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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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北海道はもはや秋の気配です。朝晩の風が涼しくなってきました。暑さの次に大雨というのも困りますが・・・。

「戦国人物紹介」

■コラム 諏訪氏 信玄に滅ぼされるが、のちに旧領復帰

諏訪氏は代々諏訪神社の上社の大祝(おおはふり)職を務めた一族。出自については諸説ある。のち諏訪満有の子信満の系統が武士としての諏訪氏を継ぎ(惣領家)、満有の弟頼満の系統が大祝家となった。また下社の大祝家である金刺氏も存在し、互いに争った。

満有-信満-政満-頼満-頼隆-頼重

諏訪頼重は大祝家を滅ぼして諏訪氏を統一するが、武田信虎の侵攻に遭い、和議を結んだ。信虎の三女禰々(ねね)御料人が諏訪頼重に嫁ぐが、信虎が追放されると、頼重は義兄である武田晴信(信玄)にだまし討ちにされ捕らえられる。のちに殺され、妹(諏訪御料人)は信玄の側室とされた。勝頼の母である。



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諏訪御料人 【すわごりょうにん】 1530?-55

兄を殺した信玄の側室となって最後の当主勝頼の母となった悲劇の人。

頼重のいとこである頼忠(1536-1605)は諸国を流浪したとも、信玄に仕えたともいうが、1582年の武田家滅亡後は信濃諏訪郡の高島城に入り、家康と敵対する。同年末に和議が成立し、翌年本領を安堵される。頼重が信玄に殺されてから、四十年後の本領復帰であった。

1585年、家康が真田昌幸の上田城を攻めたときには従軍し、先陣を務めて多くの家臣が戦死している。1590年、小田原攻め後に家督を子頼水に譲って隠居。関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務めた。

頼水(1571-1641)は家督を継ぐと、家康の関東移封に従って諏訪を離れる。武蔵国内で一万二千石を領し、のち上野総社に移る。関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、真田昌幸の上田城攻めに加わる。戦後、所領を諏訪郡高島に移され、二万七千石を与えられた。再び旧領に復帰したのである。

のち家康の六男松平忠輝が改易されると、身元を預けられた。また家光から杯を賜るなど徳川家から厚い信頼を受けた。「大猷院殿(家光)御譜弟(譜代)の輩二十六人を召れ(めされ=呼んで)、鶴を調理し御杯をたまひ、此輩特にたのもしくおほしめさるるのむね仰をかうぶる(頼もしく思っている旨、お言葉を賜った)。頼水もその列にあり(寛政譜)」

子孫は転封されずに江戸時代を生き抜く。幕末の藩主忠誠(ただまさ)は幕府の老中となっている。忠誠の子忠礼の代で廃藩を迎えた。
 

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