の弟典厩信繁が戦死したこと、謙信(当時は上杉政虎)みずからが太刀を振るったこと(信玄と一騎打ちしたのではない)、くらいである。信頼できる記録がほとんどないため、『甲陽軍鑑』のような評価の定まらない書物や後世に書かれた軍記物に頼って戦況が書かれているのが実状である。
妻女山に布陣できない謙信
「城」と言っても、石垣に天守閣のあるような姫路城のような城を連想すると、この時代の城の理解を誤る。政庁としての城ならば平地に単独で築いてもいいだろうが、戦国時代の城となれば、山や川などの天然の地形を利用した軍事的な施設がもっぱらである。また、複数の城や砦が連携している場合も多く、武田氏は躑躅ヶ崎館の詰めの城として後方に要害山城を備えていたし、北条氏は関東に支城網を築いていた。川中島にある武田方の海津城も城砦群の中の一つの城で、後背の山には多くの城砦が築かれていた。
そんな中を上杉軍が「すり抜けて」妻女山に布陣するのは不可能である。妻女山自体も大きい山ではない。万を超える軍勢が布陣するには適していない。布陣したとしても、周囲を囲んでいる、より高いところにある武田方の城砦からの攻撃を受けることは間違いない。武田軍のきつつき戦法も、狭い山道を一万以上の別働隊が上って行って、相手に気付かれないように攻撃できるか疑問である。上杉軍が山上で待ち構えていたら、次々と各個撃破されるだけではないか。あの信玄にしては兵力分散の愚を犯しているし、万の軍勢に物見(偵察)の兵もなく、上杉軍の転進に気付かないのは奇妙すぎる。
きつつき戦法が存在しないのだから、炊事の煙で出陣を見抜いたという謙信の神懸かり的な用兵も実話ではない。
妻女山に布陣したのは景勝?
本能寺の変後、旧武田領である甲斐や信濃、上野では織田家の支配が崩壊し、北条や徳川、上杉の軍勢が攻め入ったが、このとき景勝が布陣したのが妻女山であり、この話が混同されたという説もある。
(後編に続く)
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