兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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武田家の最後は女性編。信玄の業の深さが武田家を、そして彼女たちを不幸にしていったように感じます。
「戦国人物紹介」
■武田家の女性たち
・黄梅院 【おうばいいん】 1543-69
信玄の長女。母は三条夫人。1554年、北条氏との関係強化のため、十二歳で北条氏政に嫁ぎ、氏直ら六人の子をもうける。しかし、1569年、武田家と北条家が敵対したため、離別、甲府へ帰された。同年出家したが、二十七歳で死去。信玄は幸の薄い娘のために寺を建立している。のちに氏政も武田家と再度同盟した際に、分骨を埋葬して手厚く弔っている。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
2012年6月追加の新武将カード。
・見性院 【けんしょういん】 1546?-1622
山内一豊の妻(千代・まつ)と同じ号。信玄の二女。母は三条夫人。信玄の姉の嫡男である穴山信君(梅雪)に嫁ぐ。勝千代をもうけるが、信君・勝千代と相次いで死別。その後は仏門に入り、家康の五男武田信吉や、秀忠が側室に産ませた子である保科正之(のちの会津藩主)を養育した。
・真理姫 【まりひめ】 1550-1647
信玄の三女。真竜院。木曾義昌の正室。木曾義昌の項を参照。
・菊姫 【きくひめ】 1558-1604
大儀院(だいぎいん)。信玄の四女(五女、六女説も)。母は油川氏。勝頼が上杉景勝と和睦した際に、景勝のもとへ嫁いだ。上杉家中では甲斐御前などと呼ばれた。武田家滅亡後も上杉家に残る。のち人質として京の伏見に住んだ。景勝との間に子はなく、不仲説もあるが信憑性は低い。

某アニメのキャラか? 他にも菊姫を名乗った女性は少なくないのだが。
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・松姫 【まつひめ】 1561-1616
信玄の五女(あるいは六女)。秋山信友の時に触れたが、七歳で信長の嫡子信忠と婚約。しかし両家の同盟解消により婚儀は破談となった。一時は実兄仁科盛信(信玄の五男)のところに身を寄せるが、1582年、武田家滅亡により八王子に隠棲する。直後、婚約者信忠が本能寺の変で死んだとの報せを聞いて仏門に入り信松尼(しんしょうに)と称す。1590年、武田旧臣で徳川家臣となった大久保長安の援助を得て八王子信松院を建立。
・武田勝頼室 1564-82
北条氏康の娘。名は不明。1577年、武田家との提携のため勝頼の継室として嫁ぐ。1582年二月、武田家の戦勝祈願の願文を残すが、すでに武田家の敗勢は濃くなっていた。翌三月、天目山で勝頼、勝頼の子信勝とともに自刃。
「戦国人物紹介」
■武田家の女性たち
・黄梅院 【おうばいいん】 1543-69
信玄の長女。母は三条夫人。1554年、北条氏との関係強化のため、十二歳で北条氏政に嫁ぎ、氏直ら六人の子をもうける。しかし、1569年、武田家と北条家が敵対したため、離別、甲府へ帰された。同年出家したが、二十七歳で死去。信玄は幸の薄い娘のために寺を建立している。のちに氏政も武田家と再度同盟した際に、分骨を埋葬して手厚く弔っている。
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2012年6月追加の新武将カード。
・見性院 【けんしょういん】 1546?-1622
山内一豊の妻(千代・まつ)と同じ号。信玄の二女。母は三条夫人。信玄の姉の嫡男である穴山信君(梅雪)に嫁ぐ。勝千代をもうけるが、信君・勝千代と相次いで死別。その後は仏門に入り、家康の五男武田信吉や、秀忠が側室に産ませた子である保科正之(のちの会津藩主)を養育した。
・真理姫 【まりひめ】 1550-1647
信玄の三女。真竜院。木曾義昌の正室。木曾義昌の項を参照。
・菊姫 【きくひめ】 1558-1604
大儀院(だいぎいん)。信玄の四女(五女、六女説も)。母は油川氏。勝頼が上杉景勝と和睦した際に、景勝のもとへ嫁いだ。上杉家中では甲斐御前などと呼ばれた。武田家滅亡後も上杉家に残る。のち人質として京の伏見に住んだ。景勝との間に子はなく、不仲説もあるが信憑性は低い。
某アニメのキャラか? 他にも菊姫を名乗った女性は少なくないのだが。
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・松姫 【まつひめ】 1561-1616
信玄の五女(あるいは六女)。秋山信友の時に触れたが、七歳で信長の嫡子信忠と婚約。しかし両家の同盟解消により婚儀は破談となった。一時は実兄仁科盛信(信玄の五男)のところに身を寄せるが、1582年、武田家滅亡により八王子に隠棲する。直後、婚約者信忠が本能寺の変で死んだとの報せを聞いて仏門に入り信松尼(しんしょうに)と称す。1590年、武田旧臣で徳川家臣となった大久保長安の援助を得て八王子信松院を建立。
・武田勝頼室 1564-82
北条氏康の娘。名は不明。1577年、武田家との提携のため勝頼の継室として嫁ぐ。1582年二月、武田家の戦勝祈願の願文を残すが、すでに武田家の敗勢は濃くなっていた。翌三月、天目山で勝頼、勝頼の子信勝とともに自刃。
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