兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
増補「関ヶ原の戦い・大名一覧」
- 松前慶広 【まつまえよしひろ】 天文十六年(1547)-元和二年(1616) 志摩守
■1.本拠、石高
福山陣屋、無高(後世一万石格、維新時三万石格)
■2.略歴
幼名は天才丸、通称は新三郎、民部大輔。文禄二年(1593)、従五位下、志摩守。慶長九年(1604)、従五位下、伊豆守。若狭守季広の三男。母は河野弥治郎右衛門季通の娘。
松前氏は清和源氏若狭武田氏流の信広を始祖とし、代々蠣崎(かきざき)氏を称した。天正十八年(1590)、主筋に当たる安東(秋田)実季とともに上洛して、同年十二月二十九日(西暦ではすでに1591年)、聚楽第で秀吉に謁した。翌年の九戸政実の乱にはアイヌ兵を連れて従軍したという。
文禄元年(1592)、朝鮮出兵に際しては、はるばる肥前名護屋まで参陣、翌年、蝦夷地支配の安堵を受ける。これにより名実ともに安東氏(秋田氏)からの独立を果たした。秀吉死後は家康に接近する。慶長四年十一月七日(1599年)、家康に家譜と蝦夷地の地図を献上し、姓も「松前」に改める。これは松平(徳川)と前田から一字ずつ取ったとも言われるが、すでに「松前」の地名は存在しており、もとは地名に由来していると考えられる。
以前に「羽柴」についての考察のところで書いた。
http://naraku.or-hell.com/Entry/427/
■3.関ヶ原の戦いでの動向
慶長五年三月十五日、帰国を許されており、関ヶ原の戦いの時には在国していたと思われる。戦いへの直接の関与は不明。
■4.その後
慶長九年、アイヌ交易の独占権を認められ、また従五位下、伊豆守に叙任される。慶長二十年、老齢にも関わらず大坂の陣に従軍。この際、二男の忠広をともなっている。忠広はこれに先立って、慶長九年から秀忠に仕えており、旗本となった。翌元和二年(1616)十月十二日、松前にて死去。六十九歳(生年は没年からの逆算、数え年)。法名は永泉。妻は家臣である村上三河季儀の娘。
長男盛広(初名守広)は慶長十三年、父に先立って死去。盛広の子公広が後を継いだ。四男由広は大坂の陣で豊臣秀頼に誼を通じたとして、慶長十九年、父によって殺されている。
松前氏は蝦夷島主として、幕府からは賓客扱いであったが、五代将軍徳川綱吉の代に交代寄合となり、享保四年(1719)には一万石格の大名扱いとされた。
蝦夷地警備上の問題から、寛政十一年(1799)、および文化四年(1807)に所領を陸奥梁川などに移され、蝦夷地には幕府から松前奉行が派遣されることになった。その後、復帰運動が実を結んで、文政四年(1821)には福山(松前)に戻った。
戊辰戦争では最後の戦場となり、一時は福山城も落城したが、新政府軍の反撃で奪回し廃藩を迎えた(廃藩時は館藩に移っている)

© 2010-2014 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
蠣崎季広 【かきざきすえひろ】 永正四年(1507)-文禄四年(1595)
松前慶広の父。卯鶴丸、彦太郎、若狭守。天文二十年(1551)、代々争ってきたアイヌと和睦。ハシタインを西蝦夷の奉行とし、チコモタインを東蝦夷の奉行とし、交易の法度も定めた。十三人の娘は家臣だけでなく、安東氏を初め、奥羽の諸豪族に嫁がせて、地位の強化を図った。これらはのちの松前氏の発展の基礎となった。
子慶広が秀吉から蝦夷地の支配を認められて直臣となったことをたいそう喜んだ。帰国した慶広に向かって「畏まって頭を低くして手を合わせ」「(自分は)河北檜山の屋形(安東氏)を主君と仰ぐのみ(だったが)、貴殿いま日本国の大将軍、太閤秀吉公の直忠臣と成れり」と言ったという(『新羅之記録』、原文は漢文。「新羅」は家祖とする新羅三郎義光のことで、義光は「八幡太郎」と呼ばれた源義家の弟)
- 松前慶広 【まつまえよしひろ】 天文十六年(1547)-元和二年(1616) 志摩守
■1.本拠、石高
福山陣屋、無高(後世一万石格、維新時三万石格)
■2.略歴
幼名は天才丸、通称は新三郎、民部大輔。文禄二年(1593)、従五位下、志摩守。慶長九年(1604)、従五位下、伊豆守。若狭守季広の三男。母は河野弥治郎右衛門季通の娘。
松前氏は清和源氏若狭武田氏流の信広を始祖とし、代々蠣崎(かきざき)氏を称した。天正十八年(1590)、主筋に当たる安東(秋田)実季とともに上洛して、同年十二月二十九日(西暦ではすでに1591年)、聚楽第で秀吉に謁した。翌年の九戸政実の乱にはアイヌ兵を連れて従軍したという。
文禄元年(1592)、朝鮮出兵に際しては、はるばる肥前名護屋まで参陣、翌年、蝦夷地支配の安堵を受ける。これにより名実ともに安東氏(秋田氏)からの独立を果たした。秀吉死後は家康に接近する。慶長四年十一月七日(1599年)、家康に家譜と蝦夷地の地図を献上し、姓も「松前」に改める。これは松平(徳川)と前田から一字ずつ取ったとも言われるが、すでに「松前」の地名は存在しており、もとは地名に由来していると考えられる。
以前に「羽柴」についての考察のところで書いた。
http://naraku.or-hell.com/Entry/427/
■3.関ヶ原の戦いでの動向
慶長五年三月十五日、帰国を許されており、関ヶ原の戦いの時には在国していたと思われる。戦いへの直接の関与は不明。
■4.その後
慶長九年、アイヌ交易の独占権を認められ、また従五位下、伊豆守に叙任される。慶長二十年、老齢にも関わらず大坂の陣に従軍。この際、二男の忠広をともなっている。忠広はこれに先立って、慶長九年から秀忠に仕えており、旗本となった。翌元和二年(1616)十月十二日、松前にて死去。六十九歳(生年は没年からの逆算、数え年)。法名は永泉。妻は家臣である村上三河季儀の娘。
長男盛広(初名守広)は慶長十三年、父に先立って死去。盛広の子公広が後を継いだ。四男由広は大坂の陣で豊臣秀頼に誼を通じたとして、慶長十九年、父によって殺されている。
松前氏は蝦夷島主として、幕府からは賓客扱いであったが、五代将軍徳川綱吉の代に交代寄合となり、享保四年(1719)には一万石格の大名扱いとされた。
蝦夷地警備上の問題から、寛政十一年(1799)、および文化四年(1807)に所領を陸奥梁川などに移され、蝦夷地には幕府から松前奉行が派遣されることになった。その後、復帰運動が実を結んで、文政四年(1821)には福山(松前)に戻った。
戊辰戦争では最後の戦場となり、一時は福山城も落城したが、新政府軍の反撃で奪回し廃藩を迎えた(廃藩時は館藩に移っている)
© 2010-2014 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
蠣崎季広 【かきざきすえひろ】 永正四年(1507)-文禄四年(1595)
松前慶広の父。卯鶴丸、彦太郎、若狭守。天文二十年(1551)、代々争ってきたアイヌと和睦。ハシタインを西蝦夷の奉行とし、チコモタインを東蝦夷の奉行とし、交易の法度も定めた。十三人の娘は家臣だけでなく、安東氏を初め、奥羽の諸豪族に嫁がせて、地位の強化を図った。これらはのちの松前氏の発展の基礎となった。
子慶広が秀吉から蝦夷地の支配を認められて直臣となったことをたいそう喜んだ。帰国した慶広に向かって「畏まって頭を低くして手を合わせ」「(自分は)河北檜山の屋形(安東氏)を主君と仰ぐのみ(だったが)、貴殿いま日本国の大将軍、太閤秀吉公の直忠臣と成れり」と言ったという(『新羅之記録』、原文は漢文。「新羅」は家祖とする新羅三郎義光のことで、義光は「八幡太郎」と呼ばれた源義家の弟)
PR
この記事にコメントする