兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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一週間ぶり。
「戦国人物紹介」
芋川正親 【いもかわまさちか】 1539-1608
越前守。親正とも。北信濃の武将。信玄の信濃侵攻で武田家に降るか。武田家滅亡で北信濃には森長可が入るが、これには従わず兵を集めて抵抗する。しかし、敗れて上杉景勝を頼った。1590年、出羽庄内の検地反対一揆が起こったときに大宝寺城を守備していたが、一揆勢に敗れて開城している。のち上杉氏の会津移封に従って信濃を離れ、大森城代(福島市)となる。
■色部氏 越後国岩船郡色部邑より起こる。桓武平氏秩父氏の子孫という。揚北衆でも本庄氏と並ぶ有力国人。『忠臣蔵』に登場する米沢藩の色部又四郎(安長)は長実の曾孫に当たる(養子が入っているため直系ではない)
秩父季長-為長(兄・行長は本庄氏の祖)-色部公長-清長-長信-忠長-長綱-長倫―(略)―昌長-憲長-勝長-顕長=長実(弟)
色部勝長 【いろべかつなが】 1493?-1568
弥三郎、修理大夫(修理進)。遠江守憲長の子。越後岩船郡小泉荘平林城主。為景・謙信二代に仕えた。1561年の川中島の戦いでは柿崎景家の危機を救い、安田長秀、中条藤資らとともに謙信から「血染めの感状」を受けた。1564年、関東に出陣して下野の佐野昌綱を攻め、攻略した佐野城を預かる。謙信に背いた本庄繁長を攻囲中に死去。
色部顕長 【いろべあきなが】 1549?-1587
色部勝長の子。平林城主。「顕長」の名は上杉謙信より授かった。本庄繁長との戦いなどで活躍した。病弱だったためか、1576年、弟長実に家督を譲り、のち病死した。
色部長実 【いろべながざね】 1553?-1592
色部勝長の次男。修理亮(修理大夫)。兄顕長より家督を譲られて謙信に仕える。御館の乱では景勝を支持。1590年、仙北一揆が発生した時は、景勝・豊臣秀吉から平定の命を受け、大谷吉継の下で戦った。1592年、朝鮮出兵では景勝に従って肥前名護屋に赴くが病のため死去。
岩井信能 【いわいのぶよし】 1553-1620
備中守、民部少輔。御館の乱では一族が景勝側と景虎側に分かれる。本能寺の変後、上杉氏が北信濃を得ると、信濃飯山城主となった。城下町を整備し、近世飯山の基礎を作ったとされる。1598年、上杉氏が会津に移封されると、信能も飯山の地を離れ、会津三奉行の一人となった。千利休から茶の湯を学ぶなど、上杉家臣では珍しい内政・文化人タイプの人物。
宇佐美定満 【うさみさだみつ】 1489-1564
駿河守。越後刈羽郡琵琶島城主。もと越後守護上杉氏の家臣で守護代の長尾為景とは長く争った。のち為景に降り、謙信にも仕えた。坂戸城主長尾政景(上杉景勝の実父)に謀反の疑いがあるとの噂を流し、政景に挙兵させると、謙信とともに戦って政景を降伏させている。1564年、謙信の出兵中(第五次川中島の戦い)に、坂戸城近くの野尻池(野尻湖?)で政景と舟遊び中に舟が転覆し、二人とも溺死したという。また、北条氏邦との戦いで戦死したともいう。
政景との件は謙信の謀略説、定満の単独犯説などがあるが定まらない。いずれにせよ、謙信は激怒し、宇佐美家を潰してしまった。軍記物の影響を排除するとこれだけの人。謙信の軍師で宇佐美定行という名の人物が知られているが、これは定行の子孫と称する宇佐美定祐が越後流軍学を広めるときに、定満をモデルにして創作したと考えられている。昔の「信長の野望」では上杉家には貴重な軍師だったが、最近は評価ダウン。

Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
緒形拳(NHK大河ドラマ「風林火山」)っぽい? 育てると結構使えます。
「戦国人物紹介」
芋川正親 【いもかわまさちか】 1539-1608
越前守。親正とも。北信濃の武将。信玄の信濃侵攻で武田家に降るか。武田家滅亡で北信濃には森長可が入るが、これには従わず兵を集めて抵抗する。しかし、敗れて上杉景勝を頼った。1590年、出羽庄内の検地反対一揆が起こったときに大宝寺城を守備していたが、一揆勢に敗れて開城している。のち上杉氏の会津移封に従って信濃を離れ、大森城代(福島市)となる。
■色部氏 越後国岩船郡色部邑より起こる。桓武平氏秩父氏の子孫という。揚北衆でも本庄氏と並ぶ有力国人。『忠臣蔵』に登場する米沢藩の色部又四郎(安長)は長実の曾孫に当たる(養子が入っているため直系ではない)
秩父季長-為長(兄・行長は本庄氏の祖)-色部公長-清長-長信-忠長-長綱-長倫―(略)―昌長-憲長-勝長-顕長=長実(弟)
色部勝長 【いろべかつなが】 1493?-1568
弥三郎、修理大夫(修理進)。遠江守憲長の子。越後岩船郡小泉荘平林城主。為景・謙信二代に仕えた。1561年の川中島の戦いでは柿崎景家の危機を救い、安田長秀、中条藤資らとともに謙信から「血染めの感状」を受けた。1564年、関東に出陣して下野の佐野昌綱を攻め、攻略した佐野城を預かる。謙信に背いた本庄繁長を攻囲中に死去。
色部顕長 【いろべあきなが】 1549?-1587
色部勝長の子。平林城主。「顕長」の名は上杉謙信より授かった。本庄繁長との戦いなどで活躍した。病弱だったためか、1576年、弟長実に家督を譲り、のち病死した。
色部長実 【いろべながざね】 1553?-1592
色部勝長の次男。修理亮(修理大夫)。兄顕長より家督を譲られて謙信に仕える。御館の乱では景勝を支持。1590年、仙北一揆が発生した時は、景勝・豊臣秀吉から平定の命を受け、大谷吉継の下で戦った。1592年、朝鮮出兵では景勝に従って肥前名護屋に赴くが病のため死去。
岩井信能 【いわいのぶよし】 1553-1620
備中守、民部少輔。御館の乱では一族が景勝側と景虎側に分かれる。本能寺の変後、上杉氏が北信濃を得ると、信濃飯山城主となった。城下町を整備し、近世飯山の基礎を作ったとされる。1598年、上杉氏が会津に移封されると、信能も飯山の地を離れ、会津三奉行の一人となった。千利休から茶の湯を学ぶなど、上杉家臣では珍しい内政・文化人タイプの人物。
宇佐美定満 【うさみさだみつ】 1489-1564
駿河守。越後刈羽郡琵琶島城主。もと越後守護上杉氏の家臣で守護代の長尾為景とは長く争った。のち為景に降り、謙信にも仕えた。坂戸城主長尾政景(上杉景勝の実父)に謀反の疑いがあるとの噂を流し、政景に挙兵させると、謙信とともに戦って政景を降伏させている。1564年、謙信の出兵中(第五次川中島の戦い)に、坂戸城近くの野尻池(野尻湖?)で政景と舟遊び中に舟が転覆し、二人とも溺死したという。また、北条氏邦との戦いで戦死したともいう。
政景との件は謙信の謀略説、定満の単独犯説などがあるが定まらない。いずれにせよ、謙信は激怒し、宇佐美家を潰してしまった。軍記物の影響を排除するとこれだけの人。謙信の軍師で宇佐美定行という名の人物が知られているが、これは定行の子孫と称する宇佐美定祐が越後流軍学を広めるときに、定満をモデルにして創作したと考えられている。昔の「信長の野望」では上杉家には貴重な軍師だったが、最近は評価ダウン。
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「戦国人物紹介」
上杉家臣の特徴
揚北衆に代表される独立性の高い武将が多い。戦にはめっぽう強かった謙信も、武田信虎や信玄以上に家臣統率には悩んだようだ。
揚北衆 【あがきたしゅう】
鎌倉時代から戦国時代、越後北部に勢力を持った国人のこと。揚北とは阿賀野川の北の地域のこと。本庄、色部、加地、新発田、竹俣、安田、水原氏など。長尾為景、景虎(謙信)とたびたび争い、ようやく帰順したが、独立性は高く、長尾氏(上杉氏)とはもともと同格という意識を強く持っていたため、たびたび上杉氏に反抗している。
国人 【こくじん】
在地の有力武士のこと。平安時代の荘官、鎌倉・室町時代の地頭などが地方に土着して領主に成長したものが多い。国人から戦国大名になった例としては毛利元就が有名。
五十音順に行きます。
鰺坂長実 【あじさかながざね】 ?-?
1572年から越中新庄城を守り一向一揆と戦う。1577年九月、謙信は畠山氏の能登七尾城を落とすと、長実を七尾城代とした。しかし、謙信の死後は織田軍の攻勢を受け、1579年八月、織田軍と通じた畠山氏旧臣に七尾城を追われた。謙信が苦労して落とした七尾城の城代に任じられたのだから、それなりの人物なのだろうが、この前後の経歴がさっぱりわからない。福岡県に鰺坂という地名があるから、そこが発祥だろうか。
■甘粕(甘糟)氏 新田氏の一族である田中弾正大弼重氏の四男甘糟備中守広氏より出る(太田亮『姓氏家系大辞典』)。甘粕事件を起こした甘粕正彦(憲兵大尉)は景持の子孫という。
甘粕景持 【あまかすかげもち】 ?-1604
近江守。初名は長重。景時とも。1561年、第四次川中島の戦いでは小荷駄奉行。本隊撤退時に殿軍を務めて武田軍の追撃を退けた。1580年、御館の乱では景勝を支持。敵対した本庄秀綱が敗走すると、景勝から栃尾城主として配置される。1582年、三条城主に転じる。上杉家の会津移封にも従うなど、息の長い活躍を見せている。

© 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
2013年3月の新武将。甘粕近江守と言えば、川中島の戦いで殿を務めたことで知られているが、
ゲームでは長らく冷遇された。次の甘粕景継と混同されることも多い。
甘粕景継 【あまかすかげつぐ】 1550?-1611
備後守。初名は清長。大力・勇猛で知られ、本庄繁長と武勇を並び称せられた。近江守景持(長重)の子とも、登坂清高の子で1577年、謙信の命で景持と別の甘粕氏を継ぐともいう。景勝から一字を賜り景継と名乗る。御館の乱後、新発田重家が反乱を起こすと、南蒲原郡護摩堂城主に配置された。のち出羽東禅寺(酒田市)の城代となり、1598年に上杉氏が会津に移封すると、陸奥白石城代となった。関ヶ原の戦いでは、軍議のため留守にしていた白石城(名代は登坂式部)を伊達軍に急襲されて奪われた。
鮎川清長 【あゆかわきよなが】 ?-?
摂津守。岩船郡大葉沢城主で揚北衆。鮎川氏は本庄氏の一族。1539年、本庄城の本庄房長(繁長の父)を攻め、房長を出羽に追った。のち同族の色部氏の調停により本庄氏と和解するが、本庄繁長が謙信に背くと、謙信に属して繁長と戦った。子の孫次郎盛長もたびたび本庄氏と争っている。
上杉家臣の特徴
揚北衆に代表される独立性の高い武将が多い。戦にはめっぽう強かった謙信も、武田信虎や信玄以上に家臣統率には悩んだようだ。
揚北衆 【あがきたしゅう】
鎌倉時代から戦国時代、越後北部に勢力を持った国人のこと。揚北とは阿賀野川の北の地域のこと。本庄、色部、加地、新発田、竹俣、安田、水原氏など。長尾為景、景虎(謙信)とたびたび争い、ようやく帰順したが、独立性は高く、長尾氏(上杉氏)とはもともと同格という意識を強く持っていたため、たびたび上杉氏に反抗している。
国人 【こくじん】
在地の有力武士のこと。平安時代の荘官、鎌倉・室町時代の地頭などが地方に土着して領主に成長したものが多い。国人から戦国大名になった例としては毛利元就が有名。
五十音順に行きます。
鰺坂長実 【あじさかながざね】 ?-?
1572年から越中新庄城を守り一向一揆と戦う。1577年九月、謙信は畠山氏の能登七尾城を落とすと、長実を七尾城代とした。しかし、謙信の死後は織田軍の攻勢を受け、1579年八月、織田軍と通じた畠山氏旧臣に七尾城を追われた。謙信が苦労して落とした七尾城の城代に任じられたのだから、それなりの人物なのだろうが、この前後の経歴がさっぱりわからない。福岡県に鰺坂という地名があるから、そこが発祥だろうか。
■甘粕(甘糟)氏 新田氏の一族である田中弾正大弼重氏の四男甘糟備中守広氏より出る(太田亮『姓氏家系大辞典』)。甘粕事件を起こした甘粕正彦(憲兵大尉)は景持の子孫という。
甘粕景持 【あまかすかげもち】 ?-1604
近江守。初名は長重。景時とも。1561年、第四次川中島の戦いでは小荷駄奉行。本隊撤退時に殿軍を務めて武田軍の追撃を退けた。1580年、御館の乱では景勝を支持。敵対した本庄秀綱が敗走すると、景勝から栃尾城主として配置される。1582年、三条城主に転じる。上杉家の会津移封にも従うなど、息の長い活躍を見せている。
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2013年3月の新武将。甘粕近江守と言えば、川中島の戦いで殿を務めたことで知られているが、
ゲームでは長らく冷遇された。次の甘粕景継と混同されることも多い。
甘粕景継 【あまかすかげつぐ】 1550?-1611
備後守。初名は清長。大力・勇猛で知られ、本庄繁長と武勇を並び称せられた。近江守景持(長重)の子とも、登坂清高の子で1577年、謙信の命で景持と別の甘粕氏を継ぐともいう。景勝から一字を賜り景継と名乗る。御館の乱後、新発田重家が反乱を起こすと、南蒲原郡護摩堂城主に配置された。のち出羽東禅寺(酒田市)の城代となり、1598年に上杉氏が会津に移封すると、陸奥白石城代となった。関ヶ原の戦いでは、軍議のため留守にしていた白石城(名代は登坂式部)を伊達軍に急襲されて奪われた。
鮎川清長 【あゆかわきよなが】 ?-?
摂津守。岩船郡大葉沢城主で揚北衆。鮎川氏は本庄氏の一族。1539年、本庄城の本庄房長(繁長の父)を攻め、房長を出羽に追った。のち同族の色部氏の調停により本庄氏と和解するが、本庄繁長が謙信に背くと、謙信に属して繁長と戦った。子の孫次郎盛長もたびたび本庄氏と争っている。
剣豪としての伝承に彩られていて実像ははっきりしない。
「戦国人物紹介」
019 上泉信綱 【かみいずみのぶつな】 1508?-1573?
初め秀綱。『甲陽軍鑑』では信玄(晴信)から一字をもらって信綱に改めたという。伊勢守、武蔵守。従四位下。「こういずみ」と読む場合もある。
長野業正、業盛に仕えて戦功多く、長野十六本槍の一人、また上野国一本槍の感状を受ける。愛洲陰流、神道流、念流など多くの武芸を極めて新陰流を創始する。
箕輪城が陥落すると、信玄に仕官を勧められたが固辞し、諸国を流浪し新陰流を創始した。上洛し、大和で剣術を柳生宗厳に、槍術を宝蔵院胤栄に伝授したという。またタイ捨流の祖である丸目蔵人佐長恵にも新陰流の免許を与えている。公家たちにも武芸を伝え、剣術も披露したと伝わる。剣豪将軍として知られる足利義輝(十三代将軍)にも剣術を伝授したという。
1563年に箕輪城が落城したとすれば、一時信玄に仕えて、武者修行の旅に出るために武田家を辞し、足利義輝の生前(1565年に死去)に剣術を伝授したというのは年代的には合う。しかし、近年では1566年落城説もあり、そうすると、箕輪城落城以前から諸国を流浪したことになり、足利義輝に剣術を伝授した話も年代的に合わない。
子秀胤は北条氏に仕え、国府台合戦で戦死。その子泰綱は関ヶ原の戦いで上杉氏に仕え、最上氏との戦いで戦死したという。




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剣聖だけど、個人技と足軽を率いる能力とはまた別のような気が・・・。過去の「信長の野望」シリーズにおける剣豪は兵科能力オールEと全滅しているのが特徴(のちのシリーズではほどよくパワーアップ)
「戦国人物紹介」
019 上泉信綱 【かみいずみのぶつな】 1508?-1573?
初め秀綱。『甲陽軍鑑』では信玄(晴信)から一字をもらって信綱に改めたという。伊勢守、武蔵守。従四位下。「こういずみ」と読む場合もある。
長野業正、業盛に仕えて戦功多く、長野十六本槍の一人、また上野国一本槍の感状を受ける。愛洲陰流、神道流、念流など多くの武芸を極めて新陰流を創始する。
箕輪城が陥落すると、信玄に仕官を勧められたが固辞し、諸国を流浪し新陰流を創始した。上洛し、大和で剣術を柳生宗厳に、槍術を宝蔵院胤栄に伝授したという。またタイ捨流の祖である丸目蔵人佐長恵にも新陰流の免許を与えている。公家たちにも武芸を伝え、剣術も披露したと伝わる。剣豪将軍として知られる足利義輝(十三代将軍)にも剣術を伝授したという。
1563年に箕輪城が落城したとすれば、一時信玄に仕えて、武者修行の旅に出るために武田家を辞し、足利義輝の生前(1565年に死去)に剣術を伝授したというのは年代的には合う。しかし、近年では1566年落城説もあり、そうすると、箕輪城落城以前から諸国を流浪したことになり、足利義輝に剣術を伝授した話も年代的に合わない。
子秀胤は北条氏に仕え、国府台合戦で戦死。その子泰綱は関ヶ原の戦いで上杉氏に仕え、最上氏との戦いで戦死したという。
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剣聖だけど、個人技と足軽を率いる能力とはまた別のような気が・・・。過去の「信長の野望」シリーズにおける剣豪は兵科能力オールEと全滅しているのが特徴(のちのシリーズではほどよくパワーアップ)
JRにシカが衝突して30分帰宅が遅れたよ!
「戦国人物紹介」
018 長野業正 【ながのなりまさ】 1491?-1561
名は業政、生年は1499年とも。
用語としては定着していませんが、世の中には「じじいフェチ」、あるいは「老将ファン」という人々が確実に存在しています。老将と言うと、「三国志」では、黄忠・厳顔の老将コンビが有名です。老いてますます盛んな人を讃えるというのは中国に限らず、日本にもあることで、日本史では長井別当とも言われた斎藤別当実盛(?-1183)が知られています。
源平合戦では平家に属しますが、木曾義仲との戦いで討ち死にします。このとき、七十歳を過ぎていた実盛は、最期は若々しく戦いたいと白髪を黒く染めて戦ったと言われています。実盛については、世阿弥が能の題材として取り上げ、芭蕉も句に詠んでいます。また、尋常小学校の唱歌にもなっており、戦前までは有名な武将でした。
業正も七十余歳、あるいは六十余歳で死去したと言われ、老将ファンの方にはお勧めしたい武将です。しかも、先祖をたどれば在原業平にたどりつくというおまけ付き。在原業平と言えば、平安時代の貴族で六歌仙の一人、『伊勢物語』の主人公とみなされており、名うてのプレイボーイでした。となると、業正も老将プラス美系だったかもしれません。
さて、業正は上野国の箕輪(みのわ)城の城主で、関東管領山内上杉氏に仕えていました。主の上杉憲政が北条氏の勢力拡大で越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったあとも、上野で北条氏や武田氏と戦い続けます。山内上杉氏の家臣が武田氏に降る中、抵抗を続け、最後まで主君への忠節を貫きます。死に際しては、「一里塚と変わらないような粗末な墓でいい。法要もいらない。敵の首を一つでも多く墓前に供えよ。敵に降参せず、運が尽きたら潔く討ち死にせよ。それこそが私への孝養であり、これに過ぎるものはない」と遺言したと言います。
信玄は業政の死を知ると、「業正一人がいる限り、上野を取ることはできなかったが、これで上野を手に入れたも同然」とすぐに軍勢を上野に向けたとされます。
子の業盛も信玄の侵攻に頑強に抵抗しますが、1563年(1566年とも)に箕輪城は落城、業盛は自害して果てます。

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なんかちがーう
コストは高いが、兵科能力と守備力、指揮兵数の高さは魅力。
「戦国人物紹介」
018 長野業正 【ながのなりまさ】 1491?-1561
名は業政、生年は1499年とも。
用語としては定着していませんが、世の中には「じじいフェチ」、あるいは「老将ファン」という人々が確実に存在しています。老将と言うと、「三国志」では、黄忠・厳顔の老将コンビが有名です。老いてますます盛んな人を讃えるというのは中国に限らず、日本にもあることで、日本史では長井別当とも言われた斎藤別当実盛(?-1183)が知られています。
源平合戦では平家に属しますが、木曾義仲との戦いで討ち死にします。このとき、七十歳を過ぎていた実盛は、最期は若々しく戦いたいと白髪を黒く染めて戦ったと言われています。実盛については、世阿弥が能の題材として取り上げ、芭蕉も句に詠んでいます。また、尋常小学校の唱歌にもなっており、戦前までは有名な武将でした。
業正も七十余歳、あるいは六十余歳で死去したと言われ、老将ファンの方にはお勧めしたい武将です。しかも、先祖をたどれば在原業平にたどりつくというおまけ付き。在原業平と言えば、平安時代の貴族で六歌仙の一人、『伊勢物語』の主人公とみなされており、名うてのプレイボーイでした。となると、業正も老将プラス美系だったかもしれません。
さて、業正は上野国の箕輪(みのわ)城の城主で、関東管領山内上杉氏に仕えていました。主の上杉憲政が北条氏の勢力拡大で越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったあとも、上野で北条氏や武田氏と戦い続けます。山内上杉氏の家臣が武田氏に降る中、抵抗を続け、最後まで主君への忠節を貫きます。死に際しては、「一里塚と変わらないような粗末な墓でいい。法要もいらない。敵の首を一つでも多く墓前に供えよ。敵に降参せず、運が尽きたら潔く討ち死にせよ。それこそが私への孝養であり、これに過ぎるものはない」と遺言したと言います。
信玄は業政の死を知ると、「業正一人がいる限り、上野を取ることはできなかったが、これで上野を手に入れたも同然」とすぐに軍勢を上野に向けたとされます。
子の業盛も信玄の侵攻に頑強に抵抗しますが、1563年(1566年とも)に箕輪城は落城、業盛は自害して果てます。
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なんかちがーう
コストは高いが、兵科能力と守備力、指揮兵数の高さは魅力。
昌さんが止まらない。無傷の5勝目で首位固め。
「戦国人物紹介」
017 村上義清 【むらかみよしきよ】 1503-73
左衛門尉、周防守。信濃葛尾(かつらお)城主。
常勝を誇った信玄が唯一にして二度敗れた相手がこの村上義清である。怜悧な策士タイプと言うよりは、甲冑に身を包んだ猛将タイプの戦巧者である。
1548年、信濃佐久郡を攻めていた信玄と上田原で激突。敗走すると見せかけて武田軍を誘い出し、深追いしてきたところを包囲して散々に打ち破った。信玄の傅役(もりやく)である板垣信方、甘利虎泰を討ち取る勝利である。
1550年には支城の戸石城を包囲されるが、降伏する将の中に紛れ込み、機を見て蜂起。武田軍は大混乱に陥り、横田高松を失うなど大敗を喫した。これを戸石(砥石)崩れという。のちに戦国時代でも随一の名将となる信玄だが、義清との戦いで学ぶところも多かっただろう。
しかし、義清の抵抗もここまでだった。かつて武田信虎と盟約して上野に追放した真田幸隆の調略により戸石城は陥落。村上勢の多くが武田家に内通し、1553年、葛尾城も自落すると信濃から越後に逃れる。関東を治めることに熱心だった謙信が信玄と長きに渡って争うようになったのは、小笠原長時や義清が謙信を頼ったのがきっかけであるから、そうなると、意外と重要な人物なのかもしれない。
その後の義清は謙信の援軍を得て一度は葛尾城を回復するが、すぐに信玄の反攻に遭ってしまう。川中島の戦いにも参加するが、旧領の回復はかなわず、越後の地で没した。のちに義清の子国清が旧領を奪還して信濃海津城に入るのは、義清が信濃を追われてから三十年後のことであった。

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そうそう、こんなイメージw 「戦国IXA」ではコストが高くて使いにくいのですが・・・。
「戦国人物紹介」
017 村上義清 【むらかみよしきよ】 1503-73
左衛門尉、周防守。信濃葛尾(かつらお)城主。
常勝を誇った信玄が唯一にして二度敗れた相手がこの村上義清である。怜悧な策士タイプと言うよりは、甲冑に身を包んだ猛将タイプの戦巧者である。
1548年、信濃佐久郡を攻めていた信玄と上田原で激突。敗走すると見せかけて武田軍を誘い出し、深追いしてきたところを包囲して散々に打ち破った。信玄の傅役(もりやく)である板垣信方、甘利虎泰を討ち取る勝利である。
1550年には支城の戸石城を包囲されるが、降伏する将の中に紛れ込み、機を見て蜂起。武田軍は大混乱に陥り、横田高松を失うなど大敗を喫した。これを戸石(砥石)崩れという。のちに戦国時代でも随一の名将となる信玄だが、義清との戦いで学ぶところも多かっただろう。
しかし、義清の抵抗もここまでだった。かつて武田信虎と盟約して上野に追放した真田幸隆の調略により戸石城は陥落。村上勢の多くが武田家に内通し、1553年、葛尾城も自落すると信濃から越後に逃れる。関東を治めることに熱心だった謙信が信玄と長きに渡って争うようになったのは、小笠原長時や義清が謙信を頼ったのがきっかけであるから、そうなると、意外と重要な人物なのかもしれない。
その後の義清は謙信の援軍を得て一度は葛尾城を回復するが、すぐに信玄の反攻に遭ってしまう。川中島の戦いにも参加するが、旧領の回復はかなわず、越後の地で没した。のちに義清の子国清が旧領を奪還して信濃海津城に入るのは、義清が信濃を追われてから三十年後のことであった。
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そうそう、こんなイメージw 「戦国IXA」ではコストが高くて使いにくいのですが・・・。