兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
扇谷上杉氏の人々
上杉定正 【うえすぎさだまさ】 1443-94
讒言で名臣を殺したダメ君主の典型。
扇谷上杉持朝の三男。1473年、上杉政真(扇谷上杉八代当主)が戦死すると、太田資長(道灌)らに擁立される。山内上杉顕定とともに古河公方足利成氏と対立するが、山内上杉家臣であった長尾景春が反乱し、両上杉氏は敗走する。その後は太田道灌の活躍もあって乱は終息、古河公方との和睦も成立したが、今度は山内上杉氏との仲がしっくりいかなくなる。また道灌の声望が高まるとこれを疑い、1486年に道灌を殺してしまう。道灌が死に際に「当方(扇谷上杉氏)滅亡」と言ったことは有名。その後は上杉顕定と戦ったが、本家である山内上杉氏と分家に過ぎない扇谷上杉氏の力は隔絶しており、次第に劣勢になった。1494年、荒川を渡ろうとして落馬し、それがもとで死去。道灌のたたりとも言われる。
2014年8月の新武将、扇谷定正(上杉定正)。かっこいいので載せておこう。
上杉朝良 【うえすぎともよし】 1473?-1518
五郎、治部少輔。定正の甥で、定正の死により扇谷上杉氏の家督を継ぐ。すでに先代から扇谷上杉氏の家運は傾いていたが、北条早雲、今川氏親と結んで山内上杉顕定と戦い、1504年、武蔵立河原の戦いに勝利する。しかし、翌年、逆に上杉顕定、長尾能景(上杉謙信の祖父)に河越城を包囲されて降伏、江戸城に隠居し家督を朝興に譲った。その後も健在。
今川氏に協力を仰いだことは、当時今川家の重臣だった北条早雲の勢力拡大を招いた。1495年、早雲が扇谷上杉氏の家臣である大森藤頼の小田原城を奪い取ったことを黙認し(すでに大森氏が扇谷上杉氏から離反していたという説もある)、一時は早雲と協力関係にあったが、のちに対立し、1516年には相模岡崎の三浦氏が滅ぼされるなど、扇谷上杉氏の衰退に拍車をかける。
上杉朝興 【うえすぎともおき】 1488-1537
五郎、修理大夫。朝寧の子で伯父定正の後を継ぐ。朝良の子藤王丸の名代のような立場だったともいう。のちに藤王丸を殺して子の朝定を後継に定める。1524年、北条氏綱に江戸城を奪われ、河越城に逃れる。武田氏との連携を模索し、娘を武田信虎の子晴信(のちの信玄)に嫁がせる。仇敵山内上杉氏とも結んで北条氏と一進一退の攻防を繰り返すが、江戸城奪還は果たせないまま河越城に没した。
上杉朝定 【うえすぎともさだ】 1525-46
五郎、修理大夫。朝興の子。北条氏綱に河越城を奪われ、松山城に逃れる。山内上杉憲政と和睦し、駿河の今川義元とも結んで北条氏の挟撃を図る。憲政に古河公方足利晴氏の軍も加えて河越城を囲むも、救援軍に敗れ(河越夜戦)、朝定も戦死してここに扇谷上杉氏は滅亡した。
扇谷上杉氏の人々
上杉定正 【うえすぎさだまさ】 1443-94
讒言で名臣を殺したダメ君主の典型。
扇谷上杉持朝の三男。1473年、上杉政真(扇谷上杉八代当主)が戦死すると、太田資長(道灌)らに擁立される。山内上杉顕定とともに古河公方足利成氏と対立するが、山内上杉家臣であった長尾景春が反乱し、両上杉氏は敗走する。その後は太田道灌の活躍もあって乱は終息、古河公方との和睦も成立したが、今度は山内上杉氏との仲がしっくりいかなくなる。また道灌の声望が高まるとこれを疑い、1486年に道灌を殺してしまう。道灌が死に際に「当方(扇谷上杉氏)滅亡」と言ったことは有名。その後は上杉顕定と戦ったが、本家である山内上杉氏と分家に過ぎない扇谷上杉氏の力は隔絶しており、次第に劣勢になった。1494年、荒川を渡ろうとして落馬し、それがもとで死去。道灌のたたりとも言われる。
2014年8月の新武将、扇谷定正(上杉定正)。かっこいいので載せておこう。
五郎、治部少輔。定正の甥で、定正の死により扇谷上杉氏の家督を継ぐ。すでに先代から扇谷上杉氏の家運は傾いていたが、北条早雲、今川氏親と結んで山内上杉顕定と戦い、1504年、武蔵立河原の戦いに勝利する。しかし、翌年、逆に上杉顕定、長尾能景(上杉謙信の祖父)に河越城を包囲されて降伏、江戸城に隠居し家督を朝興に譲った。その後も健在。
今川氏に協力を仰いだことは、当時今川家の重臣だった北条早雲の勢力拡大を招いた。1495年、早雲が扇谷上杉氏の家臣である大森藤頼の小田原城を奪い取ったことを黙認し(すでに大森氏が扇谷上杉氏から離反していたという説もある)、一時は早雲と協力関係にあったが、のちに対立し、1516年には相模岡崎の三浦氏が滅ぼされるなど、扇谷上杉氏の衰退に拍車をかける。
上杉朝興 【うえすぎともおき】 1488-1537
五郎、修理大夫。朝寧の子で伯父定正の後を継ぐ。朝良の子藤王丸の名代のような立場だったともいう。のちに藤王丸を殺して子の朝定を後継に定める。1524年、北条氏綱に江戸城を奪われ、河越城に逃れる。武田氏との連携を模索し、娘を武田信虎の子晴信(のちの信玄)に嫁がせる。仇敵山内上杉氏とも結んで北条氏と一進一退の攻防を繰り返すが、江戸城奪還は果たせないまま河越城に没した。
上杉朝定 【うえすぎともさだ】 1525-46
五郎、修理大夫。朝興の子。北条氏綱に河越城を奪われ、松山城に逃れる。山内上杉憲政と和睦し、駿河の今川義元とも結んで北条氏の挟撃を図る。憲政に古河公方足利晴氏の軍も加えて河越城を囲むも、救援軍に敗れ(河越夜戦)、朝定も戦死してここに扇谷上杉氏は滅亡した。
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「戦国人物紹介」
■上杉謙信6 謙信と信玄(後編)
決戦する人、しない人
戦国時代というと、各地の戦国大名が天下統一を目指して戦った、という印象が強いがそんなことはない。天下を考えていたのは信長と信玄くらいである。あとは自分の領地をいかに守るかに汲汲としていたのが実情である。そんな彼らは、大きな損害を被る決戦は避ける傾向が強かった。せっかく勝っても、損害が大きければ得た領地を維持できないのである。城攻めで損害を出すことはなるべく避けて、内応工作などの調略に努めたことは、信長の美濃攻めや信玄の信濃攻めの例を見るまでもなく明らかであろう。戦わずして敵を屈服させるのに越したことはない。
一方で、相手を滅ぼすまで戦う決戦もある。これは信長が朝倉、浅井氏を滅ぼした戦い(注:姉川の戦いのことではない)、秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦い、関ヶ原の戦いなど、天下、政権の主導権をめぐって争う場合に起こる。相手を滅ぼさなければ、自分が滅びるのである。ただ、そういう場合でも、当然のことながら、自分の損害は極力抑えようとする意志が働いた。関ヶ原での内応や寝返りは有名だろう。
第四回の川中島の戦いにおける両軍の死傷者数ははっきりとわかっていない。お互い、相手の損害は大きく報じているが、自分たちの損害については口を閉ざしたままである。濃霧の中の遭遇戦で乱戦となり、武田軍は信玄の弟信繁ほか指揮官級の武将が戦死、上杉軍も謙信みずからが太刀を振るって戦っている。両軍の損害は少なくなかったと思われるが、数ヵ月後には関東に出兵していることもあり、通説にあるような何千人単位での死傷者が出たことは考えにくい。
信玄の死を聞いて
信玄の死の報せを聞いた謙信は食事中だったが、箸を落として号泣したという。「惜しい大将を失った、英雄とは信玄のような武将を言うのであろう。これで関東の弓矢柱はいなくなった」と嘆き、三日間城下の音曲を禁止させた。家臣たちは、この機を逃さず信濃に出陣すべきと進言したが、謙信は、「いま出陣すれば甲斐まで攻め取ることができる、しかし、人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」として、聞き入れようとしなかった。
信玄も死に際して勝頼にこう言い残している。「謙信は義人なり。天下にいまだ比べられる人を知らず。このような武将と事を構えてはならぬ。この信玄は一生彼と戦うことになったが、甲斐の国を保つには、彼の力にすがるほかない」
こういう話を聞くと、お互いの能力を認めあう好敵手だったと思えそうだが、一方で、謙信は信玄のことを嫌っていたという説もある。川中島で十年以上争ったのも、謙信の正義感が信玄を受け入れなかったためだという。信玄と言えば、少なくとも結果的には父を追放して家督を継いだ。また、妹が嫁いでいた諏訪頼重を滅ぼし、頼重の娘を側室にした行為は家臣にも眉をひそめる者が多かった。ほかにも謀略が多かった武将という見方はできる。
たしかに信玄には徳に欠けるという部分があって、その業の深さは子の勝頼の代に祟って武田家を滅ぼすことになる。のちに天下を取った徳川家が武田旧臣を多く召し抱えたこともあり、信玄は称賛され、神格化までされたが、同時代の評価には厳しいものもある。
■上杉謙信6 謙信と信玄(後編)
決戦する人、しない人
戦国時代というと、各地の戦国大名が天下統一を目指して戦った、という印象が強いがそんなことはない。天下を考えていたのは信長と信玄くらいである。あとは自分の領地をいかに守るかに汲汲としていたのが実情である。そんな彼らは、大きな損害を被る決戦は避ける傾向が強かった。せっかく勝っても、損害が大きければ得た領地を維持できないのである。城攻めで損害を出すことはなるべく避けて、内応工作などの調略に努めたことは、信長の美濃攻めや信玄の信濃攻めの例を見るまでもなく明らかであろう。戦わずして敵を屈服させるのに越したことはない。
一方で、相手を滅ぼすまで戦う決戦もある。これは信長が朝倉、浅井氏を滅ぼした戦い(注:姉川の戦いのことではない)、秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦い、関ヶ原の戦いなど、天下、政権の主導権をめぐって争う場合に起こる。相手を滅ぼさなければ、自分が滅びるのである。ただ、そういう場合でも、当然のことながら、自分の損害は極力抑えようとする意志が働いた。関ヶ原での内応や寝返りは有名だろう。
第四回の川中島の戦いにおける両軍の死傷者数ははっきりとわかっていない。お互い、相手の損害は大きく報じているが、自分たちの損害については口を閉ざしたままである。濃霧の中の遭遇戦で乱戦となり、武田軍は信玄の弟信繁ほか指揮官級の武将が戦死、上杉軍も謙信みずからが太刀を振るって戦っている。両軍の損害は少なくなかったと思われるが、数ヵ月後には関東に出兵していることもあり、通説にあるような何千人単位での死傷者が出たことは考えにくい。
信玄の死を聞いて
信玄の死の報せを聞いた謙信は食事中だったが、箸を落として号泣したという。「惜しい大将を失った、英雄とは信玄のような武将を言うのであろう。これで関東の弓矢柱はいなくなった」と嘆き、三日間城下の音曲を禁止させた。家臣たちは、この機を逃さず信濃に出陣すべきと進言したが、謙信は、「いま出陣すれば甲斐まで攻め取ることができる、しかし、人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」として、聞き入れようとしなかった。
信玄も死に際して勝頼にこう言い残している。「謙信は義人なり。天下にいまだ比べられる人を知らず。このような武将と事を構えてはならぬ。この信玄は一生彼と戦うことになったが、甲斐の国を保つには、彼の力にすがるほかない」
こういう話を聞くと、お互いの能力を認めあう好敵手だったと思えそうだが、一方で、謙信は信玄のことを嫌っていたという説もある。川中島で十年以上争ったのも、謙信の正義感が信玄を受け入れなかったためだという。信玄と言えば、少なくとも結果的には父を追放して家督を継いだ。また、妹が嫁いでいた諏訪頼重を滅ぼし、頼重の娘を側室にした行為は家臣にも眉をひそめる者が多かった。ほかにも謀略が多かった武将という見方はできる。
たしかに信玄には徳に欠けるという部分があって、その業の深さは子の勝頼の代に祟って武田家を滅ぼすことになる。のちに天下を取った徳川家が武田旧臣を多く召し抱えたこともあり、信玄は称賛され、神格化までされたが、同時代の評価には厳しいものもある。
「戦国人物紹介」
■上杉謙信5 謙信と信玄(前編)
「敵に塩を送る」の美談
あまりに有名で手垢のついた逸話と言えるが、紹介するとこんなところである。
信玄が今川氏真との盟約を破り駿河攻めを始めると、氏真は義父(妻の父)である相模の北条氏康と示し合わせて、海のない甲斐や信濃への塩の輸送を止めさせた。「塩留(しおどめ)」を行ったのである。塩は生活の必需品であり、信玄はひどく難渋したと言うが、これを聞いた謙信、信玄とは長年争っていたにもかかわらず、さっそく商人に命じて大量の塩を甲斐や信濃へ送らせた。
謙信は「我は兵をもって戦いを決せん、塩をもって敵を屈せしむることをせじ」、信玄とは合戦によって勝敗を争いたい、と言ったという。
実のところ、甲斐や信濃には東海方面以外にも塩の輸送路はあり、信玄は塩止めにそれほど困っていなかったという話もある。また、謙信も塩を送らせたというより、あえて塩の輸送を止めさせなかっただけという話もある。塩を止めれば困るのは商人である。
もう一つ。両雄の戦いとして有名なのが、川中島の戦いである。実際に干戈を交えたのは二回、にらみ合いも含めて五回戦ったという説が一般的で、広く知られているのが第四回の戦いである。
ところが、この第四回の戦い、八幡原の戦いとも言うが、記録からはっきりしていることは少ない。1561年の九月十日に両軍が戦って損害が出たこと、信玄の弟典厩信繁が戦死したこと、謙信(当時は上杉政虎)みずからが太刀を振るったこと(信玄と一騎打ちしたのではない)、くらいである。信頼できる記録がほとんどないため、『甲陽軍鑑』のような評価の定まらない書物や後世に書かれた軍記物に頼って戦況が書かれているのが実状である。
妻女山に布陣できない謙信
「城」と言っても、石垣に天守閣のあるような姫路城のような城を連想すると、この時代の城の理解を誤る。政庁としての城ならば平地に単独で築いてもいいだろうが、戦国時代の城となれば、山や川などの天然の地形を利用した軍事的な施設がもっぱらである。また、複数の城や砦が連携している場合も多く、武田氏は躑躅ヶ崎館の詰めの城として後方に要害山城を備えていたし、北条氏は関東に支城網を築いていた。川中島にある武田方の海津城も城砦群の中の一つの城で、後背の山には多くの城砦が築かれていた。
そんな中を上杉軍が「すり抜けて」妻女山に布陣するのは不可能である。妻女山自体も大きい山ではない。万を超える軍勢が布陣するには適していない。布陣したとしても、周囲を囲んでいる、より高いところにある武田方の城砦からの攻撃を受けることは間違いない。武田軍のきつつき戦法も、狭い山道を一万以上の別働隊が上って行って、相手に気付かれないように攻撃できるか疑問である。上杉軍が山上で待ち構えていたら、次々と各個撃破されるだけではないか。あの信玄にしては兵力分散の愚を犯しているし、万の軍勢に物見(偵察)の兵もなく、上杉軍の転進に気付かないのは奇妙すぎる。
きつつき戦法が存在しないのだから、炊事の煙で出陣を見抜いたという謙信の神懸かり的な用兵も実話ではない。
妻女山に布陣したのは景勝?
本能寺の変後、旧武田領である甲斐や信濃、上野では織田家の支配が崩壊し、北条や徳川、上杉の軍勢が攻め入ったが、このとき景勝が布陣したのが妻女山であり、この話が混同されたという説もある。
(後編に続く)
■上杉謙信5 謙信と信玄(前編)
「敵に塩を送る」の美談
あまりに有名で手垢のついた逸話と言えるが、紹介するとこんなところである。
信玄が今川氏真との盟約を破り駿河攻めを始めると、氏真は義父(妻の父)である相模の北条氏康と示し合わせて、海のない甲斐や信濃への塩の輸送を止めさせた。「塩留(しおどめ)」を行ったのである。塩は生活の必需品であり、信玄はひどく難渋したと言うが、これを聞いた謙信、信玄とは長年争っていたにもかかわらず、さっそく商人に命じて大量の塩を甲斐や信濃へ送らせた。
謙信は「我は兵をもって戦いを決せん、塩をもって敵を屈せしむることをせじ」、信玄とは合戦によって勝敗を争いたい、と言ったという。
実のところ、甲斐や信濃には東海方面以外にも塩の輸送路はあり、信玄は塩止めにそれほど困っていなかったという話もある。また、謙信も塩を送らせたというより、あえて塩の輸送を止めさせなかっただけという話もある。塩を止めれば困るのは商人である。
もう一つ。両雄の戦いとして有名なのが、川中島の戦いである。実際に干戈を交えたのは二回、にらみ合いも含めて五回戦ったという説が一般的で、広く知られているのが第四回の戦いである。
ところが、この第四回の戦い、八幡原の戦いとも言うが、記録からはっきりしていることは少ない。1561年の九月十日に両軍が戦って損害が出たこと、信玄の弟典厩信繁が戦死したこと、謙信(当時は上杉政虎)みずからが太刀を振るったこと(信玄と一騎打ちしたのではない)、くらいである。信頼できる記録がほとんどないため、『甲陽軍鑑』のような評価の定まらない書物や後世に書かれた軍記物に頼って戦況が書かれているのが実状である。
妻女山に布陣できない謙信
「城」と言っても、石垣に天守閣のあるような姫路城のような城を連想すると、この時代の城の理解を誤る。政庁としての城ならば平地に単独で築いてもいいだろうが、戦国時代の城となれば、山や川などの天然の地形を利用した軍事的な施設がもっぱらである。また、複数の城や砦が連携している場合も多く、武田氏は躑躅ヶ崎館の詰めの城として後方に要害山城を備えていたし、北条氏は関東に支城網を築いていた。川中島にある武田方の海津城も城砦群の中の一つの城で、後背の山には多くの城砦が築かれていた。
そんな中を上杉軍が「すり抜けて」妻女山に布陣するのは不可能である。妻女山自体も大きい山ではない。万を超える軍勢が布陣するには適していない。布陣したとしても、周囲を囲んでいる、より高いところにある武田方の城砦からの攻撃を受けることは間違いない。武田軍のきつつき戦法も、狭い山道を一万以上の別働隊が上って行って、相手に気付かれないように攻撃できるか疑問である。上杉軍が山上で待ち構えていたら、次々と各個撃破されるだけではないか。あの信玄にしては兵力分散の愚を犯しているし、万の軍勢に物見(偵察)の兵もなく、上杉軍の転進に気付かないのは奇妙すぎる。
きつつき戦法が存在しないのだから、炊事の煙で出陣を見抜いたという謙信の神懸かり的な用兵も実話ではない。
妻女山に布陣したのは景勝?
本能寺の変後、旧武田領である甲斐や信濃、上野では織田家の支配が崩壊し、北条や徳川、上杉の軍勢が攻め入ったが、このとき景勝が布陣したのが妻女山であり、この話が混同されたという説もある。
(後編に続く)
「戦国人物紹介」
■上杉謙信4 あまり知られていない内政手腕
越後は難治の地、治めにくい土地である。一つに越後は大国である。国が広い。いまの新潟県を思えばわかるが、西は越中、信濃、上野に接し、東に往けば出羽、陸奥になる。一方で越後守護のいた府中や、長尾為景や謙信が本拠にした春日山は越後のかなり西寄りの上越にあり、下越には鎌倉時代に領主として入った揚北衆などの国人領主が割拠していた。信玄のように信濃の盆地に点在する豪族を一つ一つ潰していったのとは地理的条件からして異なる。
さて、新潟県には何度か行きました。春日山城(址)も見に行きました。山を登って降りると結構時間がかかります。長野県、山梨県にも行ったことはあります。
新潟県には富山、長野、山形、福島から往来しましたが、東西(南北にも)に非常に長い土地なんですよね。海岸線は300kmを超えるそうです。上越に差し掛かると、必ずと言っていいほど豪雨か豪雪になって、車で走るのに難渋した記憶があります。
いまでこそ越後は日本有数の米どころとして知られていますが、戦国時代の頃にはあまり米が取れない土地でした。関ヶ原の頃で、越後の石高は五十万石ほど(謙信はこのほか上野、越中にも所領があった)。一方、信玄の甲斐・信濃で約七十万石。信長だと、尾張・美濃だけでも八十万石を超えます。米だけで考えると、謙信、信玄の所領は意外と多くないんですよね。動員兵力も限られてきます(米以外にも収入はあるが、結局は食べ物に左右される)
謙信というと、武勇に長けた将として知られていますが、内政にも秀でていました。越後国内の商業を振興し、直江津などの港湾を押さえ、日本海の交易によって巨利を得ていたことが知られています。ようするに関税を取っていたわけです。「青苧(あおそ)」と呼ばれる青い麻や「越後布」を越後の特産とし、青苧を売買する商人から税を徴収していました。謙信の死後には大量の金が遺されていたと記録されています。
■上杉謙信4 あまり知られていない内政手腕
越後は難治の地、治めにくい土地である。一つに越後は大国である。国が広い。いまの新潟県を思えばわかるが、西は越中、信濃、上野に接し、東に往けば出羽、陸奥になる。一方で越後守護のいた府中や、長尾為景や謙信が本拠にした春日山は越後のかなり西寄りの上越にあり、下越には鎌倉時代に領主として入った揚北衆などの国人領主が割拠していた。信玄のように信濃の盆地に点在する豪族を一つ一つ潰していったのとは地理的条件からして異なる。
さて、新潟県には何度か行きました。春日山城(址)も見に行きました。山を登って降りると結構時間がかかります。長野県、山梨県にも行ったことはあります。
新潟県には富山、長野、山形、福島から往来しましたが、東西(南北にも)に非常に長い土地なんですよね。海岸線は300kmを超えるそうです。上越に差し掛かると、必ずと言っていいほど豪雨か豪雪になって、車で走るのに難渋した記憶があります。
いまでこそ越後は日本有数の米どころとして知られていますが、戦国時代の頃にはあまり米が取れない土地でした。関ヶ原の頃で、越後の石高は五十万石ほど(謙信はこのほか上野、越中にも所領があった)。一方、信玄の甲斐・信濃で約七十万石。信長だと、尾張・美濃だけでも八十万石を超えます。米だけで考えると、謙信、信玄の所領は意外と多くないんですよね。動員兵力も限られてきます(米以外にも収入はあるが、結局は食べ物に左右される)
謙信というと、武勇に長けた将として知られていますが、内政にも秀でていました。越後国内の商業を振興し、直江津などの港湾を押さえ、日本海の交易によって巨利を得ていたことが知られています。ようするに関税を取っていたわけです。「青苧(あおそ)」と呼ばれる青い麻や「越後布」を越後の特産とし、青苧を売買する商人から税を徴収していました。謙信の死後には大量の金が遺されていたと記録されています。
「戦国人物紹介」
■上杉謙信3
1557年には信玄と三度、川中島で争う。その後、越中へも出兵するが、1560年以降は関東での戦いも増えていく。1560年には上野厩橋城に入り、北条討伐の軍勢を集め、翌年の三月には十万の兵で北条氏の本拠である小田原城を囲む。この間、鎌倉の鶴岡八幡宮において上杉憲政から山内上杉氏の家督と関東管領職を相続し、上杉政虎と改めた。その後、越後に引き返すと、信濃の武田軍を駆逐すべく出兵。四度目の川中島の戦いである。この戦いの詳細は不明であるが、信玄の弟信繁や山本勘助を討ち取るなど、少なくとも戦術的には上杉軍の勝利とされる。
以後は連年関東に出兵、北条氏、武田氏と争うが、信玄が今川氏を攻めると、北条氏康は信玄と断交、1569年には輝虎(足利義輝より一字を賜って改名)に和を請うてきた。これにより長年争ってきた北条氏と越相同盟を結ぶことになる。1570年、氏康の七男(異説あり)三郎を養子として迎えると、これを大いに気に入り、自らの初名である「景虎」を名乗らせた。また、同年、「不識庵謙信」と称している。
一方、1568年から本格的に越中攻めを開始、1576年には越中、翌年には能登を制圧し、加賀まで進んで手取川の夜戦で柴田勝家らの織田軍を一蹴する。十二月に帰国し、翌年三月には関東に出陣すべく準備を進めるが、三月九日、「不慮之虫気」のために厠で倒れ、十三日に、二人の養子、景勝と景虎のどちらを家督とするか定めぬまま死去。倒れたまま口もきけなかったとすれば脳卒中、昏睡状態だったとすれば脳溢血と思われる。かつては脳卒中とされていたが、最近は脳溢血とするものが多い。いずれにしろ、好きだった酒が命を縮めたことは疑いない。
口がきける状態ではなかったが、辞世とされているのが次の詩である(諸書で異同がある)
一期の栄は一盃の酒
四十九年は一酔の間
生を知らず死また知らず
歳月またこれ夢中の如し
他に伝わる辞世として、以下の歌がある。
極楽も地獄も先は有明の月ぞ心に掛る雲なき
またドラマや映画などでも引かれているが、春日山城の壁書も知られている。一部を掲げる。
運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌(たなごころ、手のひら)にして合戦すべし。疵(きず)つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり(略)
享年は信長と同じ四十九歳。
■上杉謙信3
1557年には信玄と三度、川中島で争う。その後、越中へも出兵するが、1560年以降は関東での戦いも増えていく。1560年には上野厩橋城に入り、北条討伐の軍勢を集め、翌年の三月には十万の兵で北条氏の本拠である小田原城を囲む。この間、鎌倉の鶴岡八幡宮において上杉憲政から山内上杉氏の家督と関東管領職を相続し、上杉政虎と改めた。その後、越後に引き返すと、信濃の武田軍を駆逐すべく出兵。四度目の川中島の戦いである。この戦いの詳細は不明であるが、信玄の弟信繁や山本勘助を討ち取るなど、少なくとも戦術的には上杉軍の勝利とされる。
以後は連年関東に出兵、北条氏、武田氏と争うが、信玄が今川氏を攻めると、北条氏康は信玄と断交、1569年には輝虎(足利義輝より一字を賜って改名)に和を請うてきた。これにより長年争ってきた北条氏と越相同盟を結ぶことになる。1570年、氏康の七男(異説あり)三郎を養子として迎えると、これを大いに気に入り、自らの初名である「景虎」を名乗らせた。また、同年、「不識庵謙信」と称している。
一方、1568年から本格的に越中攻めを開始、1576年には越中、翌年には能登を制圧し、加賀まで進んで手取川の夜戦で柴田勝家らの織田軍を一蹴する。十二月に帰国し、翌年三月には関東に出陣すべく準備を進めるが、三月九日、「不慮之虫気」のために厠で倒れ、十三日に、二人の養子、景勝と景虎のどちらを家督とするか定めぬまま死去。倒れたまま口もきけなかったとすれば脳卒中、昏睡状態だったとすれば脳溢血と思われる。かつては脳卒中とされていたが、最近は脳溢血とするものが多い。いずれにしろ、好きだった酒が命を縮めたことは疑いない。
口がきける状態ではなかったが、辞世とされているのが次の詩である(諸書で異同がある)
一期の栄は一盃の酒
四十九年は一酔の間
生を知らず死また知らず
歳月またこれ夢中の如し
他に伝わる辞世として、以下の歌がある。
極楽も地獄も先は有明の月ぞ心に掛る雲なき
またドラマや映画などでも引かれているが、春日山城の壁書も知られている。一部を掲げる。
運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌(たなごころ、手のひら)にして合戦すべし。疵(きず)つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり(略)
享年は信長と同じ四十九歳。