兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
053 島津歳久 【しまづとしひさ】 1537-92
又六郎、左衛門督、金吾(左衛門督の唐名が「金吾」である。小早川秀秋と同じ。水戸黄門の「黄門」も中納言の唐名である)。日置島津家の祖。貴久の三男。
兄義久に従って各地で功があったと思われるが、耳川や沖田畷、戸次川の戦いなどでも名前が見えない。武略に優れた家久と比べて知略に優れていたという評価もあり、兄弟の傍らで参謀的役割を果たしていたと思われる。
秀吉が九州に攻め込んでくると、義久は秀吉に降伏したが、歳久は最後まで抵抗し、秀吉の駕籠に矢を射かけ、その後も病気を理由に出仕しなかった。1592年、朝鮮出兵にも従軍しなかった。同年、島津家の梅北国兼が秀吉に対して反乱を起こすと(梅北一揆)、歳久の家臣が多く参加したため、秀吉の怒りを買い、義久に歳久を処罰することを厳命した。これにより歳久は竜ヶ水で自害した。

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秀吉に非協力的なところは毛利家の吉川元春にも通じるが、最後まで反抗し続けたため、粛清された。
054 島津家久 【しまづいえひさ】 1547-87
幼名は又七郎。中務大輔。永吉島津家の祖。貴久の四男。島津家中には武勇に秀でた武将が多いが、その中でも最強は家久ではなかったか。大友氏との耳川の戦い、龍造寺氏との沖田畷の戦い、秀吉軍との戸次川の戦い、この三つの戦捷(勝利)は評価するに値する。
耳川の戦い(高城川の戦い)
日向の伊東義祐は島津氏に敗れて、大友宗麟を頼る。1578年、大友宗麟は六万と称する大軍(実際はその半分程度とされる)を率いて日向に侵攻。大友軍は高城の山田有信を囲むが、これに援軍としてかけつけたのが家久である。
大友軍は、さらに救援に訪れた島津氏の本隊を、高城川を渡河して攻撃、一時は島津軍を後退させたが、逆に東から島津義弘らに、西からは城兵に攻撃される。三方から攻撃された大友軍は潰走し敗北、川で溺死する者も多かった。
沖田畷の戦い(1584年)
大友氏の没落後に勢力を伸ばしたのが龍造寺隆信である。有馬晴信は隆信に従っていたが離反、隆信は五万七千(これも諸説ある)の大軍を率いて晴信を攻める。晴信は島津氏に援軍を求めたが、これに総大将として派遣されたのが家久である。島津家中には慎重論も根強く、家久につけられた兵は三千のみであった。晴信の兵五千と合わせて八千の寡兵である。
数的優位から龍造寺軍は一気に攻勢に出るが、有馬・島津連合軍は地形を生かし、隘路に誘い込んで包囲(釣り野伏せ、後退を装って敵を誘い出すと左右から伏兵が襲い掛かる戦法)、そんな中、あろうことか総大将の隆信が川上忠堅(左京亮)に討ち取られてしまう。隆信の戦死を聞いた龍造寺軍は撤退、連合軍は勝利を収める。
戸次川の戦い(1586年)
島津軍の北上により滅亡寸前に追い込まれた大友宗麟は大坂に赴き、秀吉に救援を求めた。当時、家康と対峙していた秀吉は援軍として、長宗我部氏や十河氏といった四国勢を豊後に遣わした。これを迎え撃ったのが家久である。得意の釣り野伏せを仕掛けた家久の攻撃により、長宗我部信親(元親の嫡子)、十河存保は戦死、軍監としてつけられていた仙石秀久は逃亡し、のち責任を問われて改易される。
しかし、こののち、家康と和睦した秀吉が二十万を超える大軍で九州に攻め込む。秀長が日向に入ると家久は降伏したが、秀長との会見直後に急死。秀長による毒殺の噂が立った。

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関ヶ原で島津軍の殿を務めて討死した豊久は子に当たる。
053 島津歳久 【しまづとしひさ】 1537-92
又六郎、左衛門督、金吾(左衛門督の唐名が「金吾」である。小早川秀秋と同じ。水戸黄門の「黄門」も中納言の唐名である)。日置島津家の祖。貴久の三男。
兄義久に従って各地で功があったと思われるが、耳川や沖田畷、戸次川の戦いなどでも名前が見えない。武略に優れた家久と比べて知略に優れていたという評価もあり、兄弟の傍らで参謀的役割を果たしていたと思われる。
秀吉が九州に攻め込んでくると、義久は秀吉に降伏したが、歳久は最後まで抵抗し、秀吉の駕籠に矢を射かけ、その後も病気を理由に出仕しなかった。1592年、朝鮮出兵にも従軍しなかった。同年、島津家の梅北国兼が秀吉に対して反乱を起こすと(梅北一揆)、歳久の家臣が多く参加したため、秀吉の怒りを買い、義久に歳久を処罰することを厳命した。これにより歳久は竜ヶ水で自害した。
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秀吉に非協力的なところは毛利家の吉川元春にも通じるが、最後まで反抗し続けたため、粛清された。
054 島津家久 【しまづいえひさ】 1547-87
幼名は又七郎。中務大輔。永吉島津家の祖。貴久の四男。島津家中には武勇に秀でた武将が多いが、その中でも最強は家久ではなかったか。大友氏との耳川の戦い、龍造寺氏との沖田畷の戦い、秀吉軍との戸次川の戦い、この三つの戦捷(勝利)は評価するに値する。
耳川の戦い(高城川の戦い)
日向の伊東義祐は島津氏に敗れて、大友宗麟を頼る。1578年、大友宗麟は六万と称する大軍(実際はその半分程度とされる)を率いて日向に侵攻。大友軍は高城の山田有信を囲むが、これに援軍としてかけつけたのが家久である。
大友軍は、さらに救援に訪れた島津氏の本隊を、高城川を渡河して攻撃、一時は島津軍を後退させたが、逆に東から島津義弘らに、西からは城兵に攻撃される。三方から攻撃された大友軍は潰走し敗北、川で溺死する者も多かった。
沖田畷の戦い(1584年)
大友氏の没落後に勢力を伸ばしたのが龍造寺隆信である。有馬晴信は隆信に従っていたが離反、隆信は五万七千(これも諸説ある)の大軍を率いて晴信を攻める。晴信は島津氏に援軍を求めたが、これに総大将として派遣されたのが家久である。島津家中には慎重論も根強く、家久につけられた兵は三千のみであった。晴信の兵五千と合わせて八千の寡兵である。
数的優位から龍造寺軍は一気に攻勢に出るが、有馬・島津連合軍は地形を生かし、隘路に誘い込んで包囲(釣り野伏せ、後退を装って敵を誘い出すと左右から伏兵が襲い掛かる戦法)、そんな中、あろうことか総大将の隆信が川上忠堅(左京亮)に討ち取られてしまう。隆信の戦死を聞いた龍造寺軍は撤退、連合軍は勝利を収める。
戸次川の戦い(1586年)
島津軍の北上により滅亡寸前に追い込まれた大友宗麟は大坂に赴き、秀吉に救援を求めた。当時、家康と対峙していた秀吉は援軍として、長宗我部氏や十河氏といった四国勢を豊後に遣わした。これを迎え撃ったのが家久である。得意の釣り野伏せを仕掛けた家久の攻撃により、長宗我部信親(元親の嫡子)、十河存保は戦死、軍監としてつけられていた仙石秀久は逃亡し、のち責任を問われて改易される。
しかし、こののち、家康と和睦した秀吉が二十万を超える大軍で九州に攻め込む。秀長が日向に入ると家久は降伏したが、秀長との会見直後に急死。秀長による毒殺の噂が立った。
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関ヶ原で島津軍の殿を務めて討死した豊久は子に当たる。
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