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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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剣豪としての伝承に彩られていて実像ははっきりしない。

「戦国人物紹介」

019 上泉信綱 
【かみいずみのぶつな】 1508?-1573?

初め秀綱。『甲陽軍鑑』では信玄(晴信)から一字をもらって信綱に改めたという。伊勢守、武蔵守。従四位下。「こういずみ」と読む場合もある。

長野業正、業盛に仕えて戦功多く、長野十六本槍の一人、また上野国一本槍の感状を受ける。愛洲陰流、神道流、念流など多くの武芸を極めて新陰流を創始する。

箕輪城が陥落すると、信玄に仕官を勧められたが固辞し、諸国を流浪し新陰流を創始した。上洛し、大和で剣術を柳生宗厳に、槍術を宝蔵院胤栄に伝授したという。またタイ捨流の祖である丸目蔵人佐長恵にも新陰流の免許を与えている。公家たちにも武芸を伝え、剣術も披露したと伝わる。剣豪将軍として知られる足利義輝(十三代将軍)にも剣術を伝授したという。

1563年に箕輪城が落城したとすれば、一時信玄に仕えて、武者修行の旅に出るために武田家を辞し、足利義輝の生前(1565年に死去)に剣術を伝授したというのは年代的には合う。しかし、近年では1566年落城説もあり、そうすると、箕輪城落城以前から諸国を流浪したことになり、足利義輝に剣術を伝授した話も年代的に合わない。

子秀胤は北条氏に仕え、国府台合戦で戦死。その子泰綱は関ヶ原の戦いで上杉氏に仕え、最上氏との戦いで戦死したという。









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剣聖だけど、個人技と足軽を率いる能力とはまた別のような気が・・・。過去の「信長の野望」シリーズにおける剣豪は兵科能力オールEと全滅しているのが特徴(のちのシリーズではほどよくパワーアップ)
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