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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」外伝

「羽柴」の名乗りについての考察・5

秀吉が名乗った「羽柴」については丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ取った、という話を(みなさんが知っていることを)前提にしていますが、この話を疑ってみようと長い前振りをしているわけです。先に下の名前をもらう例を見てきましたが、上の名前をもらう例は極めてまれです。

主君の名字を称することを許される(賜る)例はあります。姫路城の築城(改修)で知られる池田輝政(初名は照政)は秀吉から厚遇され羽柴姓や豊臣姓を許されましたし、家康からも松平姓を許されました。具体的には三河吉田を領していたときには、「羽柴吉田侍従」などと通称されましたが、羽柴姓を賜った(許された)だけで、池田姓から改姓したわけではありません。秀吉や家康も、自分の姓を与えて家臣化、差別化を図っただけのことです。

※本来、「姓」と「名字(苗字)」は別のものだが、話が難しくなるので、ここではあえて区別していない。

それでは他人の名字をもらって、そのまま自分の名字にした例はないのかと言えば、ないことはありません。以下に二つ掲げます。

後北条氏(小田原北条氏)
鎌倉幕府の執権を務めた北条氏も、室町幕府の執事を務めた伊勢氏も平氏を称したので、遠い親戚ではありますが、先祖、子孫の関係にはなく、その点では無関係であるのに、他人の名字を称した(冒した)例がこの後北条氏(ごほうじょうし)です。後北条氏というのは鎌倉時代の北条氏と区別して呼んでいるだけで、当時、「後北条氏康」などと名乗ったわけではありません。

近年、伊勢宗瑞(いわゆる「北条早雲」)の下剋上については、一介の素浪人説は否定され、今川家や中央の幕府との連動も指摘されています。また、北条氏を称したのは宗瑞の子氏綱(氏康の父)からとされています。関東で勢力を扶植させるには「伊勢氏」よりも「北条氏」の方が都合がよかったのでしょう。なお、そもそもの「北条」の名は伊豆田方郡北条郷の地名に由来します。

※中先代の乱を起こした北条時行(高時の子)の子孫と早雲が縁組して北条氏を称したという説もあるが、後世の創作と思われ、疑わしい。

松前氏
蝦夷地にいるマゾプレイヤー御用達の戦国大名。もとは武田氏の子孫を称する蠣崎(かきざき)という名字でしたが、1599年、慶広のときに松前氏を称しました。このときの逸話が豊臣政権の二大巨頭であった松平の「松」と前田の「前」を取って「松前」としたというものです。しかし、慶広が松前氏を称する以前から蝦夷地の「松前」という地を本拠としており、地名に由来すると考えた方が自然です。徳川家康と前田利家から一字ずつ取ったというのは後付けの話と思われます(本人や子孫がこじつけた可能性も否定できませんが)。なぜ「徳前」でないのでしょうか。

他に、秀吉により改姓させられた話が残るのが、伊達家に仕えた鬼庭綱元。もともと先祖は茂庭姓でしたが、大蛇を退治して鬼庭に改めたと伝えられています。秀吉からは「鬼が庭にいるのは縁起がよくない」として元の茂庭に戻されたと言います。ただ、これなどは、いずれ地名の改名の話をしますが、「浮田」が「宇喜多」になったように、縁起の悪い字を縁起のいい字(佳字)に改める例に近いかもしれません。

現在では、裁判所でも改姓はなかなか認められませんが、縁起のいい字への改名はスポーツ選手などでもたまにありますよね。
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「戦国人物紹介」外伝

「羽柴」の名乗りについての考察・4

前回、上の名前(名字)について少し話しましたが、日本人の場合、名字を変えること自体は珍しいことではないんですよね。

日本の場合は、地名に由来する名前(苗字)が非常に多いんですね。発祥の地を「名字の地」とも言います。一つ注目しておきたいのは、名字の地とのちの勢力地が必ずしも一致しないということです。

伊達氏は藤原氏の子孫を称していますが、頼朝の奥州征伐で軍功があり、陸奥伊達郡を与えられて伊達氏を称しました。毛利氏も大江氏(大江広元の子孫)と伝えられていますが、広元の子が相模愛田郡毛利荘を領したことから毛利氏を称しました。その子が越後に所領を持ち、越後の毛利氏は北条(きたじょう)氏などの祖となります。もう一人の子は安芸の所領を譲られて安芸に移ります。鎌倉時代にまでさかのぼる話です。

以下に代表的な例を見てみましょう。いかに地名に由来する名字が多いかおわかりいただけると思います。

津軽(陸奥津軽郡)、南部(甲斐巨摩郡南部)、伊達(陸奥伊達郡)、
秋田(秋田城介の官名、いずれにせよ出羽秋田郡から)、
最上(出羽最上郡)、蘆名(相模蘆名)、佐竹(常陸久慈郡佐竹)、
宇都宮(宇都宮別当職から、下野宇都宮)、結城(下総結城)、
里見(上野碓氷郡里見郷)、武田(甲斐巨摩郡武田、あるいは常陸那珂郡武田郷)、
小笠原(甲斐巨摩郡小笠原)、村上(信濃更級郡村上)、
上杉(丹波何鹿郡上杉庄)、長尾(相模鎌倉郡長尾庄)、
畠山(武蔵男衾郡畠山郷)、今川(三河幡豆郡今川荘)、
松平(三河加茂郡松平郷)、織田(越前丹生郡織田荘、地名としては「おた」)、
土岐(美濃土岐郡)、浅井(近江浅井郡)、朝倉(但馬養父郡朝倉)、
一色(三河碧海郡吉良庄一色、吉良氏とは同族)、北畠(山城、洛北の地名から)、
六角(京の六角から、佐々木氏の子孫で京極氏と同族)、
三好(小笠原氏の一族、阿波三好郡)、赤松(播磨赤穂郡、あるいは佐用郡赤松村)、
山名(新田氏の一族、上野多胡郡山名郷)、
尼子(佐々木氏の一族、近江犬上郡尼子郷)、
大内(もと多々良氏、周防吉敷郡大内)、毛利(相模愛甲郡毛利庄)、
長宗我部(土佐長岡郡宗我部郷、長岡郡の宗我部氏の意味)、河野(伊予風早郡河野郷)、
大友(相模大友郷、始祖については諸説ある)、立花(筑前糟屋郡立花)、
龍造寺(肥前佐賀郡小津郷龍造寺)、相良(遠江榛原郡相良庄)、
肝付(大隅肝付郡)、伊東(伊豆田方郡伊東庄)、島津(日向諸県郡島津庄)

注:「庄」と「荘」は厳密には区別していない。
  北条は後日取り上げます。斎藤は「斎宮頭の藤原氏」の略で官職名から。

このブログを読んでいる人で、「旗本の三男坊の子孫だ」とか「とある貴族の末裔で」という人はいないと思いますが、武家や公家の出でなくても、明治以前から名字があった家って意外と多いと思うんですよね。いわゆる武士の特権として「苗字(名字)、帯刀」というのがありましたが、農民や町人も公称はしなかっただけで、苗字(名字)を持っていた例は多くあります。私も確認してみましたが、父方は少なくとも元禄年間からいまの名字でしたし、母方も戸籍謄本を調べると江戸時代末期にはいまの名字だったことが確認できました。明治新政府になって、四民平等となり、平民にも苗字の公称が許されたので、それまで苗字がなかった人々が新たに苗字を作ったというのは全体の話ではありません。
「戦国人物紹介」外伝

「羽柴」の名乗りについての考察・3

同じ名前をつけた例を見てきましたが、逆の例もあります。織田信長以前に「信長」という名はありますが、江戸時代に「信長」という名をつけることは避けられたといいます。江戸時代の系図では「秀吉」「家康」という名も見ません。おそらく、これらの名は禁忌とされたのでしょう。

同姓同名の話を続けますが、先祖、子孫の関係ではありませんが、以下の人々が同姓同名です。

松平家忠(1547-82)、形原松平家、家広の子。紀伊守。家康のいとこに当たる。
松平家忠(1555-1600)、深溝(ふこうず、ふこうぞ)松平家、伊忠の子。主殿助。関ヶ原の戦いでは鳥居元忠らと伏見城を守り戦死。『家忠日記』を遺したことで知られる。
松平家忠(1556-81)、東条松平家、忠茂の子。深溝松平家忠の妹婿。若くして病死したため、東条松平家は家康の四男忠吉が継いだ。

武田信繁(1390-1465)、安芸武田氏の当主。子孫に若狭武田氏。
武田信繁(1525-61)、武田信虎の子で信玄(晴信)の弟。左馬助の唐名である「典厩(てんきゅう)」と呼ばれる。川中島の戦いで戦死。

牧野康成(1548-99)、名は「やすしげ」と読む。定成の子。子の信成は下総関宿藩主。子孫は転封を経て常陸笠間で廃藩を迎えた。
牧野康成(1555-1609)、名は「やすなり」と読む。成定の子。初め貞成で家康より一字を賜って康成と名乗ったという。孫にも同名の康成がいる。関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、上田城攻めに参加したが、軍令違反により蟄居させられた。子孫は上野大胡から転封を経て越後長岡で廃藩となる。幕末に河井継之助を出したことで知られる。

松平氏は「十八松平」と言われるほど支流が多く、武田氏も甲斐以外に安芸や若狭にも支流がいたことから、同姓同名が出てきたのも仕方ないのかもしれません。本家に対して、この名前を使ってよろしいでしょうか、といちいちお伺いを立てていたわけではないでしょう。

江戸時代になると、「酒井忠勝」という同姓同名の二人が知られています。酒井氏というと松平氏と祖先を同じくすると言われ、大きく二つの系統に分かれます。戦国時代には酒井忠次が有名ですが、彼は左衛門尉(さえもんのじょう)家の出身です。孫に出羽庄内藩主の酒井忠勝(1594-1647)が出ます。ちなみに、忠次の三代前にも「忠勝」という人物がいます。もう一つの系統が雅楽頭(うたのかみ)家で、のちに下馬将軍と言われて権勢を振るった大老酒井忠清を出しています。この雅楽頭家の分家で若狭小浜藩主に酒井忠勝(1587-1662)という人物がおり、老中、大老を務めました。本多忠勝にあやかったわけではないでしょうが、「忠」は「忠義」に、「勝」は「勝利」に通じますから、縁起のよい字としてどこの家でもよく使われた字なのでしょう。信長の長男は信忠ですし、家康の三男も秀忠、信玄の四男は勝頼、謙信の養子も景勝と名乗っています。この二人の酒井忠勝、同時代の同姓同名ですが、普段は宮内大輔様、讃岐守様などと役職名で呼び分けていたでしょうから、支障はなかったでしょう。直接名前を呼ぶことは失礼であって、現代でも役職名で呼ぶことが多いというのは以前書いたとおりです。

ちなみに、中国や朝鮮では名字(姓)の数自体が少なく、中国では約五千と言われています。「張三李四」という言葉がありますが(張家の三男と李家の四男の意味で、どこにでもいる平凡な人物のこと)、張さんや李さん、王さんだけでそれぞれ一億人近くいます。韓国の姓は数百と言われ、数の多い上位五つの姓だけで人口の過半を占めています。また、中国も朝鮮も一字姓が多く、諸葛さんや司馬さん、公孫さんといった二字の姓は珍しい部類に入ります。姓が一字で名前も一字にしてしまうと、同じ名前の人だらけになってしまうため、近年では二字の名前にする例が多いと言われています。中国の最近の指導部を見てもおわかりいただけると思います(毛沢東も周恩来も二字の名前ですが)。

一方、日本では自分の領地の名前を名字(苗字)にする例が多く、割と簡単に名字を変えてしまう傾向にあり、名字の数は二十万とも三十万とも言われます。とはいえ、やはり人と同じ名前をつけるのは避ける傾向にあります(その時代での流行というものはありますが)。坂本龍馬(この人が政治的に何事かなした人か知りませんが)にあこがれて、自分の子供に「龍馬」と名付けるなどといった話は近年になってからです。演劇や落語などの芸能関係の人や社長職などの襲名は別として、一族内でも先祖とまったく同じ名前をつける例はいまもほとんどないでしょう。

戦国時代に話を戻しますが、この時代にほとんど唯一の例外として、いろいろな家で名乗った例があるのが「長政」という名前です。浅井長政、浅野長政、黒田長政などが有名ですが、ほかにも系図を見ると「長政」という名前は多くあります。みな浅井長政にあやかったわけではないと思いますが、「政(まつりごと)に長じる」という願いが込められているのかもしれません。

ここまで先に下の名前についての話をしましたが、名前をもらうというのは珍しいことです。家臣が主君から一字をもらう例は少なくありませんが、まったく同じ名前にするのは一族やきわめて親しい間柄のときに限られます。そして、次回から上の名前(名字)の話をしますが、上の名前となるとさらにほとんど例がありません。
GW突入スペシャル!w

「戦国人物紹介」外伝

「羽柴」の名乗りについての考察・2

同じ名前を名乗る、もらう
前回は一字を賜るという話をしましたが、「羽柴」の名乗りについての考察から少し離れて、まれな部類ですが、同じ名前をつけた例を見てみましょう。

伊達政宗(藤次郎、仙台藩主)
独眼竜の渾名で有名ですが、彼の名は伊達氏中興の祖であるご先祖様、大膳大夫政宗にあやかったものです。先祖とまったく同じ名前です。

佐竹義重
十八代目の当主は鬼義重として知られていますが、鎌倉時代の先祖(四代目当主)に義重という人物がいます。また佐竹氏の歴代当主には義宣、義篤という人物も二人います。

相馬盛胤、義胤
盛胤-顕胤-盛胤-義胤-利胤-義胤と続きます。平将門の子孫と言われ、下総を本領としましたが、のちに一族が陸奥行方郡に移ります。たびたび伊達氏と争いましたが最後まで屈服せず、義胤が秀吉の小田原攻めに参陣し、陸奥の所領を安堵されます。関ヶ原の戦いでは長年に渡る伊達氏との確執から上杉征伐に参加しなかったため、所領を没収されましたが、子の利胤が家名再興を願い出て家名再興を果たします。子孫は陸奥中村(相馬)藩主として廃藩を迎えます。古くからの馬産地として知られ、相馬の野馬追いの伝統行事が知られています。





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伊達氏と縁戚関係にあるが、政宗とは激しく争う。周囲が伊達氏の支配下に入ってもなお戦い続け、所領を死守した。秀吉の小田原攻めに救われる。

岩城親隆、常隆
陸奥の磐城(現福島県いわき市)を領した岩城氏ですが、親隆-常隆という父子の子孫に親隆-常隆という同じ名前の父子がいます。岩城氏は桓武平氏の血を引くと言われ、一時は佐竹氏の内紛に介入するほどの勢力を持ちますが、のち佐竹氏や伊達氏の勢力拡大に圧迫され、佐竹氏からの養子を迎えます。直系の子孫は伊達氏の家臣になりますが、佐竹氏の系統が続いていた出羽亀田藩二万石の岩城氏を継いで直系が復活します。幕末は奥羽越列藩同盟に参加しますが、佐竹氏の久保田藩の呼びかけで同盟を脱退して新政府軍に味方します。しかし庄内藩に敗れて和議を結び、今度は庄内藩とともに新政府軍と戦いますが、敗れて降伏、二千石を減封されて明治を迎えます。

上杉景虎
上杉謙信(長尾景虎)の養子。謙信が気に入って自分と同じ名を名乗らせたといいます。なお、一般に、謙信は長尾景虎から上杉政虎(関東管領上杉憲政から「政」の字を与えられる)に改名したとされているので、謙信が「上杉景虎」と名乗ったことはありません(政虎と改名する前にすでに上杉氏に改めていたという説はある)。

朝倉孝景
教科書にも載っている分国法「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」を定めた人物として有名ですが(ただし、彼が定めたかどうかについては疑問を呈する説も多い)、彼の名乗りは、教景、敏景、孝景などと変わっており、孝景は義景(例のアレ)の父も名乗っています。また朝倉宗滴の名は「教景」で父が一時期名乗っていた名前と同じです。朝倉氏の家系は異同が多いのですが、氏景や貞景といった名前は複数あります。



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例のアレ。評価しようというつわものはいないか?w

松浦隆信
名字は「まつら」と読みます。出家名から先代を道可、後代を宗陽とも呼び分けます。有名なのは先代の方で(後代は肥前平戸藩の三代目藩主)、平戸を開いてポルトガルとの交易をおこないました。子が鎮信(法印)です。なお、三代目藩主隆信の子も鎮信(天祥)といいます。松浦氏は嵯峨源氏渡辺氏の流れを組み、渡辺綱(大江山の酒呑童子退治で有名)の子孫と伝えられます。渡辺綱(わたなべのつな)もそうですが、子孫には一字名の人物が多く、松浦隆信や鎮信の前後は例外ですが、平戸藩主も幕末の松浦詮など一字名の人物がおり、この時代としては珍しい名前と思われていたようです。ちなみに龍造寺隆信が同じ名前ですが、こちらは初名が胤信で、大内義隆から一字を賜って隆信と名乗りました。

河野通直
同姓同名の極めつけはこの人(人々)。河野氏は河野水軍で有名な伊予の豪族で、源平合戦、元寇でも活躍しました。河野通直と名乗る人物は多数おり(一説に四人)、朝倉孝景(敏景)のように中途で改名した者もいるようですが、当時は官名で区別したのでしょうか。河野通宣と名乗る人物も複数おり、こうなってくると芸能界の襲名のようです。

島津家久
貴久の四男中務大輔と貴久の二男義弘(朝鮮出兵での鬼島津、関ヶ原の退き口などで有名)の三男で初代の薩摩藩主の名が家久で同名です。後者は初名を忠恒をといい、のちに家康から一字を賜って家久と改名したと伝えられていますが、一説には島津家最強と謳われた叔父家久にあやかったとも言われています。



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大友家との耳川の戦い、龍造寺家との沖田畷の戦い、豊臣家との戸次川の戦いなど数々の戦捷は特筆に値する。

織田信秀
信長の父(備後守)と信長の六男(侍従)が同名。後者は信長の嫡孫秀信などと同様に秀吉から一字を与えられたものでしょうか。島津家久の場合もそうですが、権力者から一字を与えられるに際して「一族の者と同じ名前になりますので」という断り方はできなかったようです。

石松丸秀勝、羽柴秀勝、豊臣秀勝
石松丸は秀吉の近江長浜時代にできた子と言われますが幼くして死去します。秀吉にとっては初めての子であり、よほど思い入れがあったのか、信長の四男で養子に迎えた子於次にも秀勝と名乗らせています。この羽柴秀勝も十代で病死したため、今度は甥で秀次の弟に当たる小吉にも秀勝と名乗らせています。妻は浅井長政の三女であるお江です。朝鮮出兵では渡海しますが巨済島で病死。以後、秀吉は秀勝の名を使わなくなり、翌年もうけた子には秀頼と名付けています。

真田信繁(幸村)
もと武田家に仕えていた父昌幸が尊敬していた武田信繁(信玄の弟、典厩)にあやかって信繁と名付けたと言います。別の家の人物の名をそのままもらうのはたいへん珍しい。



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島津家にも「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と絶賛された。
「戦国人物紹介」外伝

199 豊臣秀吉 【とよとみひでよし】

「羽柴」の名乗りについての考察・1

下の名前をもらう
人から字をもらうということですが、先に下の名前について考えてみましょう。家臣が主君から一字を賜ることはよくあることで、「偏諱(へんき)」「諱(いみな)」というものです。戦国大名が足利将軍家から一字を賜った例は東北から九州まで数多くあります。 例えば足利義輝の偏諱を賜ったものとしては、伊達輝宗(政宗の父)、上杉輝虎(謙信)、毛利輝元など。義輝の初名は義藤ですが、「藤」の字を賜ったのが細川藤孝(幽斎)など。武田義信など、「義」の字を賜った例も多くあります。ただし、通常、賜った字を下につけることはありません。主君の名前の下の字を賜って、自分の名前の上につけることが多く、自分の名前の下の字はその家の「通字」になる例が多く見られます。

具体的に見てみましょう。独眼竜政宗で有名な伊達氏から。この「政宗」は中興の祖であるご先祖様にあやかってつけた名前で(後日別途記述)、ご先祖様の方は官職から大膳大夫政宗と呼ばれます(銀閣寺、応仁の乱で知られる足利義政とは無関係)。大膳大夫政宗以降の系譜は以下のようになっています。なお、伊達氏の場合は「宗」の字が通字です(必ずつくというわけではない)。

政宗(大膳大夫)-氏宗-持宗-成宗-尚宗-稙宗-晴宗-輝宗-政宗

氏宗:鎌倉公方足利氏満から一字を賜る。
持宗:鎌倉公方足利持氏ではなく四代将軍足利義持から一字を賜ったと思われる。
成氏:古河公方足利成氏と思われるが、そうなると「なりうじ」ではなく、「しげうじ」と読むことになる。
尚宗:九代足利義尚から。「よしひさ」なので「なおむね」でなく「ひさむね」と読む。
稙宗、晴宗、輝宗:十代義稙、十二代義晴、十三代義輝から。

ちなみに、政宗の子ですが、庶長子は秀吉から一字を賜って秀宗と名乗りましたが、本家を継げず、大坂の陣後に伊予宇和島を与えられました。幕末の藩主が四侯会議に参加した宗城(むねなり)です。一方、政宗の二男(正室の子)は徳川秀忠より一字を賜って忠宗と名乗り、仙台藩の藩主を継ぎます。



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剣豪将軍。名刀蒐集家。



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子政宗の器量を早くから見抜いていましたが、凶刃に斃れます。


もう一つ、毛利氏の例を見てみましょう。毛利氏と言えば、陶晴賢(隆房)との厳島の戦い、三本の矢の逸話などで有名なのが元就(戦国随一の謀将と評してよい)ですが、元就の前後はこのようになっています。

煕元-豊元-弘元-元就-隆元-輝元

煕元、豊元:山名氏からの偏諱。
弘元:大内政弘(義隆の祖父)から。
隆元:大内義隆から。
輝元:足利義輝から。

毛利氏が独立する前は、山名氏や大内氏に属していたことがわかります。そういえば、元就はというと、この人は二男なんですね(二男だから偏諱がないということではない)。元就の兄は興元といって、大内義興(義隆の父)から一字を賜っていますが若くして死去します。その子幸松丸も九歳で死去したため、元就が毛利氏の家督を継ぐことになります。



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まさかの眼鏡武将w 終わりがよくないので評価は低いが、実力はもっと評価されてよい。



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偉大な父の陰に隠れた名将。長州が維新を成し遂げた陰の功労者。


「諱」が中央の政権や有力者とのつながりを示すものであること、また上下関係を表すものなので、基本的には、もらった字を下にはつけないことがおわかりいただけたでしょうか。
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